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永遠のアセリア
Recordation of Suppressor


8話 十人十色の確認














 まどろみは鈍痛で体の悲鳴は訳の分からないまま持続していた。
 痛みは覚醒を促し、覚醒は痛みを明確にしていき、痛みは増長という主張をやめない。

「つっ……っぅ……」

 声を押し殺す。収まらない訴えを退けようとする。
 無駄だった。
 腹を引き裂かれそうな痛みに、左指はまるで引きつりを起こしたように震える。
 目は開けていられない。シーツを掻きむしるように握り締めていた。息が火のように熱い。熱に浮かされている。
 しばらく耐えていると痛みが次第に鎮まっていき、呼吸も少しずつ緩やかになっていく。
 とりあえず無事らしいので、ようやく意識して目を開いた。
 飛び込む日差しが網膜を焼くように眩しかったので右手で覆う。

(確か……)

 木造の天井が見え、窓から日光が差し込んでいた。すでに見慣れていた第二詰め所の自分の部屋だ。
 何故、という疑問は声に中断させられた。正確には声でなく、声のような意思か。
 音源はベッドの脇に立てかけられている六位永遠神剣『鎮定』。

【気がついたか、主】
「……おはよう」
【む……】
「……何かおかしいのか?」
【まさか挨拶をよこされるとは思わなかったのでな。しかし、そうか。妖精たちに感化されたのかもしれんな、なかなかいいではないか】

 『鎮定』が笑っているように思えた。何が笑いを誘うのかは生憎と分からない。

「……それより何があった? どうして体が痛む?」
【痛みは我慢できるか?】
「あれぐらいなら。それに今は落ち着いてる」
【そうか。では、どこまで覚えている?】
「……刺された神剣を抜いたぐらいまでは」
【その直後に敵の妖精たちが撤収を始め、主は止めを刺されずに済んだ。それからこの部屋に運び込まれ、緑の妖精二人に治療を受けた。その間にも何かあったようだが、詳しいことまでは分からない。眠っていたのは約半日ほどだ】
「そうか」

 それを裏づけるかのように服が変わっていた。血が残らないとはいえ、汚れていれば破れてもいただろう。
 代わりに今は女物の服を着せられていた。この館にスピリットしかいないことを考えれば、文句は言えない。

【痛みは一時的なものだろう。体を構成するマナが不安定になっているからと思うが……生物にとって痛覚があるのは悪くない話だ。心身ともにな】

 どうなのだろう。好き好んで痛みを感じたいとは思えない。
 もしかしてこの剣は本当に被虐趣――。

【不敬なことを考えていないか、主?】
「気のせいだろう」

 嘘ではない。失礼だったら認めるが、不敬ではないから。
 剣と自分は結局のところ同列であり、上下関係はない。以前に『鎮定』自身が言ったはず、だ。
 はっきりと思い出せないのも痛みのせいかもしれない。

【……体は痛みがあってこそ危険を認識し、心は痛みを知ってこそ外への深い理解へと繋がる。痛みを知らない生物は(いびつ)と言わざるを得ない】
「……『鎮定』?」
【独り言だ、気にするな】

 そうして『鎮定』は口を閉ざした。剣に口というのはおかしいかもしれないが、あまり違和感はないようにも思う。
 本当に独り言なのか、何かの含意があるのかは判断しかねるところだった。
 だが、もしも神剣に過去という時流があるならば、この剣も何かを抱えているに違いない。
 部屋は深閑として、本来の静寂を取り戻しつつあった。体を動かす気にはならず、横になったまま窓の外を見る。
 まるで昨日の戦闘が嘘か夢のように明るい天気だ。だけど、それは嘘でも夢でもなく。
 証拠のように再び刺された辺りが疼きだし、また痛みがぶり返してきた。
 目を閉じて、痛みをこらえるのに集中する。集中してどうにかなるものではないが。
 傷は癒えているようだが本調子ではない。それも当然だ……体の中に入り込んだ冷たい刃の感触を思い出して、吐き気が込み上げてきそうになった。
 あれだけの傷を負ったんだから、後遺症があってもおかしいとは感じない。むしろ傷がないほうが異常だ。
 人間なら致命傷だ。人間なら――、

(人間の体はスピリットの神剣魔法では治療できないんですよ)

 声の印象は心境によってこうも違うのか。思い返された彼女の声は、さながら泥水でできた氷のように、暗くて冷たい。
 あの時、セリアは何を考えていたのだろう? 他のスピリットたちは何を考えていたのだろう。
 痛みが体の中を跳ね回る。マナが乱れているかららしい。乱れているのはそれだけじゃないだろうが。
 痛むのは悪くないと『鎮定』は言った。その通りだ。死んで消滅してしまえば、それすら感じないのだろうから。
 だが、あの時の傷は普通の人間なら、よくても生死の境をさ迷っているはず。なのに自分は痛みだけでそれを切り抜けている。
 果たして俺は再び自分の存在のあやふやさを突きつけられているようだ。
 何かにこだわり続けるのは、それほど賢くはないのかもしれない。だからといって、こだわり(すが)らないといけないものは確かに存在する。
 アズマリアは俺を人間だと言い、俺はそれを信じた。
 しかし時に思う。
 アズマリア、貴女は本当に俺を人間だと信じていたのか? 貴女はもしかしたら俺に残酷だったのかもしれない。
 そうしてノックの音が二度響いた。

「はい?」
「……セリアです。入ってもいいですか?」
「どうぞ」

 セリアが部屋に入ってきた。表情は冴えず、どこか疲労の影が濃く見える。
 俺は気を失ってそれでよかったかもしれないが、セリアはそうもいかなかったのだろう。
 ユートもエスペリアもいないとなれば、全ての判断と指示は彼女が行うしかない。

「意識は戻ったようですね」
「今しがた……それよりみんなは大丈夫か?」
「私たちは平気です。ですが……」

 歯切れが悪かった。何か起こったのは間違いない。
 セリアは前髪をかきあげ嘆息。

「昨日、あなたが意識を失ったあとに何があったかを伝えなくてはいけませんね。悪い話が二つですが……城がサーギオスのスピリットに襲撃され、国王夫妻を初め多くの者が命を落としました」

