合宿も三日目、由乃は、祐巳さんと早朝勉強をした。
やっと課題分を終え、休憩に入る。
軽い充足感に会話も途絶え、セミの声が部屋の中まで、満たすように思えた。
その時、二人は、ふと、顔を上げ縁側の向こう、生け垣のかなたを眺めた。
「何か、来る」
「!」
祐巳さんの予言に、由乃は驚いた。自分も全く同じ事を、感じていたから。
すぐに、それは、かすかな、排気音と振動を感じたからだと、わかる。
やがて、大きな車が、門を越え、進入してくるのが見えた。
「どどど」
その車が見えた瞬間、祐巳さんは立ちあがった。
「どうしたの?」
由乃は、車が入ってきたことよりも、友の反応に驚いた。
一昨晩の、発作(?)がまた、起こったのか、と思った。
「お姉さま!」
「祥子さま?」
来られないっておっしゃてなかったか?あ、行けるかどうか、わからない、だっけ?
祐巳さんは、縁側から、サンダルをひっかけ、飛び出して行った。
久しぶりに、飼い主に会った、犬のようだった。
つい、五日前まで、別荘で一緒だったはずなのだが。
由乃は、一応自分も挨拶しなきゃなと、大儀そうに立ち上がった。
「よく、ご無事で」と、ぴょんこぴょんこ、はね回る友に苦笑しながら、そばに寄る。
「ごきげんよう、祥子さま」
「ごきげんよう、由乃ちゃん」かっての女帝は、優雅に立ち、ほほえんだ。
「由乃ちゃんには、おみやげを持ってきたわよ」
由乃は、その時すでに、助手席の人影に気がついていた。
「令ちゃん!」ぐったりして、いまだに降りてこない姉のもとへ、走る。
「大丈夫なの!?」
「おおげさねえ、ちょっと車に酔っただけじゃないの」
そりゃ、祥子さまはお元気そうですけど。
車に酔っただけで、ここまで人間の顔色は悪くなるものなのか?
「よ、し、の、」息絶え絶えに、反応する。
「よかった…私、まだ、生きてるっ…」
「令ちゃん、しっかりしてーっ!」セミの声も、一瞬、鳴きやんだ。
二人の、元薔薇さまの参加で、だれかかっていた合宿の雰囲気が、また盛り上がった。
菜々は、由乃よりも、かいがいしく令ちゃんの介抱をした。由乃は、介抱される経験は
あっても、した経験はないので、まかせることにした。
志摩子さんは、二人の顔を見て、本当になつかしそうだった。学年は違っても、
同じ薔薇さまとして、活動してきたのだ。単なる先輩以上の、大切な仲間として。
(令ちゃんと肩を並べて歩いてたんだ)由乃は、志摩子さんに少し嫉妬した。
祥子さまと、祐巳さんは、早速、海に行くようだ。お互いの水着姿を早く見たいらしい。
瞳子ちゃんは、あまり、面白くなさそうに後をついていった。
「私、黄薔薇さ…、令さまにお会いできたら、一言申し上げたいことがあったんですよ」
「私…、菜々ちゃんに何かしたっけ?」
「卒業式の時のことです」
「あー抱き上げたこと?で、それを武嶋蔦子に撮られて、皆に見られたこと?」
「どうして、わかるんですかっ!?」
「ちさとちゃんから、同じ事で、抗議の電話がきた」
「部長にも手を、出していたんですかっ!?」
「あ、やっぱり、ちさとちゃん部長になったんだ。もう肝心な事は言わないんだから、由乃は」
「たまには、剣道部にも、顔見せてくださいよ」
「やだ、面倒くさい。それより菜々ちゃんがウチの道場においでよ。竹刀や防具は貸したげるから手ぶらでさ」
「えっ、いいんですか?」菜々はあいかわらず、支倉令の大ファンだった。
体調復帰した令さまが作られた昼食は、絶品だった。
志摩子さんが作る和食は、おいしかったが、高校生には、渋すぎた。
「おいしいですー」菜々ちゃんは、特に感激していた。
「ほんと、令をお嫁にもらいたいわ」祥子さまは、親友を妖しい眼でみつめた。
(よかった、おかげで今日は瞳子の創作手料理がない)祐巳は、ほっとした。
初日、妹の作った料理の皿だけ、なかなか減らないので、祐巳は、姉の責任と
して、集中して食べた。自分の料理に、皆の箸がのびないのを、悲しそうに見て
いたから。すると、妹は、姉に気に入られたと、誤解して、また作った。
由乃さんは(やっちゃったね)と言う目でみていたが、手伝ってはくれなかった。
食後の腹ごなしに、ビーチバレーをした。令さまが入るとやたらと本格的になった。
夕食まで、薔薇の色別に、勉強会になった。祐巳は祥子さまに、よく勉強しているようね、
と誉められ、舞い上がった。瞳子は、がむしゃらに勉強するタイプのようで、教科書の書き込みの多さに祐巳は驚いた。
令さまは、由乃さんの弱点や理解度を知り尽くしているのか、的確に個人指導していた。
菜々ちゃんは勘違いして三年生の問題集を解いていた。驚いた事にほとんど正解だった。
白薔薇姉妹は、やけに静かだと思ったら、二人とも、すごい集中力だった。
目は文字を追いながら、ノートをとる手は、一瞬たりとも止まらない。
みんな、さすがだなあ、と祐巳は思った。
その晩の事件は、風呂場でおこった。
「キャアーッ!!」
すぐに、皆、集まった。絹をさくようなって、こういう声をいうんだな、と祐巳は思った。
皆、誰の声かわからなかった。
ガラス戸のむこうに、背の高いスレンダーなシルエットが見えた。
「ごっ、ごっ、ごきっ」
「ごきげんよう?」
「ごきぶりよーっ」
なんと、令さまが、全裸で飛び出してきた。
皆、息を呑んで立ち尽くした。
志摩子さんの水着姿に、負けない、いやそれ以上のインパクトがあった。
由乃さんは、姉の醜態をなんとかしようとタオルを手にしたが、ゴキブリが怖いのか、
なかなか、近づけない。
すると、菜々ちゃんが、まったく気負わずに浴室に入ると、片手に持ったティッシュで、
なにげなく
「ソレ」をつかんだ。
そして、脱衣場に戻ると、ティッシュを持ったまま、令さまにぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありません。古い家ですので、たまに出るんです」
ティッシュから触角がのぞいて、まだ動いていた。
令さまは、黙って首をブンブンとふった。
「殺虫剤をまいておきますので、もう、出ないと思います。ご入浴お続け下さい」
言葉遣いはていねいだが、視線は令さまの身体を遠慮なく、犯していた。
「…」
「ほら」「ひっ」
ティッシュを令さまのほうに、突き出す。
「ほら」「ひいっ」
「あほかーっ!」
由乃さんが、妹の頭をタオルではたいた。
「はっ、すみません。つい我を忘れてしまいました」
令さまは、今日はダブルパンチで、本当にぐったりしていた。厄日に違いない。
菜々ちゃんは、以降、みんなから尊敬と畏怖のこもった目で、みられた。
由乃さんは、(菜々、怖ろしい子…)と、つぶやいた。