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永遠のアセリア
Recordation of Suppressor

4話 不定の立ち位置、不惑の行き先

















 部屋の窓から見える景色は高い。例えば木だと幹ではなく生い茂る葉が見えたり、空も心なしか近い気がする。
 空と木は逆さまで、視野は天地が逆転していた。
 それというのも部屋が二階にあるからで、さらに言うなら自分がベッドの上で仰向けに眠ったままだからだ。
 自分は今、ラキオスの第二スピリット詰め所の一室にいる。
 どうしてここにいるかというと、ここが自分に充てられた部屋だからだ。

(確かに第一詰め所よりも、こっちのほうが問題は起こりにくいだろうな……)

 こうなったのはセリアの提案だった。それは彼女の配慮であり、俺に対する警戒でもあるようだ。
 おそらくユートたちと一緒にすべきじゃないとセリアは考えたのだろう。その懸念は正しいと思う。
 俺はその話を素直に受け容れた。反対する理由はどこにもない。
 そして右手の治療を受け、一夜明けて今に至る。

(……おかしな方向に話が進んだものだ)

 ほんの一日前までは、こうなることなど想像もしていなかった。未来を予想するのは難しいが、一日先だってこれだ。
 息を吐いて目を閉じた。視界が闇に閉ざされると、他の感覚が研ぎ澄まされる。
 そして、耳が一つの音を聞いた。
 ドアの向こうでは部屋の前を足音が何度も行ったり来たりしている。察するに一人のようだ。
 それに時折、小さな声も聞こえてくる。どうも何かを悩んでいるような声だった。

「うーん……」

 迷いを含んだ声はなかなか消えず、足音も動いてはいるが、やはり部屋の前から離れない。

(いっそドアを開けてしまうか?)

 解決策としてはそう悪くなさそうだが、ベッドから出たいとも思えない。
 体がどことなく重たいし、頭もどこかぼんやりとしている。大儀だ、まったく。
 そんな風に考えているうちに足音が増えた。

「シアー、なにしてるの?」
「あ、ネリー」
「ここって、あの男の部屋だよね」
「うん……起こしてあげようと……思って」
「ふ〜ん。別にほっといていいんじゃない?」
「でも……もう朝だし……」
「眠りたいならそのままのほうがいいんじゃない? 大体、そこまでしてあげる必要もないよ」
「そうかな……?」
「そうだよ。それにネリーはあまり好きじゃないし」
「……どうして?」
「自分で自分を傷つけられるんだよ? そういうのネリーは信じられないもん」

 そうして沈黙。しばしの静寂のあと、先に話したのはネリーだった。

「とにかく起こさないでいいよ。あとで文句とか言われそうだし」
「……うん」

 二つの足音が遠ざかっていくが、途中で片方の足音が停まる。
 少しの間そのままだったが、また動き出した。音が小さくなって、やがて消えた。

【だからやめておけと言ったのだ】

 脇にかけてある『鎮定』がぶっきらぼうに伝える。
 袱紗(ふくさ)に包まれていても届く声がくぐもることはない。なかなか便利じゃないか。

【自傷など受け容れられるものではない。少し考えれば分かったはずだ】

 返す言葉もなかった。『鎮定』の意見は正しい。
 一夜明けると、自分がどうしてああいう行動に走ったのか思い出せなかった。
 いや、もしかしたら理由など初めからなかったのかもしれない。

【感情に流されるが人の人たる所以でもあるが、主は衝動的にならないよう心がけるべきだ。身を滅ぼすぞ】

 衝動的か。元々、自分はこうだったか? どうにも思い出せない。
 それに「元々」はいつ頃を指しているのだろう? どうして、こんなことを考える。

【聞いているか、主?】
「ああ」

 『鎮定』は、何故かそれ以上何も言わなかった。












 着替えを済ませて階下に降りたのは、それからしばらくしてからだ。太陽は中天に達しかかろうとしていた。
 時間をかけたのは体の気だるさが、なかなか抜けなかったから。初めての経験だった。
 前日の戦闘の後遺症だろうか……だが、今までに一度もなかった事例なので推測でしかない。
 それにスピリットたちがいる中に入るのにも気後れを感じていた。
 自分でも意外だと思う。ひょっとしたらネリーの言葉を気にしているのかもしれない。
 いずれにしても朝食の時間帯は過ぎている。
 誰もいないだろうと思いキッチンに入ると、すぐに予測が外れたのが分かった。
 緑の髪を両耳と首の後ろの三箇所を髪留めで留めている後ろ姿が目に入った。

「あ、おはようございます〜。ランセル様」

 後ろを振り返り、間延びした呑気な話し方で挨拶をしてきたのはハリオンだった。
 昨日のうちにスピリット隊員の名前と顔は把握している。それに彼女は戦闘でも支援してきたので特に印象に残っていた。

「こんな時間にいけませんよ〜、お寝坊なんかしては〜」

 腰に両手を当てて叱ってくる……しかし緊張感に欠けているので、そうとは聞こえない。
 そもそもスピリットが人間に意見している。これは時と場合によっては問題沙汰になりかねないと思う。
 ユートの影響なのか……念のため釘ぐらいは刺したほうがいいかもしれない。

「ハリオン、そういう言い方はまずいと思うが」
「そうでしたね〜。人前ではやらないようにします〜」

 ……どうやら使い時は考えているらしい。おそらく公の場なら大丈夫だろう。
 いずれにせよ俺には気遣い無用のようだ。
 それはそれで喜ぶべきことなのかもしれない。それとも悲しむべきか?

「ランセル様、お食事はどうしますぅ? もしよろしければ温め直しますけど?」
「いや、それには及ばない」
「あれぇ……もしかして何も食べないつもりですか〜?」
「……そのつもりだが」

 よくよく考えてみると、この発言は失言だったようだ。
 ハリオンは語気をほんの少しだけ強めて、朝食を取るよう熱心に勧めてきた。

「ダメですよ〜、朝ご飯を抜くと集中力が落ちますよ〜。それに体にだって毒ですよぅ?」
「……しかし」
「それに朝ご飯を抜く人は根暗で陰険だって評判じゃないですか〜」
「いや待て」
「不摂生は健康の大敵ですよ、そんなのはめっめっですよ〜」

 こちらが何かを言う前に、懇々と説かれてしまう。
 それとなく子ども扱いされてたり、おかしな言い分もある気がするが、この際無視する。

「聞いてますかぁ〜?」
「聞いてる……じゃあ温め直してくれ。それまで待たせてもらうから」

 実を言うなら朝食を食べる気がないわけじゃない。むしろ食べるつもりだった。
 しかし、それは一人だけでだ。彼女たちの世話になるのは、どこか抵抗がある。
 いつの間にか自分自身でスピリットたちと一線を引こうとしていた。