 いきなり切り出された内容を飲み込むまで時間がかかった。国王夫妻の名前と顔が一致するのにも。
 本当に、という質問が喉まででかかった。こんな冗談にもならない嘘をつくとは思っていないのに。

「……そうか」

 かくて復讐は果たされた……違うか。しかし、どこかでこうなることを望んでいたのかもしれない。
 ラキオス国王はイースペリアのマナ消失を引き起こした黒幕だ。その破滅をどこかで望んでいても、おかしくはないのかもしれない。
 だが良い気分はしなかった。いかんともしがたい後ろめたさがある。

「……レスティーナ王女はどうなった?」
「レスティーナ様は難を逃れてご無事です。今は国王に代わって混乱する城内をまとめている最中です」
「……強いな、王女は。それとも今はもう女王か?」
「今はまだ先王の代理です。他に継承権を持つ王族はいないので、すぐに王位を継ぐことになるのでしょうが……」

 やはりセリアの表情は浮かない。経緯を考えれば素直には喜べないからだろう。
 しかし、これは大きな転機になるはずだ。ラキオスという国にとっても、スピリット隊にとっても。
 セリアは遠くの空に目を凝らしていた。心ここにあらずといった様子にも見える。

「スピリットが人間の命を奪った……信じがたい話です。同じスピリットが人間を殺してしまうなんて……」
「……イースペリアでも同じだった」
「え?」
「……兵士が斬られていた。サーギオスのスピリットは人でも殺せる。物理的にできない訳じゃないからな」

 ラキオスやイースペリアのスピリットが人を殺せないのは観念的な部分による。
 人が人を殺してはいけないと教わるのと同じことだ。ただスピリットの場合はより徹底している。だから、ありえないと思う。

「気にしているようなら、あまり気にするな。ラキオスとサーギオスのスピリットは違う」

 セリアは無言で視線を下ろす。俺の顔を見てから、また視線が外に戻る。そして口元が動く。
 声は聞こえず、ほとんど口の動きだけで独語する。何を呟いたかは判らない。

「……それに知っていて、どうにかなった話でもない」

 仮にサーギオスのスピリットが人を殺せるのが分かったとして、対策の立てようはあったのか?
 否だ。
 人間はスピリットに敵わない。警戒のためにはスピリットが城内に詰める必要がある。
 しかし偏見に凝り固まった人間は、それをよしとはしないだろう。対策を立てようというのが、土台無理な相談なのかもしれない。
 偏見。それは無自覚のまま心を蝕む毒だ。そして不意に気づいたが、俺もまたどうやら人間に偏見を持っているらしい。

「……それで二つ目の悪い話は?」
「え?」
「……そっちが大丈夫なのか?」

 驚いたように訊き返された。完全に気が逸れていたらしいが、やはりセリアらしくない。
 だがセリアは大きくかぶりを振る。

「別になんともありません。怪我人に心配されるほどやわではありませんから」

 皮肉っぽいというか痛烈なのは、いつも通りなのかもしれない。

「それで二つ目は……昨日の襲撃に紛れて、カオリ様が漆黒の翼に誘拐されました」

 また言葉を飲み込むのに時間がかかった。大事を妙に淡々と伝えられてる気がする。
 しかし、どういうことだ……?

「漆黒の翼があのウルカで……カオリって、ユートの妹の?」
「他にいないでしょう」
「……どうして彼女が誘拐されるんだ? こう言っては悪いが誘拐する必要がないんじゃないか?」

 カオリ。エトランジェ、ユートの妹。すなわち彼女もエトランジェである。
 しかし、彼女を誘拐する理由がどうにも思い浮かばない。
 仮にもエトランジェ相手であれば、誘拐よりも暗殺を優先するのが筋というものじゃないだろうか。
 だがカオリは己の神剣を所有していない。それゆえの誘拐かもしれないが、やはり解せない。
 (さら)ったところで、ラキオスの戦力低下にもならないし、サーギオスの戦力増加にも繋がらないはず。
 ユート個人に対する狙いがあるとしても、やはりカオリを誘拐するほどの行動が必要になるとは考えにくい。

(それとも……)

 まさかとは思うが、ユートをサーギオスに寝返らせるための手段としてカオリを利用する気か?
 だが、『求め』はラキオス王家への反抗を許さないという制約があったはず。
 なればこそ、王族の暗殺が実行された? 王族がいなければ、ユートが制約を受けることはなくなるかもしれない。
 しかし……これは推測だ。

「それが……漆黒の翼に指示を出していたのはサーギオスのエトランジェで、そのエトランジェはユート様とどうも不和らしく、挑発するような捨て台詞を残していってます」
「余人は知らない(こじ)れた因縁があるなら、おかしくもないのか」

 ユートとそのサーギオスのエトランジェに何がしかの関係があるならば、この不可解な誘拐劇も多少なりとも筋は通るのかもしれない。
 そうなると、ここで推測の話をするのは逆効果だろう……余計な憶測は誤解の種になりかねない。
 ユートとそのエトランジェの関係が単に険悪なのかもしれないし、カオリがユートにとってそれだけ大切だという可能性も。
 ――本当に大切な者を失いそうになれば、形振(なりふ)り構わなくなるのが当たり前なのかもしれない。

「それでユートはどうしている?」
「今はだいぶ落ち着かれていますが……昨日はあわや『求め』の力に取り込まれるところでした」
「取り込まれる?」
「ウルカにカオリ様が連れて行かれそうになるのを見てです……取り込まれるというより、力に振り回される……暴走と呼んだほうが適切かもしれません」

 具体的には分からないが、セリアの口振りからはあまり良くない状況だったようだ。
 神剣の力……代償を求める力だ。いや、物事にはどんなことであれ代償が付きまとう。生きているだけで確実に時間を消費するように。
 いずれにしても『求め』の代償は大きいらしい。神剣を持っていながら、自分はほとんど『鎮定』に要求された覚えがないので、どうしても実感に乏しいが。

