「はあっ、はあっ」

ランドセルが背中ではねる。

(怖いっ、怖いっ)

いつも通い慣れた道が、こんなに長いなんて。

でも、もうすぐおばさんの家だ。

その角を曲がれば、檀家総代のおじさん、おばさんの家がある。

この時間なら、おばさんがいてくれるはず。

「はあっ、はあっ」

この息は自分のものだろうか?あの変なおじさんのものではないのか。

すぐ後ろに、あのにやにやした顔があったらどうしよう。

そう思うと、怖くて怖くて、後ろを振りかえることができなかった。

あともう少しなのに、自分の足はいらだつほどゆっくりとしか動かない。

こんなことなら、もっと速く走れるように普段から練習をしておけばよかった。

それでも、なんとか、おばさんの家の門をくぐった。

 

「たすけてえっ」

 

志摩子は自分がこんなに大きな声をだせること生まれて初めて知った。

 

 

檀家総代の家の玄関先には、なんと警官がいた。

不審な人物が徘徊していると交番に通報があって、巡回していたのだ。

追跡者は、たちまちその立場を逆転することになった。

 

志摩子はおばさんの腰に、しがみついていた。

足ががくがくして、そうしないと立っていられなかったからだ

「いくら、集団登下校ったって、小寓寺の山門までは一人きりになるんだもんねえ」

おばさんは、気の毒そうに志摩子の顔を見た。

小寓寺は一つの山ほどもあった。

「目をつけられたんだねえ…。まあ仕方ないか、こんなにかわいい顔しているんだから」

「!」

志摩子はびっくりした。

…わたしが悪いの?わたしが追いかけられたのは仕方ないことだったの?)

身も心も頼りきっていたおばさんに、そんなふうに言われたのがすごくショックだった。

両目から涙があふれてきた。

追いかけられた時は、どんなに怖くても泣かなかったのに。

「おお、よしよし怖かったんだねえ、かわいそうに」

と、おばさんは見当違いに志摩子の頭をなでた。

 

         ******

 

また別のある日、志摩子の教室で問題が起こった。

クラスで一番人気のある男子が、

「俺、女子の中では藤堂が一番好きだな」と宣言したのだ。

すると、それを聞いた女子のうちの一人が突然泣き出した。

その子の友達が、すごい目で志摩子のことをにらんだ。

「ちょっとまちなさいよ!藤堂さんは何も悪くないじゃない!」

正義感の強い別の女子の乱入で、事態はますます混乱した。

もともと女子のうち、数人は志摩子の美貌に嫉妬心を持っていたし、

男子のうちの数人は、志摩子の成績に嫉妬していた。

先生にひいきされているのではないかと言う者までいた。

そして、それ以外の生徒は志摩子のミーハーなファンだった。

かくして、クラスは志摩子派と反志摩子派に分裂してしまった。

志摩子はみこしにかつがれているだけで、真のオピニオンリーダーではなかったので、事態を収拾する力がなかった。

騒ぎを引き起こした男子は知らん顔をした。

志摩子は、ただ、悲しむ事しかできなかった。

 

         ******

 

ロザリオのことを思い出したのは、そんな時期だった。

昔、納戸で遊んでいて、行李の中から見つけたものだった。

今のおかあさんは、本当はおばあちゃんで、自分を生んでくれた

おかあさんはもういない。

そう、説明されてはいたが、実感はあまりなかった。

悲しいというよりも、どんな人だったのだろうと、興味の方が勝った。

ロザリオを持っていたのなら…

学校の図書室でカトリックの事を調べた。

すぐに物足りなくなって、公立の図書館に通った。

集中力があったので、すぐに大人も舌を巻くくらいのカトリック通になった。

教会にもこっそりと通うようになった。

そこで、実母のことを知っている人に出会えた。

そして、身体が弱い人で自分を生んですぐに亡くなったことを知った。

 

         ******

 

志摩子は、次第に自分は罪深い存在なのだと思うようになった。

自分を追いかけたあのおじさんは、結局警察につかまったそうだ。

自分が女でなければ、こんな顔でなければ、あのおじさんは罪を

犯さなかったのかもしれない。

自分がいなければクラスはもっと平和だったのかもしれない。

 

…自分が生まれなければ、お母さんはもっと長生きできていたのかもしれない

 

考え込んだ末、とうとう、おとうさんにお願いをした。

「修道院に入りたいので勘当して下さい」

 

         ******

 

さすがに、修道院は認められず、志摩子は父の意をくんで、リリアン女学園中等部を受験した。

入試の面接試験では、カトリックについての質疑応答があった。

志摩子の答えを聞いた担当シスターは、心の中でマリア様に感謝の言葉をのべた。

かりに、面接での得点がなかったとしても文句なく合格できる成績だった。

学園長は入学金を免除するよう事務局に指示を出した。

 