「はーい。すぐにできますから、少しだけ待ってくださいね〜」

 ハリオンが背を向けて鍋に火をかける間にテーブルの端に座る。
 大人数が座れる長テーブルで、片側だけで六人は座れそうだ。
 ハリオンは音調がところどころずれた鼻唄まじりに、鍋をゆっくりとかき混ぜている。
 髪留めで整えられた髪が、曲のリズムに合わせてゆらゆら揺れていた。

(なるようにしかならない、か)

 それからハリオンの温めた料理を食べる。その間、彼女は何を話すでもなく俺の向かいに座っていた。
 ちょうどいい機会かもしれない。ハリオンには訊いておきたいことがあった。

「ハリオン、あの時どうして俺を助けたんだ?」
「あの時というのは、リュケイレムの森ですか〜?」
「ああ」
「理由なんてないですよ〜。どうしてなんて考えたこともないですし」

 屈託のない笑顔がそこにある。日常的で自然な笑みだ。
 どうして自分にそういう表情を向けられるか、不思議にも思うがそれは尋ねなかった。

「私からも訊いていいですか〜?」
「……どうぞ」
「もしかしたら、すごく失礼なことかもしれませんよ〜?」
「構わない」

 ハリオンは頷くと、こちらの目を見た。
 笑顔はどこか控えめになっている。咲いた花がまた閉じてしまったように。

「ランセル様は本当に人間なのでしょうか?」
「……やはりエトランジェだと?」
「違いますよ〜、雰囲気の話です。あなたの私たちに対する態度は人間が取るものとは違いますから」

 そういう見地か。確かに一般的な「この世界の人間」とは異なる態度だろう。
 だけど一般的じゃない人間は他にもいる。何も俺に限った話ではない。

「今までにそういう人間は一人もいなかったのか?」
「……そんなことはないですねぇ」
「なら、おかしなことじゃないだろ」

 それでハリオンの質問も終わった。
 なるほど、戸惑っているのは俺だけじゃないらしい。彼女たちもまたそうなのだ。
 しばらくして、ハリオンは思い出したように言った。

「右手の調子はどうですか?」
「問題ない。世話をかけた」
「いえいえ〜」

 俺の右手――使い物にならないほど打ちのめされた右手は綺麗に元通りになっていた。マナ消失の際に消えた指も含めて。
 ハリオンとあのスピリット……エスペリアだったか、彼女らが神剣魔法で治癒を施したからだ。
 エスペリアは酷く沈痛な面持ちで治療をしてきた。ほぼ間違いなく罪滅ぼしの感情もあったのだろう。
 一方で左手は相変わらず指が足りないままにしてある。それはささやかな要望だった。

「でも、本当に左手はいいんですか〜? 今すぐに治せますよ?」
「これでいいんだ」
「ですけど……」

 いきなりハリオンの手が伸び、包帯に巻かれた左手を取る。

「左手も治してし――」
「やめろ」

 ハリオンの手を振り払うように手を引っ込める。一瞬の出来事だった。
 彼女の表情に困惑の色が浮かぶ。

「……すまない」
「いえ、こちらこそ出すぎた真似を」

 ハリオンは今までと打って変わって口調が間延びしていなかった。
 それでも表情と声は落ち着いていて柔らかい。

「この傷だけは、まだ治したくないんだ」
「それは(わだかま)りがあるからでしょうか?」

 ハリオンの問いに、ややあってから頷いた。
 何に対しての蟠りなのかハリオンは言わなかった。故意か偶然かは分からない。
 だからこそ、はっきりさせておきたかった。

「その通りだ。自分に対してのけじめがつくまでは治したくない」

 もっとも、どうすればけじめがつくかは自分でも解っていない。
 敵討ちではないのは解っている。悠人に会って、それは思い知った。

「とにかく、まだだめだ。もうしばらくは、このままがいい」

 欠けた指があるはずの場所に右手で触れると、包帯で固く縛り上げられていた。
 こうしておけば包帯が蓋代わりになって、回復魔法でも指が生え直すことはない。そもそも生え直すということが、ありえないのかもしれないが。
 ハリオンは頷くと、別の話を切り出してきた。

「今日は〜、お時間ありますか〜?」
「城に出向するまでなら……伝令が来るのがいつになるか分からないから、ほとんど時間はないかもしれない」

 そう、今日はラキオス城に出向するはずだった。
 イースペリアの遺臣という形の自分に対する処遇を決めるために。
 一般的な人間兵なら簡単な手続きで済むかもしれないが、永遠神剣を所有している以上そうもいかない。
 たかが神剣、されど神剣。剣一本に振り回されてるようで、あまり良い気分はしないが。

「では〜、よろしければ〜、それまでお願いしたいことがあるんですよ〜?」












 そして今、俺は屋外訓練所にいて、目の前にはスピリットたちが四人いる。
 ハリオンの頼み事とは、年少のスピリットたちに稽古をつけてほしいというものだ。
 推測だが、ハリオンには自分とスピリットたちとの距離を埋めさせる意図があるのかもしれない。

【物事は都合よく受け止めるべきだ。違うか?】

 そんなこと分かるはずがない。分からないが気分としては『鎮定』に賛成だ。
 まずは簡単な自己紹介から始めるべきか……名前と顔は一致していると思うが、下手に間違えるよりは良いに決まってる。
 それに把握してるのは名前と顔だけだ。ある程度、彼女たちについても知っておいたほうがいいだろう。
 今後、行動を共にするかもしれないなら尚更だ。

「手前から順に名前を教えてくれ。何か言いたいことがあれば言っても構わない」

 一番手前にいたのはネリーだった。まだまだ少女といった顔つきで、青い長髪を後頭部で結っている。
 ネリーはどこか決まりの悪そうな表情を浮かべていた。
 ……今朝の会話は知らない振りを通したほうがいい。余計なことは言わずに先を促した。

「ネリー、ブルーネリーでくーるな女よ。神剣もそんな私にぴったりで『静寂』って言うの」

 先ほどまでの表情はどこに行ったのか、結った髪を誇らしげに揺らしながら薄い胸を張ってネリーはそう告げた。
「……くーるってどういう意味だ?」 「そんなのも知らないの? 落ち着いてて格好いいって意味よ」  ……それは冷静に近いのか。冷静と衝動は対極に近い精神状態だ。
 もし彼女が冷静な女を心がけているなら、確かに俺の前夜の行動は見苦しいだろう。