「……?」

 視界の中に動きを認める。何か赤い物がドアの向こうで動いていた。髪の毛だ。赤い髪がドアから隠れるように覗いている。
 俺の視線に気づいてセリアが後ろを振り返った。

「……ナナルゥ、何をしてるの?」

 声にはどこか呆れの響きが混じっている気がした。
 色白の顔が控えめに現れる。俺とセリアを交互に見ているようだ。

「お邪魔じゃないのですか?」
「どうしてそうなるのよ」

 いよいよ呆れ声のセリアに、ナナルゥは無表情のまま首を傾げた。

「とにかく入ったら? そのつもりで来たんでしょう」
「それでは」

 会釈してからナナルゥが部屋に入ってくる。どういうわけか『消沈』を左手に抱えて。
 ベッドに寝たままだと、ただでさえ背の高い彼女はいつもより大きく見える。……そう感じるのは、案外自分が参ってる証拠かもしれない。
 すぐ近くまで寄ってきたナナルゥが無言で上から見下ろす。捉え所のない、どこか人形めいた視線、そんな風に思う。何を考えているかは読み取れそうにない。
 セリアも口を出すきっかけが掴めないのか、場に飲まれたように黙している。
 向けられていた視線が外され、ナナルゥは少し後ろに下がる。どうにも彼女の意図が読めない。

「……あなた、何しに来たの?」

 堪りかねたのか、セリアが横から口を挟む。対するナナルゥはセリアを正面から見据えるものの、表情を変えないまま僅かに首を傾ぐ。
 それから、横目でこちらを見る。

「……気にかかることがあったので。昨日の戦闘の折、ランセル様は敵の神剣に胸を貫かれました。その瞬間、一瞬ですが気配が変わったような気がしたんです。それにユート様の件もありましたので、もしやと思い」
「でも、本人は至って平気そうよ?」
「はい。ただの取り越し苦労かもしれません」

 二人の会話は成立している。成立しているが、話題とされているはずの自分にこそ中身の全容が分からなかった。
 ナナルゥが言おうとしているのは、自分が神剣に――『鎮定』に呑まれると言いたいのか。
 あの時、神剣が胸に刺さる直前に『鎮定』の力が体内に波紋のように拡がるのは感じた。おそらく痛みを止めたであろう、それは根のように体に行き渡って……それはどういうことなのだろう?
 神剣の力を行使するのは、魂を呑まれるのとは同義ではないはず。だというのに不安な気分になる。
 自分たちは気づかないうちに代償を払っている。時間の消費と同じことだ。
 『鎮定』の代償。知らないだけで、それは確実に差し出されているのかもしれない。知らないことこそが――。

「……ナナルゥ、何か他に話さないの?」
「もう知りたいことは聞いたので」
「ああ、そう……でも、なんか味気ないと思わない?」
「雑談を所望ですか?」
「そういう意味じゃないんだけど……」

 セリアが一気に疲れたような表情をするが、ナナルゥはきょとんとしている。それでも何かを一応は感じ取ったらしく。

「ランセル様はご自分の神剣が好きですか?」

 唐突な質問が投げかけられた。ナナルゥにとっては何かの意味があるのだろう。
 脇に立てかけられている『鎮定』を見やる。そこが定位置のように、いつも俺の側にある永遠神剣。
 それがいつ頃からかは分からないが、近くにあるのを当然と受け止めている自分がいる。

「好きか嫌いかで言えば……たぶん、好きだと思う」
「そうですか」

 そうしてナナルゥとの会話が終わる……終わってしまっていいのだろうか? ここから何か話が繋がると思っていたのだが。
 慣れないことはするべきじゃない。そう思いながらも、慣れない日常会話の端緒を捻り出す。

「今日はいい天気だな」
「そうですね」

 またしても発展せずに終わる。いや、今回は俺のせいかもしれない。
 確か天候の話は切り出しに向いていると聞かされていたが、後の展開を考えていなければどうにもならない。
 いや、そも日常会話などというのは予測して組み立てるものではないのかもしれないが。

「……まったく」

 セリアの重たいため息が聞こえた。

「どうしました?」
「……ちょっと昔を思い出してね。なんだか涙が出てきそう」

 力なく笑うセリアは、冗談でも言っているのだろうか。初めて彼女が苦労人に見えた。この認識が正しいかは別として。

「そうですか」

 と、ナナルゥは『消沈』を壁に立てかけてから、セリアに向かって両腕を広げる。

「……何?」
「飛び込んでいいんですよ? 今なら頭を撫でるおまけも漏れなくついてきます」

 本気なんだろうか? ナナルゥが言うと大真面目なのか冗談なのか、判断に苦しむところだった。
 セリアはにこやかな笑みを浮かべて、何か言おうとして――階下からの騒ぎ声に遮られた。
 言葉は聞き取れないが、大勢が大声で大混乱といった様を呈しているようだ。

「ニムじゃないけど、また何か面倒?」
「朝食が心配です」
「そっちの心配?」

 馴れてるんだな。漠然とだが、そう思う。

「私は下に行くけどナナルゥは?」
「私も行きます」

 セリアは頷き、こちらに向き直る。

「私たちは下に行きます。落ち着いたら朝食を運ばせますが、食欲はありますか?」
「ああ、大丈夫だ」

 セリアは頷くとドアを開け、ナナルゥを先に出し次いで彼女も外に出る。

「大人しくしていてください」

 返事も待たずにドアが閉められた。
 そんなにふらふらと動き回るやつに見られているのだろうか? それとも言葉の綾?
 まあいい。成り行きに身を任せるとしよう。目を閉じて、もう一度眠りに落ちていく。思考は落ちるに気づかないまま途切れて――。












 体が揺り動かされている。ほとんど反射的に目を開けると、そこにハリオンとヒミカがいて、さらにヘリオンまでいた。ヘリオンは鍋を抱え、ヒミカは皿とスプーン、ハリオンが紙を持っている。
 三者三様の挨拶を交わす。それにしても珍しい組み合わせもあるものだ。

