乃梨子は日焼け止めを買い物カゴに詰め込むと、レジに向かった。

店員はギョッとしたが、乃梨子は考えこんでいて気づかなかった。

(紅薔薇さまは、たしかに怒っていらしたよなあ)

「…5670円になります。」乃梨子は万札を出すと袋を受け取り、そのまま帰ろうとした。

「お客様、お釣りです!」

(水着選びについて来ちゃだめ、とか意地悪されたし)

いくら考えても、理由は一つしか思いつかなかった。

瞳子との口げんかだ。

(妹のケンカに姉がでてくるのか)

乃梨子は姉である白薔薇さまにケンカしている事を話していない。

それなのに、瞳子は紅薔薇さまに話したらしい。その事も腹がたったが、

紅薔薇さまにも失望した。普通、仲裁にはいる立場じゃないのか

(苦労して手にいれた妹だから可愛いのかな)

瞳子一人でも、いい勝負のところに、薔薇さまが参戦されるとなると圧倒的にこちらが

不利だ。こちらの薔薇さまはまったく戦闘には不向きなお方だし、参戦されたら、

気になって乃梨子が充分に戦えない。では、代替兵力はどうか?初め可南子さんを

考えたが、瞳子とは戦えても、紅薔薇さまには決定的に弱い。

下手すると寝返る可能性もあるので、候補からはずした。

まあ、山百合会の合宿に参加させるのも元々無理はあるが。

あと、既存兵力として黄薔薇姉妹が存在する。菜々ちゃんをまきこむのは、さすがに

心が痛むので、残りは黄薔薇さまだ。

紅薔薇さまとは、親友ではあるが、それをいうなら、乃梨子の姉、白薔薇さまとも親友だ。さらに、瞳子とはキャラがかぶるせいか、普段からよく衝突している。

口でうまく、おだてあげ、少なくとも敵にまわさないようにしよう。

乃梨子はビニール袋に入った日焼け止めを、メリケンサックのようにブンブン振り回した。

コンビニの前で、たむろしていた男子中学生が道を開けた。

 

そんな乃梨子の闘志に対し、

紅薔薇さまこと、福沢祐巳は怒っていた事すら忘れていた。

学園祭の劇については、すでに腹案があった。

紅薔薇のつぼみこと、松平瞳子は、それなりの準備をしていた。

白薔薇のつぼみこと、二条乃梨子が、やると言ったことは必ずやる女であることを

知っていたからだ。

そして、親友の弱点も知り尽くしていた。白薔薇さまを人質にとるのだ。

そのための準備を着々と進めていた。

黄薔薇のつぼみこと、有馬菜々は、数ヶ月のつきあいとはいえ、先輩方の性格を

充分把握していたので、自分と、姉である黄薔薇さまに、実害が及ばないよう

対応策を用意していた。

彼女には合宿所が義父の実家であるという地の利があった。

黄薔薇さまこと、島津由乃は、その頃、何も考えていなかった。

 

有馬道場主の生家は、都心から意外に近かった。

電車とバスを乗り継げば、通勤圏内と、言えるほどだった。

想像通りの、堂々たる平屋の日本家屋で、部屋数は、ゆうに十五を数えた。

小笠原家のように、門から玄関まで森が続くというようなことはなかったが、

裏木戸を抜けると、白砂青松の海岸まですぐという抜群のロケーションだった。

ただし、海岸といっても、砂浜は30mほどのみで、松林に囲まれている。

そして、そこに出るには、有馬家の敷地を通るしかなく、ほぼ、プライベートビーチと

言って良かった。

門を入ると、菜々ちゃんの曾祖母にあたる女性に歓迎された。

今の時期、他の家族の方は、海外に出張されるそうで、留守居を慰問する意味も

あったらしい。食事は基本、自炊だが、徒歩5分のところに、スーパーマーケットや

ファミリーレストランがあり、食材の持参も必要なかった。

祐巳は自宅より、生活しやすいんじゃないかと思った。

客間として五室、用意されていたが、二室で十分だった。

ふすまを開けると、大広間のようになった。

邸内には、女性しかいないので、皆、かなりの軽装になった。

さすがに、全室に空調設備はなかったからである。

すぐに泳ぎに出ても良かったのだが、黄薔薇さまの体調を考えて一休みすることにした。

黄薔薇さまも、それを素直に受け入れた。

乃梨子は、移動中の紅薔薇さまとの会話を反芻していた。

それは、まったく従前通りの友好的なものだったので、戦線離脱されたのだと判断した。

薔薇さまとして、尊敬できる選択だなと思えた。

それでも、当初の予定通り、黄薔薇さまを懐柔する作戦にでた。

「黄薔薇さま、実は私、泳げないんですよ」

「ああ、そう言ってたね」

「…菜々ちゃんから、お聞きになられましたか?」

「え、いや合宿の話をしたとき、あんた達、話してたじゃん」

「聞こえてたんですか!? 」

「うん、瞳子ちゃんと、あなた、興奮して大声になっていたわよ?」

「…それは、失礼いたしました…」

それなら、紅薔薇さまが、乃梨子のカナヅチを知っていたのもうなづける。

「言っとくけど、私も、全く泳げないからねー」

心臓の手術をするまでは、プールの中に入ることすら禁じられていたとか。

あれ?