【そうでなくともだろう】

 やれやれ。まったくもって、その通り。
 ネリーは一歩後ろに下がって、彼女の陰に隠れるようにしていたシアーと並ぶ。

「それから、こっちが妹のシアー」
「妹?」
「私たち双子なんだよ。ねー、シアー?」
「は、はい……」

 姉のネリーとは違い、シアーの青い髪は首の辺りで切り揃えてある。
 シアーは縮こまって上目遣いにこちらを見ている。怯えた小動物のように見えなくもない。
 それにしても昨日はもう少し堂々としていたと思ったが。

「あ……あの……『孤独』のシアーです……それから……あの、あの、あの……」
「それから?」
「……や、やっぱりいいです……」

 シアーは気落ちしたように下がる。声なんか終わりごろには消え入りそうに小さい。
 ネリーに睨まれてるのは気のせいじゃないだろう……しかし悪いことでもしたか、俺は?
 あまりシアーを急かせるなということなのだろうか?

「……次」

 気を取り直して先に進める。

「は、はい! ヘリオン・ブラックスピリットですっ! 神剣は『失望』と言います!」

 硬さを残した態度で答えるのは、黒髪を頭の後ろで二つに分けているブラックスピリット。
 戦闘でも一際苦戦していたので印象には残っている。決していい印象ではないにしても。
 なおスピリットの服はほとんど同じデザインで、色は分類によって区別されている。
 ブルースピリットなら青、ブラックスピリットなら黒といった具合だ。
 これはラキオスに限った話ではなく、イースペリアも同じような状態だった。もちろん国ごとに服のデザインは異なる。

「えっと……頑張りますっ!」

 両の拳を胸元で握り締め、頭を下げる。やる気に溢れている姿を見るのは、そう悪い気分ではない。
 そして最後の一人。紅い瞳に紅い髪をストレートに垂らしたレッドスピリットだ。
 目つきはやや吊り上がり気味で、体型は他のスピリットに比べて随分と大人っぽい。

「……『消沈』のナナルゥです」

 他のスピリットと違い、彼女が発したのはこの一言だけだった。事務的というよりも機械的な言い方。
 ……無駄を省いた言い方、といったほうが適切かもしれない。
 この場には自己主張の強い個性派が多いだけに、彼女の態度は意外と言える。
 それとも、これが彼女なりの自己主張の方法なのだろうか?

【……精神がだいぶ取り込まれているからだろう】
(……そうなのか)

 ……魂を、精神を取り込まれるということは自我がないということなのか?
 思い立ってナナルゥに向かって右腕を伸ばし指差した。
 全員の視線が指先に集まる。ナナルゥが見ているかはよく分からない。
 そこで指先を横にずらす。スピリットたちの視線も顔ごとそちらに移る。その中にはナナルゥも含まれていた。

「なんでもない」

 腕を戻すとナナルゥ以外の三人が変なものを見るような目を向けてくる。
 ……注意の一つでもしようと思った時に、ナナルゥへもう一つ疑問が思い浮かんできた。

「ナナルゥ?」
「はい」

 彼女は年長のスピリットに属するんじゃなかっただろうか。となると年少のスピリットは一人足りないのか?
 大体、ナナルゥはこの場にいる他のスピリットたちと違って、明らかに肉体的に成熟している。
 そういえばグリーンスピリットがもう一人いたはずだ。確かニムントールだったか。

「ニムントールだったか、彼女はいないのか?」

 それに慌てて答えたのがヘリオンだった。

「ニ、ニムは面倒だか」
「面倒?」
「ああっ、そうじゃない!? 違いますっ! 体調が悪いそうなんですよ!」

 取り乱したようにヘリオンは言い繕う。そこまで、むきにならないでもいいのに。
 とはいえ、こういうのは微笑ましくあるのかもしれない。
 面倒という気持ちは分からなくもない。それを抜きにしてもニムントールを(とが)めようという気にはなれなかった。

「なら、これで全員か。先に言っておくが俺に教えられるのはせいぜい剣技の真似事ぐらいだ。神剣の力の引き出し方は分からない……むしろ教えてほしいぐらいだ。だから、あまり深い部分までは教えられないかもしれない。まずは……順に素振りをしてもらおうか」

 そして指導が始まった。といっても自分の場合は我流なので、おおよそ基本と思える部分だけを教える。
 それ以上は自分で考えるなり、正式な訓練士に教授してもらったほうがいい。俺もいずれそうする必要が出てくるだろう。
 教えていく上で最大の懸念事項はヘリオンだった。
 前回の戦闘を思い出す限り、彼女の技量は見ていて不安になる。実戦投入するにしても、もう少し訓練を積ませるべきだと思う。

「こう……ですよね?」

 こちらの思惑を余所に、ヘリオンは確認しながら素振りをしていた。
 前後の移動に合わせて神剣――『失望』を上段から下段に振る。
 一連の動作を淀みなく流れるように行っている。その動きは実戦での動きとは別物だった。

「驚いた。思っていたよりもずっと剣筋が良い」
「え? そ、そうですか?」

 素直な感想を口にかける。ヘリオンは
 余計な力みが……とも思ったが、その力みはすぐに取れて先ほどまでの流動とした素振りに戻る。

(さて……)

 ヘリオンが『失望』を振り終えた瞬間を狙って、訓練用の剣を正面から突き出した。
 訓練用だから刃は鈍く(しつら)えられている。額を狙ったそれは余裕を持って対応できるはずの速さだ。
 だというのにヘリオンは――。

「わわっ!?」

 無駄に剣を大きく振って突きを上に弾くが、動作が大きすぎる。だから、その間に隙が生まれる。
 ヘリオンが弾いたあとに攻撃に転じるにせよ、元の体勢に戻るにせよ時間がかかりすぎていた。

「動作が大きすぎるし慌てすぎだ。剣は見えていたんだろう?」
「……はい」
「余裕を持って捌ける攻撃なんだから、できるかぎり小さな動きで対処するべきだ。慌てなければ対処できる」

 ヘリオンは力強く頷く。しかし本当に理解したとは言えないかもしれない。
 慌てないほうがいいのを解ったとしても、それをすぐ実践するのは難しいからだ。
 そうして経験……慣れが必要になる。

「すいませーん」

 その時、ネリーが勢い込んで挙手する。表情に浮かんでいるのは……笑みか?
 ネリーは素振りを止めて、二歩前に出てくる。

「口で言うよりも、直接見せてくれたほうがいいんじゃないの? ネリーでよければ相手になるよ?」
「ネ、ネリー……」

 シアーが後ろから袖を引っ張って止めようとしているが、ネリーの様子を見る限り無駄だろう。
 さて、どうしたものか。ネリーの言うことには一理ある。
 言って聞かせるよりも、見せて教えたほうが早いことも多い。
 それにネリーはどこか楽しそうに見える。目なんか悪戯を思いついた子どものように輝いているような。

(それだけ嫌われている……ということなのか?)