「はいはい、朝食の時間ですよ〜」

 ハリオンの一言が用件を告げていた。どうやら、あれから少し眠っていたらしい。
 眠気覚ましも兼ねて上半身を起こす。気だるさは残っていたが、痛みはなかった。

「えっと……お鍋はここに置いてしまっていいんですか?」
「ああ」

 ヘリオンが示したのは部屋の壁際にある机だった。使うことが少ないので、上には何も乗っていない。
 鍋を置こうとして、ヘリオンは困ったようにこちらを見る。

「この机……埃が溜まってるんですけど、いいんですか?」
「あまり使ってないからな。気にせず置いてくれ」
「はぁ……」

 どこか気の抜けたような返事をして鍋が置かれる。その横でハリオンが指先で机の上をなぞってから、指先を凝視する。

「掃除が行き届いてませんね〜。不衛生な部屋に住んでいると体を悪くしますよ〜?」
「……そうか?」
「ですよ〜。二人もそう思いますよね〜?」

 話を振られた二人も異口同音にハリオンに賛同した。そう言われると……確かに掃除の一つぐらいしたほうがいいのかもしれない。

「今は掃除よりも先にお食事ですけどね。ちょっと待ってください〜」

 すぐに食事が用意される。食事といっても茶色の透き通ったスープだけ。どうやら体に気を遣ってもらっているようだ。
 皿に並々と注がれたスープを(すく)って飲んでいく。味は……野菜を煮込んだものだろうか。だが薄いというか物足りない。味付けが今一つなのか、他に原因があるのか。それに何か雑味があるような。
 ヘリオンがそれらの挙動を真剣に見ていた。理由を考える前に目が合う。
 彼女は慌てふためいたらしく。

「あ、あの、お味はどうでしょう?」

 興奮したような緊張したような、早口でそう訊いてきた。ヒミカが横から付け加える。

「そのスープはヘリオンが作ったものなんですよ」
「料理の練習をしていたもので……みなさんに頂いてもらってるんですよ」

 ということはヒミカとハリオンも?
 こちらの考えに気づいたのか、ヒミカが肯定する。

「私たちももちろん飲みました。ですが、ここはなるべく多くの意見を聞きたいので」

 なるほど。そういうのは、なんとなく分かる。以前、料理が美味くできないと言っていたような気もする。
 そういえばヘリオンは第二詰め所の調理役の中には入っていなかった。今は無理でも上達すれば、あるいは名を連ねるのだろうか。
 いずれにしても、スープの感想をできるだけ仔細に伝えていく。言ったことが的外れでないのを願うのみ。
 スープを注ぎ直してもらい、大体を伝え終わったところで、ハリオンが呟いた。

「……これはいい機会かもしれませんね〜」

 それが今までの料理の話と関係があるのかないのかは判らない。ただ、ヒミカは何かを感じ取ったらしく。

「また変なこと企んでるんじゃないでしょうね」
「企んでるなんて滅相もないですよぉ。それに、それだと私がいつも怪しげな計画を立ててるみたいじゃないですかぁ〜」
「自覚がないようね……ヘリオンもそう思うでしょ?」
「わ、私ですか?」
「可愛い後輩さんは、いたいけな先輩の味方ですよね〜?」
「私は別にどちらの味方じゃなくて――なんなんですか、この板ばさみはっ」

 ヘリオンはヒミカとハリオンの間で、あたふたと混乱している。
 こう言ってはなんだが落ち着きのないスピリットだ。それもヘリオンの愛嬌のうちかもしれないが。

「私はただ〜、館の大掃除をしたらいいかな〜と思っただけですよ〜」
「大掃除?」
「はい〜。昨日のこともありますし、気分転換が必要だと思うんですよ」
「それは……そうかもしれない。だけど、今から?」
「まだみなさん下にいるはずですから、話すにはちょうどいいですよ〜。朝の片付けも終わってませんし〜」
「……そうね。不謹慎かもしれないけど、今日はそれぐらいがいいのかも」
「ですよ〜。それに張り詰めすぎでは参ってしまいますから〜」

 ハリオンは胸の前で両手を組み合わせて、ゆっくりと諭す。
 昨日の出来事は、どうやら彼女たちにも大きな波紋を投げかけているようだ。

「じゃあ、私は下に行きますけど、ヒミカたちはランセル様の食事が終わったらでいいですから〜」

 一礼してから、ハリオンが部屋から出て行く。うまく言えないが、妙に慌しかったような気がする。
 それはヒミカも似たようなものだったのか。

「ハリオンがあんな調子で申し訳ありません。ランセル様を蔑ろにしているわけではないので、そこは……」
「そういう風に考えてないよ。しかし……昨日がそんなに影響を及ぼしていたのか」
「昨日、何があったのか知っているんですか?」
「セリアに大まかなことは聞いた……王族が暗殺されたのと、カオリが誘拐されたこと。それとユートが『求め』に振り回されたのは」

 ヒミカは無言で肯定する。ヘリオンのほうは俯きがちに、そしてどこか怯えているような表情だった。

「あの時のユート様は……別の人みたいで、とても怖かったです……」
「……ヘリオン」

 ヒミカがヘリオンの肩に手を回して、子どもをあやすように浅く抱く。

「あ、あの……?」
「ユート様なら大丈夫だから……」
「……はい」

 ヒミカはヘリオンから離れると、こちらに向き直る。
 ほのかに頬を赤らめたように見える彼女は照れ隠しのように目を逸らして、それから大きく吐息。表情は緊張の影を取り戻していた。

「ユート様は大丈夫だと私は信じています……もちろん不安はありますけど、それでもユート様ならきっと……」

 それでもヒミカの表情は晴れず、唇を噛んでいるように見える。

「でも私は力不足が悔しいです……」
「力不足?」
「もっと力があれば、今回の狼藉の被害をもっと抑えられたかもしれません。それにユート様の力にもなれたはずです」
「……別に慰めでも励ましでもないし、ヒミカがユートの力になれてないか俺には解らない」

 そう。解らないし、立派な高説を説くわけでもない。だけど、これはどうにもならないことじゃないか?