紅薔薇さまはそのことをご存知のはずなのに、どうして、遠泳競争を?

黄薔薇さまに疑問を提示すると、そりゃからかわれたのよ、と笑われた。

それに、よく考えると、志摩子さんもケンカのことを知っていることになる。

確認したかったが、朝から、瞳子が志摩子さんにベッタリとくっついていた。

自由研究に仏教を選んだとかで、小寓寺の来歴などを、聞いていた。

 

昼食後、そろって海岸にでた。

「この時期、沖にはクラゲがでるので、ロープの向こうには行かないで下さい。」

と、菜々は嘘をついた。ロープは義父に頼んで、足のつく範囲にはってもらった。

ビーチパラソルは、大きなものは隠して、小振りのものを三つ用意した。

自然と色別になった。菜々は、他の二つから、なるべく距離をとって、

お姉さまにくっついていた。

乃梨子は、お姉さまの水着姿を見るなり、ケンカのことを忘れてしまった。

ふざけたふりをして縦ロールにひっかけてやるつもりだった水鉄砲で、

自分の頭を冷やした。お姉さまの、白い肌に、執拗に日焼け止めを塗り込んだ。

気をつけないと黒薔薇さまになっちゃいますよ、といいながら。

 

瞳子は、白薔薇さまのそばに居る作戦を、その水着姿をみるなり断念した。

タオルを肩からかぶり、紅薔薇のパラソルにひきこもる。

お姉さまは、妹が戻ってきて嬉しそうだった。

そんなこんなで、初日の海はとりあえず、平和だった。

 

「乃梨子ちゃん、そのタトゥーなんだけど……」

「あっ、心配しないでください。シールなんで」

「あ、うん、そうみたいだね。ただ、白薔薇のマークはいいと思うんだけど、

『志摩子命』って、オーダーメイドなの

 

スーパーマーケットで食材を買って、わいわい言いながら帰る途中、住宅地に、

電器店の軽トラックがとまり、荷物の積みおろしをしていた。

どうやら、大型冷蔵庫の納品だったらしく、ひとかかえもある段ボール箱を、荷台から

降ろしていた。

瞳子は、お姉さまの足がふいに止まったので、不審に思い、顔を見た。

(貧血?) そのまま、倒れるのではないかと、心配になるほど真っ白な顔だった。

しかし、瞳子が支えようとする間もなく、お姉さまはふたたび、歩きだした。

まだ、少し硬い表情だったが、足取りはしっかりしていた。

夕食は、各々、得意料理を作った。お姉さまは、ミートボールを大量に作った。

高校生男子のいる家庭は、さすがに違うと、笑われていた。

瞳子には、二度目の味だったが、ひどくなつかしく感じられた。

入浴後、布団を敷くと、昼間の疲れもあってか、みんな、たちまち眠りに落ちた。

けれど数時間後、異様な声に全員が、飛び起きることになった。

(ママ?) 瞳子は、一瞬、自分が自宅にいると錯覚した。

その声は、お姉さまが、うなされている声だった。

「イヤ、イヤ」と、必死に抵抗しているようだった。

皆に抱き起こされて、覚醒したお姉さまは、しばらく口もきけなかった。

黄薔薇さまは、心配して涙まで流していたが、原因はわからないようだった。

瞳子には、思い当たることが、一つあった。

残酷なようだが、朝になって記憶があいまいになる前に確認しておきたかった。

「お姉さま、花寺の学園祭ですね」

お姉さまは、しばらく考えて「ああ、そうかもしれない」と答えた。

まわりの人々は、半分納得という顔をしていた。

実際には学園祭に参加していない瞳子だが、その分、優お兄さまから詳しい経緯を

聞いていた。お姉さまは、夕刻の段ボール箱を見て、当時のことを思い出したのだ。

(おのれ推理小説同好会め〜)

優お兄さまに言いつけて、ひどい目にあわせてやる。すると、お姉さまにとめられた。

あの人たちはもう罰をうけたから。

「でも、現にお姉さまは、いまでもこうやって苦しんでおられるではないですか!」

PTSDで訴えてやる。

「あの人たちが今一度罰せられたとしても、私にはもう関係ないことなんだ」

謝られて、もう、うらみはない。ただ、その時、こわかった、という気持ちだけが

今でも残っていて、きっかけがあれば、今日のように顔をだす。

「これは、私が一人で乗り越えなきゃいけない問題なんだ」

瞳子が、あまりにくやしそうにしていたからか、じゃあ手を握って一緒に寝てと、

逆に励まされた。

 