 悪く考えすぎか……? 分からないが、彼女からすれば堂々と俺を叩きのめすことができるわけだ。
 なら付き合ってやるのが得策かもしれない。結果がどうであれ。

「互いに神剣の力は使わない、それでいいな?」
「うん!」

 ネリーは勇んで頷き、『静寂』を体の前で構えた。ハイロゥを展開してないので、神剣の力を利用してないのは判る。
 こちらは『鎮定』を使わずに、訓練用の剣を構えた。

「いっくよーっ!」

 ネリーが地面を蹴って駆け、走った勢いを乗せて、『静寂』を振り下ろしてくる。
 構えた剣先を『静寂』に合わせ、互いの刃がなぞり合うようにして外に流す。
 すぐにネリーは右下から左上へ斜めに切り上げてくる。それを剣の中ほどで受け止めた。
 受け止めたのは一瞬で、剣身を滑らせるようにしながら、ネリーの右側に回りこむ。

「俺とスピリットの場合、身体能力の差でスピリットと正面から斬り合うのはきつい。神剣の力を使えば多少はどうにかなるが、それにしたって限界はある」

 ネリーから離れて間合いを取るが、彼女はすぐに飛びかかってくる。
 先程よりも早く斬撃が繰り出されてきた。風を裂くような横からの一閃。
 後ろに飛び退きながら、寝かせた剣で受ける。
 ネリーはさらに剣を振るう。律動に乗るように息をつく間もなく連続で剣を振るい続ける。
 こちらも相手のタイミングに剣を合わせ、足捌きで有利な位置に動いていく。
 何度か剣から軋むような嫌な音がする。加減されてるとはいえ、いつまでも受けられない。剣が先に壊れてしまう。

「見ての通り、止めるではなく流すを主眼に置いて戦わなくてはいけない」

 見ての通りとは言うが、本当に伝わっているのか?
 それを考える暇はなかった。ネリーの攻撃はまだまだ荒削りだが、なかなか激しい。
 受ける自分にそれほど余裕はなかった。

「……それから受け流しとは別のやり方、先に打って出る方法もある」

 ネリーの剣戟に合わせて『静寂』に彼女より速く剣を打ち込む。相手の攻撃を逆に押さえ込むやり方だ。
 動作の途中から相手の攻撃を強引に止める。

「出端をくじくわけだ。とはいえ、外すと逆に自分がやられかねない」

 距離を置いて、再び受け手に回る。ネリーは肩で息をしながらも、こちらの動きを執拗に追ってくる。
 ネリーは本人がどれだけ意図しているか分からないが、彼女の動きは短期決着を狙った戦い方だ。
 初めから全力で相手にぶつかり続ける。しかし全力というのはいつまでも出せるものではない。
 短い距離を全力で駆けるのは誰にでもできるが、そのペースを維持して一時間走り続けるのはまず無理だ。

(改善点だな)

 ネリーの剣を体の外に受け流すと、よろめくようにして体が流れていった。
 彼女の動きから鋭さがなくなってきている上に、呼吸も乱れている。

「ネリー、剣を振り回しすぎだ。それに肩で息をする状態も良くない」
「う、うるさいっ……! ちょっと……調子が悪いだけよ!」

 そうは言うものの、『静寂』を支えにして、息も切れ切れに喘いでいた。
 表情に出ているのは……悔しさだろうか。おそらくは、そうなのだろう。

「ネリーはまだ……負けてないっ!」

 姿勢を低くしてネリーは前傾体勢を取り、体をしならせるようにして前へと出た。
 踏み込みは速くなければ、軽快にも見えない。しかし注意すべきなのに変わりない。俺を見据える視線はなおも鋭かった。
 まるで実戦さながらだ。事と次第によっては、こうした命のやり取りを本当にしていたのかもしれない。

「もらったーっ!」

 踏み込みからの突きを、剣を合わせながら軸足を右に半回転させていなす。
 ネリーは宙に突き出された刃を迷いなく右に振るった。
 『静寂』は胸を横から薙ぐ軌道に入る。
 瞬間、剣を体と『静寂』の間に割り込ませ、左腕を剣身に密着させて押さえつける。
 『静寂』が、こちらの剣に激突し、甲高い金属音が耳朶を打つ。
 腕に衝撃がきた。特に左腕には痛みを伴った衝撃が。感覚が一時的に失われる。

「!」

 それでもネリーの攻撃を防ぐ。感覚が麻痺した左手が自然と動く。
 人差し指を親指の腹で抑えて力を溜めて、そしてネリーの額の前で弾いた。
 歯止めがなくなった人差し指が額を強打する。ネリーが息を詰まらせたような短い悲鳴を上げた。

(……しまった)

 予想以上に深く入った。手応えも十分だ。
 ネリーは額を押さえて(うずくま)った……効果覿面(てきめん)らしい、困ったことに。

「すまない。大丈夫か?」
「いったぁ〜……大丈夫なわけないでしょ!?」

 涙目になって睨めつけてくる。怒らせてしまったらしいが……やむを得ない。

「ネリーの柔肌に傷が残ったら、どう責任とってくれるの!?」
「……責任なら取れない」
「な!?」
「それに傷はできてないだろう」

 もっとも痛みはあるだろうし赤く腫れたりするかもしれないが、そこは必要経費として我慢してもらおう。
 それにこの程度なら、まだまだ可愛いものだ。

「精進するように。相手ぐらいなら、またできる」
「……いつか」
「?」

 聞き取りづらい声。と、いきなりネリーは右手で俺を指差し、言い放った。

「いつか泣かせてやる! それまで勝負はお預けよっ!」

 それだけ言って、再び額を押さえて蹲ってしまう。
 いつの間に勝負になったんだ? しかもネリーの中ではあれが引き分けらしい。
 この打ち合い……受けるべきじゃなかったのか?