「過去はどうにもならない……どんなに悔やんでも嘆いても、起こった事実は覆せないんだ」

 どうにもならない。変えられない。だからどこかで折り合いをつけて。
 ベッドから起き上がる。立ち上がる際に腹が痛んだが、我慢できる程度だ。スープの残っている皿を持ったまま、ベッドの側にある窓を開ける。

「すまないな、ヘリオン」
「え? あ……」

 皿を傾け、窓の外にスープを流していく。それはすぐに全て零れて、下の地面に落ちていく。
 二人は呆然としていた。特にヘリオンは泣きそうな目をしている。
 悪いとは思うが、どうにもならない。過去は戻らないからだ。原因を取り除きたくとも適わない。だけど、同じ轍を踏まないようにはできる。

「零したスープは戻らない……無くしたモノは二度と、二度と戻らないんだ。やり直しだってできない。だけど、過去から学んで次に繋ぐことならできる。このスープだって、中身はよく似た別のスープになってるかもしれないが、まだ注ぎ直しはできる。そして注ぎ直した時に、今度は零さないようにするしかない。次は少しでも悔やんだり悲しんだりしないように……2人ならどうする?」

 二人は答えない。自分も即座の答えを得られるとは考えていない。
 肯定か否定か、それともまったく別の回答か。それは彼女たちの内に出されればよく、自分に必ずしも知らされる必要はない。

「……おかしな話をしたな。ヘリオン、せっかく作ってくれたのにごめん」
「あ……そんな、ちっとも気にしてないですから」

 ヘリオンは笑う。空元気のような顔で笑う。
 ああ、失敗だ。口で言えばいいだけで、何も直接やって見せる必要などなかった。それこそ作った当人の見ている前で。
 ヘリオンに近づいて皿を差し出す。彼女はすぐには受け取らない。

「ごちそうさま……次は零さないし、残さない」
「えーっと……それは期待しちゃっていいんですか?」
「……何を期待してるか知らないけど、期待は自由だろう」

 期待に応えないのが裏切りと言われると、空恐ろしいものはあるが。関係のない話か。
 ベッドに戻る。動悸が速いような息が上がっているような、妙に息苦しい。まだ体に負担があるのか?
 深く考える前にハリオンが部屋に戻ってきた。

「みなさんの了解は取れましたよ……何かあったんですか〜?」

 ハリオンは怪訝そうな口調だった。ヒミカは(かぶり)を振って答える。

「なんともないわよ。それより行きましょうか」
「それならいいですけど……それではお大事に〜」

 ハリオンはお辞儀を、ヒミカは会釈をして部屋から出て行く。ヘリオンは少しの間だけ留まっていたが、深々と頭を下げてから立ち去っていく。
 揺れるお下げを見ながら、自然とヘリオンを呼び止めていた。

「ヘリオン」
「なんですか?」

 彼女は振り返り、こちらと目を合わせる。どうして呼び止めたかは自分でも解っていない。
 だからなのか言葉に窮した。

「えっと……もしかして気にされてるんですか?」

 ヘリオンの問いかけにも答えられなかった。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、はにかみ笑いを見せる。

「もしそうなら気にしないでください。もちろん驚きましたけど、本当に気にしてないですから」

 ヘリオンは姿勢を正し、もう一度深々と頭を下げた。
 そして彼女は走るように部屋から出て、ドアを勢いよく閉める。風が吹き抜けるような、独特の清涼感を何故だか残して。
 部屋は静けさを取り戻していた。それはごく自然な、本来この部屋が持っている要素だ。
 足りないのは特徴。この部屋にはあまりに主張するものが足りない。

「……『鎮定』」
【なんだ?】
「さっきまでヒミカたちと話していたのは俺だよな?」
【さっきがどこからどこを指すか分からないが、当たり前だ。それとも何か、私が話していたとでも言うつもりか?】
「そうじゃない……そうじゃないんだが」

 あれは本当に自分の言葉だったのか。他人の受け売りのように自分の考えた言葉らしくないようだ。
 過ぎたことはどうにもならない。その通りだ。そんなことは解っている。
 だというのに、どこかで聞きかじった台詞をそのまま朗読したような気分だ。

「……どうかしてる」

 普段と違うことをすれば、それは違和感として返ってくる。これもその類かもしれない。
 あるいは体力が落ちているから、おかしな方向に思考が逸れるのかも。
 参ったな……本当に。考えるのがひどく億劫になっていた。頭を休めるために、目を閉じる。
 陽光が目蓋の上からでも白い色彩を与えてくる。それをほんの少し煩わしく思いながらも、体は休息を求めていた。今日は寝てばかり――。












 目を覚ましたが風景は何も変わっていなかった。違う、太陽の位置だけは変わっている。前に起きていた時よりも高くなっていた。
 閉め忘れていた窓からは、そよ風がしきりに吹き込んでいる。その証拠に風で木々が揺れるざわめきが聞き取れる。
 いつもなら訓練が行われている時間だが、今日はやっていないようだ。まだ混乱から立ち直っていないからだろう。
 これからどうしたものか……。
 不意に足音が聞こえてきた。それは段々と近づいてきて、話し声も徐々に聞き取れるようになっていく。
 どうやらネリーとシアーの姉妹らしい。

「次はここー!」
「ここー……でいいの?」
「なんでー?」
「だって、この部屋……ランセル様の部屋だよ?」
「ハリオンは掃除していいって言ってたよ」
「それはそうだけど……ネリーは嫌じゃなかったの?」
「んー、前よりは平気かな。くーるなネリーはああいう何考えてるか読めないのも越えないといけないわけだし?」

 そして誰何の声を挙げる間もなく、ドアのノブが回る。

「ノックして返事を待ったほうがいいんじゃ……」
「だけど、もう開けちゃったし。ほら」

 ドアを開けたネリーは、部屋の中も見ずに何度もドアを開け閉めしていた。まったく何をしている。

「いいのかなぁ……」
「だいじょーぶだいじょーぶ。失礼しまーす」

 許可も遠慮会釈もなしに2人が入ってくる。

「あ、シアー。目を覚ましたよ」
「覚ましているよ、だ」

 声を出してみると、案外と平静だった。
 そこにいたのはやはりネリーとシアーの姉妹で、二人とも水桶に布切れと柄の長い箒を持っている。
 彼女らの表情はいつもと変わらないように見える。
 そういえば二人が自分の部屋に入ったのは、今回が初めてじゃないだろうか。部屋の前まで来たことならあったはずだが。