志摩子はリリアンに進学させてくれた父に感謝した。

 

マリア像、礼拝堂、ミサ、賛美歌…そのいずれもが志摩子が夢見た以上にすばらしいものだった。

近所の教会は普通の家に形ばかりの十字架をつけたようなものだったが、それでさえ小学生の志摩子にとっては十分、心安らぐ空間であったのだ。

 

入学してしばらくは、うっとりとして校内中を歩き回った。

 

そしてなにより、リリアンの、女性ばかりの教室は志摩子の心に平安をもたらした。

小学校では、女子から話しかけられた場合は笑顔で返答し、男子からなら素っ気なく対応するように気をつけていた。

そうしないと、美人だと思ってお高くとまっているだとか、もしくは男に媚びているだとか言われて攻撃されたからだ。

あまり、神経の休まる時はなかった。

それが、今はただ、にこやかに応対さえすればよい。

いや、実際にはほほえむ必要すらなかった。

自分以外に対しても、悪意ある噂や、陰口のたぐいはほとんど聞かなかった。

 

スカートのプリーツを乱さないように歩くのも得意だった。

それは、志摩子の本来の歩き方だった。

小学校の時は、よく「とろい」と言われたものだったが。

 

ピアノや華道、日本舞踊を習っている生徒も多く、共通の話題があった。

 

アイドルの名前を知らなくても馬鹿にされたりしなかった。

 

クラスメイトは基本的に親切なお嬢様ばかりだった。

 

本当にリリアンは楽園のように感じられた。

 

 

 

クラスメイトからこう聞かれるまでは。

 

「ところで、志摩子さんのお家は何をしていらっしゃるの?」

 

志摩子は凍り付いた。

父との約束が脳裏にひらめいた。

 

小学校の時には考えられない質問だったので油断していた。

地元では「小寓寺の藤堂さん」で有名だったから。

 

せっかく親しくなりかけたクラスメイトの顔が、志摩子には異端審問官のように見えた。

しかし、質問者は何かを察したように、話題を変えた。

 

そして、学年が変わるまで二度とその質問がなされることはなかった。

志摩子は質問を追求しなかった彼女に、感謝した。

とりあえず、楽園を追放される事だけは避けられたのだから。

 

けれど、志摩子はもう、入学当初のようにクラスメイトの輪に飛び込んでいくことができなくなった。

周囲から一定の距離を保つようになった。

お弁当も一人で食べるようになった。

それでも、無視されたり、暗いといじめられたりすることはなかった。

むしろ、事あるごとに、声をかけられた。

けれど、決して押しつけがましくもなかった。

志摩子は、ああ、ここは本当に楽園なのだ、と思った。

ただ、自分が異端なだけだ。

 

小学校の教室は戦場だったが、守ってくれる戦友がいた。

 

今は親切なクラスメイトに囲まれ、たしかに楽園のなかにいながら、志摩子はたったひとりだった。

 

これが、私の罪に対する罰なのかもしれない。

志摩子はそう思った。

 

 

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中等部の三年間で志摩子はカトリックへの憧憬をますます深めた。

ただし、修道院に関しては少し見方が変化した。

シスターに、実際の修道院の生活ぶりを聞き、ますます憧れは強まったが、以前のように何が何でも修道院へ、と主張することは少なくなった。

成長して、より現実的な問題に立ち向かう必要がでてきたからだ。

 

それに今では、志摩子はリリアン女学園そのものを、とても愛してしまっていた。

教室もクラスメイトも通学路さえも。

孤独ではあったが、いや、それがゆえに、よりかけがえのないものになった。

ずっと、ここに通いたかった。

シスターでなくても、このまま、リリアンで教師になれればどんなにいいだろうと思った。

 

‥‥‥‥でも、まあ、しょうがない。

仏教の寺に生まれた事実は変えようがないし、父や母や兄、そして檀家に迷惑はかけられない。

一番現実的な未来予想図は、寺を継いでくれる僧侶と見合い結婚をするというものだった。

志摩子にとって、それは決して望ましいものではなかったけれど、兄の人生を自分のわがままで振り回すことはしたくなかった。

その時のために、覚悟だけはしておこうと思った。

きっと、自分はいろいろなものを捨てなければならないだろうから。

 

だから、父にもう三年間、高等部にも通うよう命じられた時は正直うれしかった。

初め義務教育期間だけ、と主張したのは志摩子のほうだったのに。

 

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高等部に入り、桜の木の下で「その人」に出会うのは、もう少しあとのことだった。