 部屋の中は先ほどまで沈黙に包まれていた。
 今は外から連続的に、時として断続的にもなる剣戟の音が、沈黙を破っている。
 部屋の様相は簡素の一言で表せた。
 家具は窓側に置かれたベッドと向かいの壁にある机、あとは窓を覆うためのカーテンがあるぐらいだ。
 壁などは清潔感のある白で、床も定期的に掃除されているのか目立つ場所に埃はない。
 綺麗な部屋ではあったが、どこか病室のようにも見える。それでも人が暮らす病室のほうが、まだ生活感はあるものだが。

「……殺風景な部屋。花瓶ぐらいあったほうがいいかしら?」

 自問の声は部屋の壁に吸い込まれるように消えていく。静かな部屋というのは案外空虚なものである。

「そこにいるのは……セリアですかぁ〜?」
「!」

 迅速且つ、用心深く振り返った先には、洗濯籠を両手で抱えたハリオンが立っていた。
 籠の中に大量の衣服やシーツが一緒くたになって詰められているのを見て、セリアは安堵のため息をつく。

「驚かさないでよ、ハリオン」
「ごめんなさ〜い。でも、何をしてるんですか? ここはランセル様の部屋ですよぉ?」
「……知ってるわよ。何かないか見にきたんだけど」

 そう言ってセリアは、ベッドの下に置かれていた鞄を取り出し持ち上げた。
 鞄というよりはバッグに近い。皮製でかなり使い込まれているのか、所々が色落ちしている。
 中身はそれほど重くはなく、何が入っているかは開けてみるまでセリアにも分からない。

「……覗く気ですかぁ?」

 潜めた声でハリオンが尋ねる。目と口はすでに笑っていない。

「……そのつもりよ」
「ランセル様を信用してないから……ですか?」
「ええ。神剣を所有する人間よりも、素性を隠したエトランジェと考えたほうが筋は通るもの」
「それはそうですけど……私が訊いてるのはそういうことじゃないですよ」

 セリアは首を傾げる。ハリオンは洗濯籠を持ち直しながら言った。

「私たちの前にいるランセル様という方を信用できないのか、という意味ですよぅ」

 セリアはわずかな時間で考え込み、与えられた判断材料で彼女なりの結論を出した。

「確かにあの男は私たちを助けたかもしれない。だけどユート様を本当は憎んでいるかもしれない」
「……本当にそう思っているんですか?」
「……分からないからこそよ」

 ハリオンは眉根を寄せて大げさにため息をついた。

「セリア、見逃すのはこれ一回ですよ?」
「……ありがとう」
「本当にそう思うんでしたら、こんなことはもうしないでくださいよ〜?」

 ハリオンはそう言い残して部屋から離れていく。セリアはドアを少しの間、黙々と見つめていた。
 それから鞄を見て、思い切って開けようとした瞬間だ。

「そうでした」
「わっ!?」

 突然ハリオンがドアから顔だけを出す。思い出したような口調で彼女は続ける。

「そういえばランセル様の汚れ物はどうしたらいいんでしょうね〜?」
「さあ……別々に洗ったほうがいいんじゃない?」
「男の方ですからね〜、分けてしまったほうがいいかもしれませんね」

 セリアは胸が気持ち悪いぐらいに脈打っているのを感じる。
 このような場面にあまり慣れていない。

「大丈夫ですよ〜、セリアさんみたいな趣味はしてませんから〜」
「ハリオン!」
「あはは、冗談ですよ〜」

 ハリオンは小走りで逃げるように部屋から離れていく。
 遠ざかる足音を聞きながら、セリアはハリオンが演技しているのではないかと疑った。
 しばらく聞き耳を立てていたが、今度こそ本当に立ち去ったようだ。
 セリアは安堵すると同時に不愉快な気分でもあった。ハリオンの発言が冗談なのか皮肉なのか判断できないからだ。

(……悪趣味なのは承知してるわよ)

 それでも彼女はやめようとは考えない。必要悪という言葉を思い出しながら、彼女はランセルの鞄を開けた。

(保存食に……ラキオスの地図?)

 セリアは鞄の中身を丁寧に床に並べていく。外から聞こえる剣戟は未だにやまない。
 中から出てきたのは保存食や通貨、包帯に小さな手鏡、スプーンやフォークなどの小物だった。
 またラキオス王都の地図も入っていたが、これは街の中で買える物なので怪しい部分はない。
 セリアが粗方の物を出してから鞄の中を覗き込むと、底のほうで小さい何かを見つけた。

(何かしら?)

 摘み上げたそれを透かすようにして掲げる。それはイースペリアの軍章だった。
 セリアは以前に似た物を見たことがある。
 何年か前、ラキオスとイースペリアのスピリット隊が協力して闘ったことがあり、イースペリア軍の人間たちが、それと同じような物を身につけていた。

(……これで全部か)

 セリアは並べた荷物を鞄の中に詰め直した。
 窓から外を見るとランセルがネリーと剣を合わせており、そこから視線を外すと第一詰め所からエスペリアが向かってきていた。
 ランセルをレスティーナ王女に謁見させるためだ。エスペリアは付添い人であり連絡係だった。謁見にはセリアも同道することになっている。
 セリアは自分が部屋にいた痕跡が残っていないのを確認すると、そっと部屋から出て行く。
 この頃には剣戟の音は消えている。沈黙が再び部屋を支配しようとしていた。
 鞄に怪しい物は何一つとして入っていない。唯一得るものがあったとすれば――罪悪感だけだった。












 ネリーとの決闘じみた打ち合いが終わると、セリアが館から出てきた。
 こちらを見る目つきからは相変わらず警戒を感じる。当然といえば当然だが。

「ランセル様、エスペリアがもうすぐ着ます。そろそろ城に出向する時間かと」
「……ああ、了解した」

 俺はヘリオンたちのほうを向き直る。ネリーは相変わらず、こちらを恨みがましい目で見ていた。

「今日、俺に教えられるのはここまでだ。不足も多いとは思うけど、そこは各自で補って欲しい」

 みんなが思い思いに答える。なんだかんだでネリーも反応を返してきた。
 意外といえば意外ではあるが、一安心でもある。

(ともあれ、お勤めは終わりか)

 訓練用の剣を元の場所に戻してから『鎮定』を見やる。
 袱紗に包まれたまま……それはいい。しかし、これから謁見するのに鞘なしでは無礼に当たるんじゃないだろうか。
 そもそも、これは抜き身のまま神剣を持ち歩いているのと変わらない。どう取り繕おうと心証は悪くなるに決まっている。

(……代わりになる物はあるか?)

