祥子と巳は、湖をのぞめるホテルにチェックインした。

「わあー、すてきな部屋ですねー」

「まあまあって、ところかしら」

「…やっぱり、瞳子も一緒に来れたら、良かったのに」

祥子の卒業後、春休みに、ふたりで旅行にでたのだ。

「去年、カナダの別荘に行かなかったから、今回はご両親につきあったのよ」

「…ご両親のこと、大切に考えてますものね」

「私達に遠慮したのかもしれないわよ?」

でも、あなたたちは、これからも毎日会えるものね、そう言われるとお姉さまの卒業を

あらためて実感させられ、祐巳は、また泣きそうになった。

みんなの目があるときは、笑って話せることでも、ふたりきりだと思うとつい、涙腺がゆるくなる。

「あらあら、祐巳はすっかり、泣き虫になったのね」

「お姉さまっ、私…」 声にならなかった。

今回は、車ではなく、列車で旅をした。お姉さまと、ふたりきりなのだから、すごく楽しいはずなのに。

祐巳は、どうしてこんなに、せつなく感じるのだろうと思った。

 

「私、こんなんじゃ、薔薇さまとしてやっていけないですね」

「今の祐巳は、もうすっかり立派な薔薇さまだと思うわよ」

「おねえさまの後、というのは、すごいプレッシャーなんですよう」

「祐巳、遠慮しないで、大学のほうにも顔をだしなさいね」

「えっ」

「何なの?私に会うのが、いやなの?」

「いえっ、お姉さまには、あまり甘えて、ひんぱんには来ないように、とか言われるかと…」

「その時ね、志摩子もつれていらっしゃい」

「えっ?志摩子さんを?どうしてですか」

「これまで、あの子が聖さまに会わなかったのは、私や令への、遠慮もあったと思うからよ」

「蓉子さまや、江利子さまが他大学へ、進学なされたからですか」

「もちろん、それだけじゃないでしょうけれど」

「志摩子さんは、会わなくても自分は大丈夫だって、聖さまに伝えたかったのかもしれませんね」

「そうね、…あなたも、そのつもりで、大学には顔を出さない気だったんでしょう」

「わかっちゃいましたか」

「あなたは、一人でも立派に薔薇さまを、やっていけるわ。…私も大学で一人でも大丈夫よ。

わかっていることなのに、それを証明するためにわざわざ会わないという必要もないでしょう?」

(そうだ、その通りだ)と祐巳は思った。(私が強くなったぶん、お姉さまも強くなったのだ)

そのことが、わかることが嬉しかった。この一年半の月日の成果のひとつだから。

「でも、私と志摩子さんばっかりじゃ、由乃さんが、ひがんじゃいそうですね」

「馬鹿ね、令は他の大学にいくけれど、家に帰れば、あいかわらず、お隣同士なのよ」

「あ、そうか。じゃ令さまは、これからも毎日『由乃〜』って言ってすごされるんですかね」

「うふふ、たぶんね」

ベッドにふたりで座って、笑いあった。ただ、それだけで、かけがえのない時間だった。

お姉さまと同じ屋根の下で寝るのは新年会の時とか別荘の時とか、けっこうあるけれど、

ふたりきりで同じ部屋は初めてだ。

昔の祐巳なら、興奮してとっぴな言動をしていたところだが、今は落ち着いていた。

お姉さまの言葉で、せつなく感じるのも、しばらくやめにした。

こんな大切な時間は、じっくりと味あわなければ、もったいない。そう思った。

 

まだ、日があるうちに、湖畔をあるくことにした。

上から見るよりも、水面は暗く、深いようにみえた。

すこし風が出てきて、どちらからともなく、手をつないだ。

「この湖ね、けっこう心中が多いんですって」

おねえさまは、縁起でもない知識を披露したが、祐巳は納得できる雰囲気だな、と思った。

春とはいえ、風はまだひんやりとし、湖面にわずかな、さざなみをたてている。

うつくしくて、さびしい風景だった。

「ここなら、ずーっと一緒にいられそうに思えるから…ですかね」

「そうね。弱い人達はさそわれてしまうかもね」

すると、雲が切れて、光が天空からさしこんできた。

ふたりは、その宗教画のような光景に、思わず敬虔な気持ちになった。

こんなきれいなものを、お姉さまといっしょに見れてよかった。祐巳は、青空だけじゃなく、

この空も、マリアさまの心じゃないかと思った。

 

祐巳はこの旅行を計画したとき、このホテルを強く希望した。

以前、「秋桜友達」(令さま所有)に、載っていた記事が印象に残っていたからだ。

それは、恋人たちの丘というものだった。

ホテルをはさんで湖とは反対側、ホテルの正面玄関の前、道路をへだてた所にある

何のへんてつもない芝生の丘なのだが、月夜に、恋人たちがふたりだけで愛の誓いを

たてる場所として紹介されていた。

本来、湖をホテルのめだまとしてきたのに、心中で有名になってしまった。

苦肉の策として、あらたに考えられたのだろう。ほかにめぼしい観光スポットもなかった。

祐巳の目にとまったのは、祥子さまと姉妹の儀式をした学園祭の夜、月にてらされて

いたことを思い出したからだ。

ホテル側の目論見は、あまりうまく当たっていないようで、その日の宿泊客で、丘に

行くものは、祥子と祐巳の二人だけだった。

おかげで、ロマンティックな雰囲気にはなった。

かりこまれた芝生の丘とはいえ、祥子さまのパンプスでは、さすがに上りづらそうだったが、なんとか頂上まで、たどりついた。

秋のように、さえわたった月夜というわけにはいかなかったが、雲がかかってぼんやりとした光は、ふたりの影を丘にぬいつけた。

「‥‥あなたがここに来たがったわけ、わかるような気がするわ」

「わがまま言ってすみまません。‥‥寒くないですか?」

「大丈夫よ、あなたこそ‥‥」

お姉さまは、カーディガンの前を開いて、祐巳をつつみこむようにした。

祐巳も素直にその胸に顔をうずめた。

文字通り、ここでは月しか見ていなかったから。

 

翌朝、東京とは比べようもないほどの、鳥のさえずりで祐巳は目が覚めた。

毛布をまきつけたまま、カーテンを開けると、湖は霧につつまれていた。

祐巳は、その光景を見て、この旅行に来て、初めて「怖い」と感じた。

愛し合ったものたちが、それゆえに沈んでいった湖。

自分とおねえさまは、それに引きずりこまれてはならない。

祐巳は、カーテンをしめると、おねえさまの横にもぐり込んだ。

そして、おねえさまが自然と目覚めるまで、狸寝入りを決め込むことにした。