「掃除か?」
「うん。念入りにするようにハリオンに言われてるけど、いいよね?」
「ああ」

 念入りに、というのが引っかかるが、あえて深く訊きはしない。
 それとは別にシアーが不安げに眉尻を下げて、こちらを見ていた。

「あのぅ……けがは大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。動き回るにはまだ苦労しそうだが」

 上半身を起こしてみるが、とりあえず痛みはない。
 するとネリーが神妙な表情をしていた。ネリーは俺を一瞥してからシアーに視線を移す。

「……シアー、やっぱりそういう喋り方って変じゃない?」
「変?」
「うん。シアーらしくないっていうか、ユート様にだって普通に話してるでしょ」
「そうだけど……でも何か違うっていうか……」
「別にかしこまらなくていいと思うんだけど」

 どちらかというと、それはネリーではなく俺が言うべき台詞じゃないだろうか?
 遠慮、という話をハリオンが言っていたのを思い出す。一日しか経ってないはずなのに、だいぶ昔の話のように思える。
 シアーにあって、ネリーにないもの。それはなんだ? セリアが語ったように、俺を人間として見るか、エトランジェとして見るか、だろうか。それとも、それ以外にも何か?
 だけど事はもっと単純で、深く考えるだけ損をするのかもしれない。

「シアーが本当に話しやすいほうでいい。俺は気にしないから」
「分かりました……じゃなくて、分かったね」
「やっぱりシアーはこうだよね」
「そうかなぁ……」

 シアーは照れたように笑う。笑顔の質は変わらないはずなのに、何故かいつもより屈託なく見えた。

「……俺も掃除を手伝ったほうがいいか」
「動いても平気なの?」
「体をまったく動かさないのも良くはないだろ」

 それに二人が掃除している横で寝ているのも褒められた話ではない。ベッドから立ち上がると、ネリーが布切れを手渡してくる。

「じゃあ、二人はまず床を掃いてくれ」
「はーい!」

 揃って元気よく腕を掲げる。さて、楽しそうなのは好ましい。そうなると、やるからには俺も手を抜けないな。
 布を桶の水に漬けて湿らせてから硬く絞って水気を払う。姉妹が元気よく大雑把に箒を動かすのを尻目に窓を拭いていく。
 手を動かしたまま、背後の二人に話しかける。

「他のみんなも掃除してるのか?」

 答えたのはネリーだった。実際に見てないのに箒が止まっている姿を想像できた。

「んーと、セリアとナナルゥにヒミカはレスティーナ様に呼ばれて城に行ってるよ。どうしてかは知らないけどね。他のみんなは掃除中で、ハリオンとヘリオンが台所でニムとファーレーンが一階の部屋」
「それで、お前たちが二階か」
「うん。ほんとは一階がよかったんだけどね。あんまり汚れてないから楽なのに」

 ネリーの軽い不満は聞き流す。ニムントールが楽らしい一階なのは、すぐに面倒がるからだろう。
 かといって、ネリーとシアーの双子が監督なしにちゃんと掃除をするのかも、正直に言えば怪しい気はした。

(……もしかして俺が監督するのか?)

 割り振りをしたのはハリオンだと思うが……偶然なのか故意なのか。どっちでも俺が面倒を見たほうがいいだろう。
 それとなく後ろを見ると、ネリーの手は止まっていなかった。止まっていなかったが、やはり大雑把に掃いている。あれでは埃ばかり舞い上がって、あまり掃除にならないような。
 シアーはベッドの下を覗き込んでいた。

「何してるんだ、シアー」
「あの……これは……?」

 質問に答えないで、手を伸ばして何かを引っ張り出してくる。イースペリアを発った時に持ってきた鞄だ。
 シアーは興味津々といった顔つきで鞄を眺めている。

「これ……開けても……」
「ちゃんと掃除するなら開けてもいい」

 見られて困る物が入っているわけでもない。掃除の進みが遅れるのは……半ば予想はできていたと自分に言い聞かせておく。掃除も急を要するわけでもない。
 シアーは机の上を一通り拭いてから、その上で鞄を開いた。ネリーも誘われるように机に寄る。

「何か面白そうなの入ってる?」
「ちょっと待って……」

 興味津々といった様子で中身を出していく二人は、次第に落胆の色を濃くしていく。
 中から出てくるのは果実を乾燥させた保存食や、いくつかの雑貨品ばかり。見る見るうちに多くない鞄の中身が並べられていく。

「面白い物なんて入ってないだろ?」
「あ……これは?」

 シアーが手に取ったのは、小さくて丸い金属だ。

「見せて、シアー」

 ネリーがシアーから金属を受け取る。その際に陽光を受けて鈍い光を放った。

「それはイースペリアの軍証だよ」
「ふーん、偉かったの?」
「……そこそこだったと思う」

 もっとも今となっては偉かろうとなかろうと意味がない――とは言わない。
 その軍証にしても捨てるに捨てれないから持っているだけだ。こだわりは……捨てられないからには、あるのかもしれない。

「ねえねえ、イースペリアにはどんなスピリットがいたの?」

 訊いてきたネリーはおそらく単純な興味本意で他意はないのだろう。シアーもどことなく興味あり気にこちらを見ている。
 だからといって思い出すのは少し気が重たかったが。
 それに自分はイースペリアのスピリットと関わっているようで、それほど関わっていない。人間に対しても同様だ。
 どちらにも、近いようで遠かった。かといって、遠いと言い切るには近すぎた。