 立てかけられた訓練用の剣の群れを眺める。抜き身のままのものもあるが、半数以上は鞘に収まっていた。
 ちょうどいいサイズがあるかは分からないが、どれかから拝借するしかあるまい。
 いくつかの剣から鞘を抜いて、代わりに『鎮定』に差していくがどれもサイズが合わない。
 鞘が大きいならまだしも、どれも小さくて入らないというのが厄介なところだ。

「何をしているのです?」
「鞘を探してる。袱紗を巻いてるとはいえ、布越しでは気が気じゃないだろ?」

 セリアは何も言わずに、訓練用の剣を一本手に取った。

「右から順に見ていってる。そのは鞘は小さすぎて入らなかった」

 セリアが剣を元の場所に戻すと、背中から声をかけられた。

「……どうかなされたのですか?」

 鞘を抜くのを中断して振り返ると、エスペリアがきょとんとした表情で立っていた。
 消失の起こる前にイースペリア王城で会った時と同じ格好だ。
 違うのは互いの立場と……内心の感情だろう。

「鞘を探してるそうよ。鞘なしだと失礼に当たるから、らしいけど」
「そうなのですか……失礼します」

 エスペリアが一本の剣から鞘を抜き出し、俺の前に差し出してくる。

「これなら入るとは思いますが……ぶかぶかになってしまうかもしれません」
「試そう……ありがとう」
「……いえ」

 エスペリアは俯いて、首を横に振る。表情は見えない。想像はできるが、見えないほうがいいだろう。
 ……別に意図して、そうさせているわけではない。それに彼女もユートも、俺は憎んではいない、と思う。
 だからと言って被害者を前にして気にするな、というのが無理な相談だろう。こと、意図せず加害者になったのなら。
 特にエスペリアというスピリットは神経が細いように思えるので、辛いのだろう。
 できるだけ、近くにはいないほうが彼女にはいいかもしれないが……俺にも俺の事情がある。
 耐えてもらうしかないだろう。

「……確かにこれは少し大きすぎるのでは?」

 セリアの声に意識が引き戻される。確かに剣よりも鞘が大きいが、これではすぐにずれ落ちるだろう。
 他の鞘を探すか何か手立ては……と、鎮定に巻かれている紫の布があるじゃないか。
 袱紗を解いて鎮定を鞘に差し込む。さらに鍔と鞘を布で何重にも巻きつけてずれないように固定する。

「これならどうだろう?」
「なるほど……」

 セリアはどこか感心したように呟く。

「あとは本当にこれで抜けないかだが……」

 軽く手で揺さぶってみると、『鎮定』の声が頭に届く。

【これはまた……】
(どうかしたのか?)
【体が窮屈というか不自由だな。長くこの状態が続くと何かが目覚めそうだとは思わないか、主?】
(何かって……なんだ?)
【なんと言ったか、責めへの喜びというかマ――激しく縦に振るなっ!】

 要望に応えて『鎮定』を縦から横へのに揺さぶりに変更する。腕はさらに激しく振ってみる。

「何をしているのですか?」
「抜け落ちないかどうか確認しただけだ」

 セリアは怪訝そうな顔だったが一応は納得したようだ。
 『鎮定』は荒げるような声で文句を頭に垂れ流してくる。

【主……次に同じことをしたら、ただでは済まさんぞ】
(分かってる……以後は注意する)

 胸の内で、ことさら神妙に返す。

【ふん……何も解っていないくせに。まあいい、いずれ主は泣いて私に感謝するだろう】

 気を悪くしたのか、予言めいた言葉を残して『鎮定』はだんまりを決め込んでしまった。












 ラキオス城内にある謁見の間――上座に位置する場に立つのはレスティーナ王女だった。
 本来そこにいるべき国王の姿はない。レスティーナが国王には話を通さなかったためである。
 下座に控えているのは、エスペリアとセリアの二名に、ランセルの計三名だった。
 ランセルのすぐ脇に、エスペリアとセリアの二人は挟むようにしている。
 万が一の場合でも、ランセルを取り押さえられるようにだ。
 境遇と立場を考えれば、彼がラキオス王族に何をするか――少なくとも安全は保障できない。それゆえの配慮だ。
 それでもレスティーナ自ら、ランセルに会おうという気になっている。
 というのも、実はレスティーナはランセルの話自体は以前から知っていたためだ。
 数年前にアズマリアからレスティーナへ個人的に宛てられた親書に、彼についての記述があったからである。
 具体的な部分は伏せられていたものの、神剣を所有できる人間がいるということとイースペリアでの出生が確認されたと親書には記されていた。
 もっとも、付記するようにそれが彼にとって人間の証明になるかは分からない、とも記されている。
 そしてアズマリアは親書の一文で、彼についてこう書いていた。

(エトランジェの可能性も捨てきれない……むしろ高いのかも)

 それでも、と親書では続く。人間だと信じてあげたいと。
 レスティーナとアズマリアの間にある信頼という名の絆は深い。
 二人は同じ理想を抱き、互いに親愛と敬意の念を向けていた。
 だからこそレスティーナはアズマリアの言葉を真剣に受け止めている。

「……以上です」

 エスペリアの言葉にレスティーナは頷き返す。エスペリアにはランセルがラキオスに身を寄せた経緯を説明させていた。
 この説明以前にエスペリアから事の次第を報告されていたが、レスティーナはそれを隠して同じ説明をさせている。
 というのもレスティーナとしてはランセルの本心を見極めたかったがためである。
 イースペリア王国の遺臣――人間でありながら永遠神剣を所有するという男の本意を。

(……怪しい素振りはなし……だけど、こう無表情を貫かれるのも気になる……)

 レスティーナは取り澄ました表情で、ランセルの目の奥を見ていた。
 そして彼女は凛とした声を発する。

「ランセル、と言いましたね。あなたはイースペリアでのマナ消失……その真相を知っているのでしょう?」

 レスティーナは最初から核心を突くような発言をした。
 ランセルは表情を変えないまま、無言で頷く。
 そしてランセルではなく、エスペリアの表情がほんの一瞬だが、確かに歪んだのをレスティーナは見る。

(そっちに向かって言ったんじゃないけど……エスペリアの性格で気にするなって言うのが無理よね……)

 レスティーナは内心では憮然とするが、それを決して外面に出したりはしない。
 彼女もまた表情を隠すのに慣れている。

「ならば、どうしてラキオスに力を貸す気になったのですか? あなたの立場ならラキオスを恨んでもおかしくないでしょう」

 ランセルは両目を伏せ、今度は頷かない。そして彼は謁見の間に入ってから、初めて口を開いた。

「レスティーナ王女。何か誤解があるようですが、私はラキオス王国に恨みを持つ理由がありません。私が知っている真相とは不幸な行き違いがあり、その結果が多くの傷を残したというものですから」