後日、その晩のことを、優お兄さまに報告をすると、期待はずれの答えが

返ってきた。

「難しいね」

「お兄さまの所属されていた同好会がしでかした事なのよ?責任感じないの?」

「祐巳ちゃんのいう通り、あいつらを罰しても、祐巳ちゃんは救われないよ」

「じゃあ、他の方法を考えて!」

「僕は精神科医でもカウンセラーでもないよ」

「でも、現実にお姉さまは、あんなにうなされるほど苦しんでらっしゃるのよ!」

「………お前は、祐巳ちゃんに、おばさまの苦しみを投影しているんじゃないのか」

「……ママのことは、関係ないわ」

「そうか?お前は祐巳ちゃんの事で、同好会の連中を憎んだように、おばさまの事で

自分を憎んでいるんじゃないのか」

「!」

「そもそも、おばさまの苦しみの原因はお前じゃないだろう」

「私が家出をしてから、悪夢がはじまったのよ。私が原因でなくて何なのよ」

「お前は、せいぜい祐巳ちゃんにとっての、段ボール箱程度だ」

「だ、段ボール箱ぉ?」

「たしかにあった悲しみや、恐怖の記憶を、呼び起こすきっかけということさ」

「…精神科医でもないのに、分析はするのね。」

「ああ、どちらも僕は現場にいたからね。まだ幼かったが、おばさまが流産なさって

悲しんでいる姿はこの目で見た。その時、瞳子、お前はまだいなかったんだぞ」

「じゃあ、私は一体どうすればいいの?」

「だから、分析はしても、治療はできないんだよ。ただ、言えるのは、瞳子、お前が

おばさまの苦しみの全責任を背負おうとするならば、それは傲慢だ。もし、無事に

生まれていたとしたら、お前の兄か姉になっていたであろう人達に対して失礼だよ」

「無事に生まれていたら、今、私はここにいないわ」

お兄さまは、すごく怖い顔になった。

「お前は、自分を育ててくれたおじさまや、おばさまを、そんな冷たい人間だと

思っているのか。松平病院に見舞いにくる途中で事故にあった、おばさまの

元同級生の娘なんだぞ。実子がいようと、いまいと、引き取るのは、ごく自然

なことだろう」

瞳子は、想像してみた。実の子が存在していたら?自分は病院を継ぐなど、

考えもしなかっただろう。

「お前は誰かの代替品ではないんだ」

「!」

その言葉は瞳子の心の中にある、わだかまりにひっかかった。

瞳子は、小さい頃から自分を、にせものだと感じていた。

対して、祥子お姉さまは本物だ。

本物に近付きたくて、一生懸命努力した。いつか薔薇さまになりたい、というのも

そうなれば、祥子お姉さまに少しでも近づけると思ったからだ。

祥子お姉さまは、優しくて、高潔で、本当に大好きだったけれど、

一緒にいると、いつも絶望感を味わされた。

「瞳子、お前にできることはな」

お兄さまの声で、我に返った。

「おばさまや、祐巳ちゃんのそばにいてやることだ」

悲しみや恐怖の記憶をなくすことはできなくても、その分、楽しい思いをさせて

あげればいい。

お兄さまの言葉に、瞳子は二人の人の言葉を思い出していた。

「もう瞳子から、たくさんのものをもらっているよ」

「瞳子ちゃんが、瞳子ちゃんであればいい」

 

合宿二日目は、昨夜の事件で、全員寝不足ということもあり、午前中は、

おのおの邸内で宿題をするなどして過ごした。瞳子さまは紅薔薇さま本人より

ショックを受けているようで、乃梨子さまたちが必死に励ましたりしているうちに、

ケンカの件は、いつのまにか、うやむやになってしまった。菜々はどちらが、

勝っても、延々と、雪辱戦をくりかえすような泥仕合的展開を予想していたので、

心底、ほっとした。紅薔薇さまには、申し訳ないが、グッドジョブと言いたかった。

 

「…菜々の、水着ってさあ、レトロっていうか、学校指定のより布多いよね」

「はい、これぐらいないと、正月の寒中水泳のとき、寒いんですよ」

「し、正月?」

「あ、お姉さまも、来年は参加されますか?終わった後の、お汁粉おいしいですよ」

「え、遠慮させていただきます。…受験真っ最中だし」

 

午後は、海岸ですごしたが、泳ぐよりビーチバレーやスイカ割りで遊んだ。

乃梨子も心の底から、笑ってすごせた。パラソルの下で、お姉さまと休んでいると、

突然、手を握られた。驚いていると、

「ごめんね、乃梨子。初めに話があった時、あなたの意見を聞かなくて」

ずっと、気にしていたらしい。

「え、そんな。だって、こんなに楽しいし、私は志摩子さんと一緒にいたいんだよ。」

「でも、それなら二人で仏像を観に行っても良かったでしょう?」

「志摩子さんは、祐巳さまや由乃さまと遊びたいんじゃないかと思ったんだ」

「そうね。遊園地でも、そうだったけれど、すごく楽しいわ。でも、それは乃梨子も

一緒にいてくれるからなのよ、そのことは忘れないでいて」

忘れるもんですか。こんなに、間近に志摩子さんの水着姿を観て、乃梨子は

海に来て本当に良かったと思った。