「そうだな……」

 一度ダーツィのスピリット隊との遭遇戦に参加して、援護に回ったことならある。その時は戦闘後に少し話したぐらいだったが。

「悪いやつはいなかった。気さくと言うか……物怖じはしなかったな」

 そういう部分はネリーも似ているのかもしれない。大物なのか怖いもの知らずなのか、なんなのか。

「ふーん……他には?」

 もう一人だけ話せるスピリットはいる。いるが今度こそ話すのは躊躇われた。
 忘れたいとは違う。だけど必要以上に触れたくもなかった。できるなら目を合わさずにいたい。
 ただ一言、知らないと言えば、それは叶えられる。言い張れば、それでこの話題は終わる。
 黙って、何もなかったように忘れた振りをして、それでいいなら。
 思い出すのさえ、まるで禁忌みたいに扱って。それで何が変わるのか。
 触れる必要はなくとも、なかったことにはできない。起こった事象は覆せないのだから。
 こうして黙っていれば、彼女はいずれ誰の記憶にも残らなくなる。きっと、それは寂しい。
 忘れ去られるが必定だとしても、それはまだ早すぎる。
 正面から向き合って、声に出してみてもいいかもしれない――彼女の存在を証明するように。彼女がいた、という事実を消さないように。

「アリカ……そういう名前のグリーンスピリットがいた」

 内心の葛藤を余所に言葉は淀みなかった。それが意外であり、同時に少し悲しい、と思う。

「歳は……ネリーたちとセリアたちのちょうど中間ぐらいだったか」

 顔つきから考えると、それぐらいの年頃だ。大人に近くて、それでもどこか子どものような。
 髪型は……うまくいえないが普通。特別印象には残っていない。
 だけど、外見じゃなく性格を教えなくては意味がないだろう。

「真面目だったのかな……あと頑固だったし、素直だったと思う。表情もよく変わって見てて飽きなかったかもな」

 全ては想像だ。確かめる前に別離してしまって、もう届きやしない。
 だけど、話した内容以上に最期の――マナ消失の瞬間を忘れられなかった。
 無理やり作った笑顔を。光の中の、あの背中を。聞こえないはずなのに明瞭な声が。それでも聞こえなかった言葉を。
 彼女は立っていた。おそらくは本当に最期の時まで。

「……何より勇気があったと思う」

 自分の身を捨ててまで、何かを守ることは愚かしいのかもしれない。正しくないのかもしれない。
 それでも、自分の目にはやはりそう映っていた。他にどう形容すればいいのか。
 あるいは自己犠牲、献身か。
 マナ消失の場で神剣魔法を使うには、自分の体を構成するマナを使うしかない。
 そんなことをすれば、自分の体が消えてしまう。だが彼女はそれをやった。
 そしてアリカを思い起こすのは、そのままシアーへの疑問に結びつく。
 アリカが俺を庇ったように、シアーもいつかヘリオンを庇っていた。彼女たちは、自分の危険を顧みずに誰かを救おうとしている。

「……それより掃除だ」

 脈絡なく、そう言っていた。これ以上話すのを拒んでいる、のか?
 有無を言わさず自分から掃除に戻る。二人は釈然としないような顔をしていたが、それ以上を尋ねようとはしなかった。
 鞄の中身は元に戻され、今度は机の上に置かれる。
 そして掃除に戻っていくが……しばらくすると、ネリーとシアーの集中力は切れてしまったらしく、すぐに何か話し出してしまう。
 初めのうち何度かは注意したが、それでも我慢できないらしいので、それも諦めた。

「やっぱり、この部屋ってクールさが足りてないんだよね」
「だよね〜」
「机の上に何か置いてあると、もうちょっといいと思うんだけど」

 ネリーの言うクールが何かはさて置き、散々指摘されてきたような殺風景さを、この姉妹にまで言われるとは思わなかった。
 自分の無頓着さには気づいてるつもりだが、もしかしたら致命的なまでに酷いのかもしれない。

「シアーはお菓子が置いてあれば、それでいいと思うんだけど……」
「……俺は菓子とか食べないぞ」

 本当に菓子を置いたら面倒な話になりそうなので、横から口を挟んでおく。

「それだったらネネの実もいいんじゃないかな?」

 聞いちゃいない。それに食べ物は確定なのか。
 妄想を膨らませていく姉妹を無視して掃除を続ける……なんだ、これ。俺が一番働いてないか? 俺の部屋だからと言われればそれまでだが。
 愚痴を言ったところで解決にもならないので、黙って作業に没頭する。広い部屋でもないので、いざ集中すれば大して時間もかからない。
 姉妹のほうも段々熱中してきたのか、途中からは口数もほとんどなくなっていた。部屋の汚れが見る見るなくなっている、はずだ。
 現に窓や壁を拭いた布切れは黒い汚れがこびりついていて、水洗いぐらいでは落ちそうにない。
 こんな具合に部屋の掃除は済まされていき、最後にネリーが溜まった埃を捨てたところで終わりとなった。

「終わった〜」
「疲れた〜」
「……まだ二人は他の部屋の掃除があるだろ」

 あからさまに嫌な顔をされたが見なかったようにする。これ以上はもう手伝わなくても平気だろう。
 ネリーとシアーは掃除用具をまとめると、のろのろと部屋を出て行く。ベッドに戻ろうとした時に、背中からシアーに話しかけられた。

「あの……お菓子は置いてくれない?」
「……本気で言ってたのか」

 脱力したような気分だった。そういえば、すっかり忘れていたが昨日買ったヨフアルはどうなったのだろう。
 戦闘が始まってからはそれどころじゃなかったし、色々起きたことを考えれば食べられてないと考えるべきか。

「シアー、今度何か買うから、それは我慢して欲しい」
「ほんと?」
「ああ。それぐらいなら別に構わない」

 シアーは子どもみたいに目を輝かせている。いや、実際に子どもなのか。
 その子どもでさえ命を投げ出せるわけだ。本当に……どうなっている。

「……ネリーが待ってる、早く行ったほうがいい」
「はーい」

 シアーが今度こそ去っていく。程なくして遠くでネリーが何か言っているのが聞こえてきた。
 姉妹の声はもう届かない。近くて遠い、中途半端な距離だけは今も変わっていなかった。
 俺はこの距離を、もっと縮めなくてはならないのかもしれない。