 彼は一息つく。表情にも声音にも、震えがなければ乱れもない。

「それに何かを恨み続けるのは活力にもなりますが、同時に苦痛でもあるのではないでしょうか。その業を背負い続けられるほど、私は強くありません。誤解なきよう重ねて言いますが、私はラキオス国を憎んではおりません。仮に憎んでいたとしたら、すでに私は生きた身ではないでしょう」

 冗談とも本音ともつかない言葉だが、あながち間違えてもいない。

「それなら聞かせてもらいましょう。あなたが我がラキオスで戦いたいと願う、その理由を」

 ランセルはもう一度目を伏せる。不意に彼の左手が『鎮定』の柄に伸びた。
 それに気づいたセリアもまた『熱病』の柄に手をかけようとするが、その前にランセルの手は元の位置に戻る。

「私は主君に臣下の誓いを立てています。我が主は今でもただ一人、アズマリア・セイラス・イースペリアをおいて他なりません」

 滔々(とうとう)とした口振りで告げる。問うた者も問われた者も相手の目を見て、互いの視線が交錯する。

「私に主の真意は分かりません。しかし、これは言えます。アズマリア女王はこの世界を愛していた。そして――レスティーナ様、貴女様を信じておられていました」

 レスティーナの表情は動かない。彫像のように張り詰めた表情のまま、ランセルに視線を向け続ける。

「アズマリア女王は私に貴女様の話を聞かせてくれたことがありました……その時の女王はとても優しい目をしておられました。まるで……」

 言葉を切ったランセルはしばし間を置く。その間をレスティーナは迷いのための時間だと受け止めた。
 やがて彼は再び口を開く。

「まるで愛娘を見る母親の眼差しでした……そして私はアズマリアの臣下であります。だから私はラキオスという国の力になりたい。それが今の自分にできるアズマリア女王へのただ一つの手向けだからです」

 彼は再び叩頭し、それから顔を上げる。
 レスティーナは自分の顔を人形のように思うことがあるが、目の前の男も同様だと思った。
 それでもレスティーナは彼の言葉を信じる。彼の言葉には一種の重みがあった。知る者にしか伝わらない重みが。
 彼女は毅然として言い放った。

「ではランセル、貴殿を当面はスピリット隊の訓練士として採用するとして、正式な辞令は後ほど届くよう手配しましょう」
「は、ありがたき幸せ。時にレスティーナ様」
「……まだ何か?」
「無礼を承知の上でお訊かせください。亡き我が主君、アズマリア・セイラス・イースペリアをレスティーナ王女はどう考えていられたのでしょう?」

 レスティーナはその問いかけに答えられない。それは予期できた質問でもあったが、同時に答えられない質問でもあった。
 王女という立場は「わたくし」という在るべき立場すら、覆い隠さなければいけなくしている。
 もし本音を少しでも出せば――感情が暴風のように荒れ狂って、自制という歯止めが効かなくなるだろう。
 王族であるが故に、それは決して許されない。

「……出すぎた真似をしました。無礼の段、平にご容赦を」

 沈黙を答えと受け取ったのか、ランセルは深く叩頭した。

「構わない……それでは下がってよろしい」

 三者は一様に頭を垂れてから、謁見の間を後にした。
 ランセルは立ち去り際にレスティーナが俯き加減になっていて、両手で服の裾を握り締めていたのを密かに見る。
 一人残されたレスティーナの小さな体は端から見ても分かるほどに震えていた。
 レスティーナは俯いたまま、急いで私室に戻る。途中で誰ともすれ違わなかったのは彼女にとって幸運だった。

「……ひっ……」

 早足でベッドに駆け込み、もつれ込むように飛び込む。
 ベッドは柔らかく彼女の体を受け止める。しかし心までは受け止めてくれない。

「アズマリア……ごめん……なさい……」

 ベッドのシーツを握り締める。引き裂かんばかりの力を込めて、強く強く。
 顔を深く押しつけて殺す。嗚咽に歪む顔と声を。

(まるで愛娘を見る母親の眼差し)

 伝えられた言葉はレスティーナにとって、安らぎの福音であり研ぎ澄まされた刃でもあった。
 彼女もまたアズマリアへ思慕によく似た感情を抱いている。
 そしてアズマリアも実の母が分け与えてくれない愛情と信頼を持っている、レスティーナはそう信じていた。
 それは奇しくも第三者であるランセルの言葉により、証明された形になる。
 だからこそ彼女は苦しむ。
 ランセルは何も知らない。知らないからこそ――人の心を抉る言葉も存在する。

「……ごめ……」

 声は掠れて言葉にならない。
 父王の密命をエスペリアに伝えたのは他ならない彼女自身だった。
 もしもレスティーナが父の真意に気づいていたら?
 もしも、という仮定がそもそも間違えているのをレスティーナは理解している。いくら過程の話をしても現実は覆らない。
 そこにあるのは変わらない現実だけ。残酷で無常で平等で、留まるという言葉を知らない現実だけ。

(でも私が気づいていたらアズマリアを助けられたんじゃないの?)

 あの日――イースペリア王国が地図から消えた日から続けてきた自問。
 その度にレスティーナは悲痛に苛まれ、憤怒に駆られ、激情に身をよじらせるしかなかった。
 それは、この日も変わらない。違うのは一つの事実を新たに知ったことだけ。
 レスティーナがアズマリアに抱いていた感情を、アズマリアもまた彼女に向けてくれていたという事実を。

「ご……めん……」

 歯が小刻みに震えて噛みあわない。それでも彼女は言葉を口にする。
 言葉を忘れないために己に刻み込む。
 そしてレスティーナはいつまでも悲しみに塞ぎこんではいない。

「わたしは……まけない」

 どんなに辛くても悲しみに全てを任せてしまうわけにはいかなかった。
 母とも慕う相手を救えなかった代償を、いずれ支払う日が来るかもしれない。
 レスティーナはどこか投げやりな動作で体を起こす。顔は赤く腫れぼったくなっている。
 彼女には理想があった。今は亡きアズマリアと二人で語り合って誓った理想が。
 レスティーナがアズマリアにできることがあるとすれば、理想を叶えることだけだった。
 都合の良い解釈と言えなくもないかもしれない。しかし、二人の間の関係は本当は余人には決して分からないものでもある。

「だから……わがままな……わたしをゆるして」

 その慟哭は誰にも知られることはない。












 ラキオス王城を出ると、ようやく一息つけた。ああいう堅苦しい雰囲気は余計に神経をすり減らされる。
 だが収穫はあった。これで晴れて正式にラキオスのスピリット隊と行動を共にすることができる。
 それにレスティーナ王女……彼女もまたアズマリアに何がしかの感情を抱いていたのは分かった。
 その内面が具体的にどのようなものかは分からないが、そこまでは知る必要はない。
 好感情か、悪感情か。そのどちらかはっきりしたのに意味がある。
 死者の本心は分からない。だがアズマリア女王――これでいいですよね?

