祐巳は切なかった。

志摩子さんは、あいかわらず柏木さんと話しをすると、すぐ、顔が赤くなる。

すごい美人なのに、その純情すぎる反応に、祐巳は感動すら覚えた。

けれど、柏木さんは、当然、気がついているはずなのに、態度がまったく変わらない。

(ちょっと、それはないんじゃない?)

志摩子さんの相手に、柏木さんが適していると考えているわけではない。

なにせ、あの融おじさまや、小笠原の会長と、(堂々と愛人の元へ行くような人達と)

血がつながっているのだ。

いざとなれば、反対するのにやぶさかではない。

それでも、志摩子さんが、あの志摩子さんが、多少なりとも、好意を示したのなら

、男ならメロメロになるのが、礼儀ってもんじゃないのか。

祐巳は、柏木さんを、にらみつける機会が増えた。

 

志摩子は、とまどっていた。

柏木さんに、名を呼ばれるたびに、ドキリとする。

「志摩子ちゃん」

「はいっ!」

「…そんなに、おびえなくても。かみついたりしないよ?」

柏木さんは、困ったような顔で、にやけた。

志摩子は子供のころ見た映画の男優を思い出していた。

(そう、あれは、たしか「風とともに去りぬ」だったわ)

 

由乃は、どうしたもんかなあ、と悩んでいた。

祐巳さんと違って、柏木さんの本命が誰かを自分は知っている。

それは、志摩子さんも、また同じはず。

それでも、気持ちが、そうなるのを止められなかったというわけか。

(しのぶれど、色に出にけり…とは、よく言ったもんだわ)

だから、由乃は志摩子さんに、気持ちを聞くことができなかった。

志摩子さんも、決して自分からは、行動を起こさないだろう。

しかし、柏木さんのほうは、どうだろう?

なにせ、あれだけの美人がバレバレの態度なのだ。

(据え膳食わぬは何とか…とか言うし)

意外に女性に奥手だ、という瞳子ちゃんからの情報も、逆に不安だった。

相手を傷つけないように、うまくあしらえる技術を持っているだろうか?

(今までの態度は、武士は食わねど高楊枝ってことだったのかしら)

由乃は剣客小説の読みすぎで、表現がいちいち古くさかった。

 

柏木優は、後悔していた。

瞳子に、家庭教師の話しをしたときは、こんな事になるとは予想できなかった。

祐巳ちゃんと、いきなり親しくなる展開などを、期待していたわけではない。

ただ、福沢家に自然と出入りし、ご両親の、さらなる信頼を勝ち取る。それが目的だった。

いわば、外堀を埋める作戦だったのだ。

それが何だ、この現状は?

島津家のお母上に気に入られてどうする。

最近は、支倉家のお母上まで、何かと理由をつけては、のぞきにくる始末だ。

つい、愛想笑いをして、好青年を演じてしまう自分が、うらめしい。

それでも、いったん引き受けた以上は、責任を持って家庭教師の役目は果たすつもりだ。

幸い、生徒たちは全員素直で、思っていたより優秀だった。

志摩子ちゃんが赤面症であるのは意外だったが、成績も全員、順調に上がってきた。

それなのに、自分はどうして祐巳ちゃんに、にらまれなければならないのだろうか?

彼は、ツインテールの少女の横顔をながめて、ためいきをついた。

 

そのうち、祐巳と由乃は、奇妙なことに気がついた。

志摩子さんは、柏木さんが、話しかけた時にのみ赤くなるのだ。

 

…志摩子は、上級生からも「ちゃん」づけで呼ばれたことは一度も、なかった。

「志摩子」と呼び捨てか、「志摩子さん」、もしくは「白薔薇のつぼみ」…

柏木さんは、祐巳さんや由乃さんを、ちゃんづけで呼んでいる。

それと同じ要領なのだろう。

柏木さん自身は、別にその事に、なにも感じていないに違いない。

 

「志摩子ちゃん」

 

ああ、ほら、また背中がかゆくなる。顔が熱くなる。

(だから、私はそんなキャラじゃないのに…)

 

志摩子は、目の前の男性が、自分と話していながら祐巳さんのほうに、

意識を集中しているのを承知していた。

この男性は一途だ。だから、人間として嫌いではない。

それでも、なんとか「ちゃん」づけで呼ぶのだけはやめてもらいたかった。

が、今更どう言えばよいのだろう?

「志摩子と呼んで下さい」では、いらぬ誤解を(おもに周囲に)よびそうだし、

「志摩子さんと…」では、上から目線すぎる。

いっそ、全員を薔薇の名前で、呼んでくれればいいのに、真剣にそう思った。

 

「…やっぱり、変だわ。同じノートをのぞきこんで、あんなに顔が接近しても平気だなんて」

「…私、あのままキスするんじゃないかって、ドキドキしちゃった」

「なに、見とれてるのよ。ねえ、私達、もしかして勘違いしてたんじゃないかしら…」

「どういうふうに?」

「志摩子さんが赤くなるのは、柏木さんが、なにかいやらしいことを、ささやいてるからかも」

「セクハラッ!?」

「シーッ、聞こえるわよ。…以前、バス停で、バカップルが路上キスしてた事があるのよ。

あの時も志摩子さんは、まっ赤になってたわ」

「でも、なんでそんなことを…」

「あの聖女のような志摩子さんが、頬を染める姿って女の私達が見ても、ゾクゾクとしない?」

「…ああ、乃梨子ちゃんなら、鼻血ものかも」

「そうとわかれば、現場を押さえるわよ」

由乃さんは、久しぶりの青信号に、猛然とダッシュした。

志摩子さんが、また赤くなったとき、強引に割り込んだ。

「ちょおっと待ったー!!」

鳩が豆鉄砲を食ったようなって、こういう顔を言うんだな、祐巳は二人を見てそう思った。

「志摩子さんっ、今、柏木さんに何を言われたの?」

「由乃ちゃん?一体、何を言っているんだい?僕は…」

「柏木さんは黙ってて!」

あ、まずいと、祐巳は思った。

「志摩子さん?恥ずかしがらずに言ってごらんなさい。私達はあなたの味方よ?」

「ええ?そう言われても、一体、何の事?」

「…そう、わかったわ。志摩子さんには、とても口に出せないような事なのね」

由乃さんは、切れ長の目で、家庭教師をにらんだ。

「私が不用意に提案したことから、こんな事態を招いてしまったんだわ」

くやしそうに、くちびるを噛む。

「あの、由乃さん‥」

「祐巳さんからも、なにか言ってやって!本人は一言も、弁解すらできないでいるのよ!」

「‥‥‥」

 

由乃さんの興奮がおさまり、冷静に話し合うと、すべての誤解はあっさり、解けた。

柏木さんは、今後、志摩子さんのことを、「藤堂さん」と呼ぶことになった。

初め、それじゃあ「シマコリン」と呼ぼうかというと、「それだけは絶対いやーっ!!」と

叫ばれたからである。

祐巳は、あの会議の時間があれば、いくつ英単語を覚えられただろう、と考えた。

                    …これを、作者は「とらぬ祐巳の皮算用」と呼ぶ。

                                 

                                               おしまい