「ランセル様……その、うまくは言えないのですが……おめでとうございます」

 エスペリアが丁寧に頭を下げる。やはり喜ばしいことなのだろうか……よく分からない。
 とはいえ、後ろ指を刺されない立場にあるのは、何かと楽かもしれなかった。少なくとも気苦労の種は減るような気がする。

「……どうも」

 しかし口から出てくるのは味気ない言葉。気の一つでも利かせてやれればいいのかもしれないが、どうにも苦手だ。
 かといって、このままでいいはずはない。訓練士といっても、自分の場合は彼女らと肩を並べて戦うことになるのだから。

「過去を捨てられるのは困るが……これからはよろしく頼む」

 今度はこちらが頭を下げる番だった。全てが相手に伝わるとも思わない。
 だけど、これでいいはずだ。今の自分らの間に必要なのは、こういうことだろう。

「あ……こちらこそ……」

 驚いたような顔をして、それから曖昧な表情でエスペリアは再び頭を下げる。
 これは一種の通過儀礼なのだろう。負い目がなくなるかは今後次第。

「では、わたくしは街で買い物をしないといけないので、先に行かせていただきますね」

 そう言いエスペリアは一礼して走り去っていく。
 ちなみに詰め所――というより館は城壁の内側にあり、街に出るには途中で詰め所と別の道を行かなければならない。

「……戻ろうか」
「はい」

 こちらは走ることなく歩き出す。セリアも数歩離れた位置を維持するように歩き出す。

「そういえば」

 振り返りセリアを見ると、彼女は目を正面から見返してくる。

「詰め所のあの子は、いつもああなのか?」
「……ネリーですか?」
「ああ。ああいう風に元気なのか?」

 我ながら控えめな言い方だ。そして的を射た言い方でもないので言い直す。
 その間にも足は動いているし、顔も正面に向き直っていた。

「元気とも違うな。無手法(むてっぽう)……なのか?」
「無手法……ですか?」
「ああ。そうじゃないか?」

 ネリーは俺が人間だと言うのに平気で突っかかってくる。今日の打ち合いがいい例だ。
 自分たちの立場が分からないほど彼女も幼くはないだろう。
 突っかかられることに不満があるわけではない。だが、それが俺以外の人間に向けられた場合はどうなるか。

「これでも俺は人間だ。縛りつける気はないが、他の人間にもああなのか?」

 セリアは答えない。構わず続ける。

「不安だよ。いつか、人間とどうでもいいようなことで揉め事が起こるんじゃないかって。考えすぎならいいんだが」
「……それは大丈夫でしょう。ネリーも、その点は嫌というほど解っていますから」

 返事を寄越してきたセリアの声は冷たい。
 ネリーの言っていたクールとはこんな感じなのか?

「それにもしかしたら……ネリーにとってランセル様が特別だからではないですか?」
「特別……?」
「ええ。そうですね……ランセル様は本当に(・・・)人間ですか?」

 自然と足が止まっていた。セリアも同じように足を止めている。
 振り返らずにまた歩き出す。セリアもやはり歩き出した。彼我の距離は変わらないまま。

「あなたは永遠神剣を持っている。そうですよね?」
「ああ」
「私たちにとって永遠神剣の所有者はスピリットかエトランジェしかいません。その意味が解りますか?」
「……人間に持てるはずがない、か?」
「ええ。だから私は今でもこう思っています。あなたは人間の振りをしたエトランジェなんじゃないかと」

 また、その手の話か。そういう話はイースペリアにいたことから付きまとってきた(そし)りの類だ。
 だが、今までと違うのはそれを言ったのは人間でなくスピリットである点。
 スピリットと人間では、エトランジェに対する知識がそもそも違う。

「ランセル様は傷をハリオンとエスペリアの神剣魔法で治してもらいましたよね?」
「ああ」
「ランセル様、知っていますか? 人間の体はスピリットの神剣魔法では治療できないんですよ」
「……何?」
「治せないんですよ。理由は知りません。でもランセル様は……治りましたよね」

 また足が止まった。今度はセリアのほうを振り返る。一体、自分はどんな顔をしているのやら。
 セリアは表情を変えずにこちらを見返す。おかしな顔はしてないらしい。

「それとネリーにとって特別だと言いましたよね?」
「言ったな」
「それはネリーに限らず私にも言えるでしょう。本当にランセル様を人間だと思っていたら、このようには言えません」
「……セリアも俺をエトランジェか何かだと思っているのか?」
「そのほうがよほど現実味がありますから」
「そうか」

 特別とはそういうことか。それはいい。
 問題はセリアの言い分が正しいか否か。いや、おそらくは正しいのだろう。
 では――俺は間違えているのか? 間違えているとしたら、何を間違えている?
 人間だということか? では俺はなんだ?
 それに俺を人だと証明した人間たちは何故証明できた? 何を信じて、何を見て、俺を人間だと言ったんだ?
 自分が両親だと、祖父母だと思っていた誰かは、まやかしなのか?

「……大丈夫ですか?」

 セリアの声で想念が現実に引き戻される。
 分からないことと信じたくないことは多いが、手元の材料から言えるのは一つ。

「仮に俺がエトランジェだとしても、俺は自分が人間だと信じる。でないと困る」

 肩の力を抜く素振りを見せる。本当に抜けたか定かではないが。

「だが、お陰でネリーが俺に敬語を使わない理由も分かった。俺を人間として認知してないんだろう?」
「ええ。私はそうだと思っています」
「……仕方がないか」

 自分の力でどうにかできる問題ではない。いずれにせよネリーへの心配が取り越し苦労に終わるなら、それでいいのだろう。
 何気なく見上げた空は青い。青いがあの青は本物なのだろうか?

(何にも交われない……無色であり中立)

 周囲に似せることはできても、何にもなれない無個性。それが今の自分には適切な表現だと思えた。
 空は空気と何が違う?
 空気は所詮、見えなんかしない。ただ、そこに変わらずあるだけ。
 自分自身と何が違うのだろうか。
 人でもなく、スピリットでもなく、エトランジェでもないかもしれない自分。
 新種と呼ぶにはあまりに中途半端で、規定の枠にも組み込みにくい。
 曖昧な立場。それでも向くべき方向は決まっている。
 語り望んだ言葉に偽りなく。










4話、了




2006年2月13日 1期修正完了

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