 黄昏時。陽光の残滓(ざんし)は浴びると柔らかく、それでいて向き合うには(いささ)か鋭い。
 その日最後の、そして最も意外な来客たちが部屋を訪れていた。

「昨日も思ったけど、本当に物が少ない部屋」
「……また、そういう話か」

 部屋を一望するのはニムントール。その表情はどう見ても呆れ。視線は決して暖かくなどない。
 もう部屋の内装に何か言われるのは諦めた。それを今すぐ是正するのは無理でないにしろ難しい。
 ニムントールの後ろに立つのは、やはりファーレーンだった。二人が単独で行動するほうが珍しいかもしれない。
 ファーレーンも室内を見渡してから、ニムントールに話しかける。

「ニム、機能美という言葉も……」
「お姉ちゃん、これは機能するものがほとんど何もないんだよ? 整理整頓とかそういう段階じゃなくて」
「う……」

 ファーレーンは言葉に詰まる。仮面の生地越しにくぐもった声が、余計に弱々しく聞こえさせた。
 当人は気づいていないようだが、彼女の反応はニムントールの言葉をそのまま肯定してるのと同じだ。

(それにしても、どういう風の吹き回しだ?)

 同じ戦場で戦う仲間、とは呼べる関係かもしれない。しかし、この二人とはそこまで親しくないのも事実だ。
 理由があるとすれば……怪我だろうか?
 そういえば『鎮定』が怪我の治療をしたのは、緑の妖精二人と言っていた。
 あの場にエスペリアがいなかったのを考えると、ニムントールも含まれているはずだ。経過を診に来たなら納得できる。

「ニムントール」
「……何よ?」

 邪険な物言い。気後れはしないが、出鼻は挫かれた気分だ。
 もっとも怖いもの知らずとも取れるこの態度こそが、ニムントールたる象徴なのかもしれない。

「怪我の治療、手伝ってくれたそうだな。ありがとう」
「……ふん。あんな血だらけで倒れられてたら、こっちが迷惑だもん。今日だって本当は面倒だったのに……」

 憎まれ口を叩くニムントールの横でファーレーンが穏やかに笑う。それに気づいたニムントールは、ファーレーンに向けてそっぽを向く。
 しかしニムントールの言葉は耳に痛かった。内心、どこかで足を引っ張ることはないと考えていたせいもあるのかも。
 いずれにしても今回の深手は自分の力不足が原因だ。

「昨日のあの集団はサーギオス帝国の遊撃部隊の中でも精鋭揃いのウルカ隊です。正面から戦っては苦戦も必至でした」
「だからって斬られてもいい理由にはならないだろう」

 口を突いた言葉は、どこか投げ遣りだった。
 ファーレーンはすぐに口を噤む。隠した表情、その目の奥からは微かに迷いの色が見て取れた。
 何故かまでは知る由もない。

「……ですがランセル様が相手をしたグリーンスピリットは最も危険な敵でした。それをあの状況で抑えていた意味は大きいのではないですか?」
「どうだかな。それであんな死にそうな目に遭ってるなら、あまり割に合わない気もするが」

 口ではそう言ってみたが、損得勘定という概念はなかった。少なくとも昨夜の戦闘に関しては。

「最初からランセルがどこの誰かも分からないスピリットにやられなければよかったのよ。ただでさえ面倒だったのに――」
「ニム、呼び捨ては……」
「別に構わない。何か新鮮だし、ここでは居候みたいなものだからな」

 スピリット隊の中でユート以外に呼び捨てにされたのは初めてだ。例えばネリーやシアーにしても一応は様付けで呼んでくる。
 ……そのうち呼び捨てが当たり前になったりするのだろうか? そのほうが気楽ではあるが。

(しかし……俺がやられなければ、か)

 左手をなんとはなしに掲げてみる。今頃になって気づいたが、この包帯も巻き直されていた。
 指が欠けているのに不便を感じることはあるが、違和感はほとんどなくなっている。
 これが自然でもあり、不自然でもあった。
 人間ならば欠けた指は生え直さない。体がマナで構成されているなら再び生え直すこともできる。自分の場合は、後者。

「どうしました?」
「……実力不足を実感してるだけだよ」

 実力不足とこの左腕の因果関係はない、と思う。戦闘にそれほどの影響はないだろうし、何より言い訳にしていい理由ではないはずだ。
 あの名前も知らないグリーンスピリットは完全に実力で上を行っていた。のみならず、周囲への観察力も自分より目敏い。格上の敵だ。
 今後、遅かれ早かれラキオスはサーギオスと本格的に交戦するはずだ。
 あのスピリットがサーギオスの抱えるスピリットの中でも、どの程度の強さかは分からない。
 はっきりしているのは、今のままでは危険だということ。

「……ランセル様は一人で戦うつもりですか?」

 ファーレーンは普段より抑えた口調で問う。

「戦いは一人だけで行うものではありません。私にニムたちがいるように、ランセル様には私たちがいるのではありませんか?」

 なんと答えるべきか考えつかなかった。言葉を選ぶとか、それ以前の段階で思考が止まっている。

「あなたは自分で考えているよりみんなに好かれています」
「別に私は好きじゃないけど……」

 話の腰を折られたファーレーンは咳払いを一つ。

「とにかく……足りない部分は補い合っていけばいいじゃありませんか?」

 諭すような言葉。それは理に適ってるし、何よりも胸の奥がこそばゆくなるような気分だった。
 だが、しかし。まったく想像もしていなかった言葉でもあった。
 俺は答えを持っていない。どう受け止めて、どう答えるべきかの。

「変わったことを言うんだな……けど覚えておく」

 答えはまだ出ない。いずれどこかで答えを出す時が必ず来るだろう。それを外に示すか内に秘めるかは、今の段階では判じれない。

「お姉ちゃんがああ言うから手助けはしてあげる……あんまり気乗りしないけど」
「……それはどうも」

 ニムントールは無言でそっぽを向くと、大股に歩いてドアまで行く。

「怪我は大丈夫みたいだし、もう行こうよ?」

 そう言いながらもドアノブに手をかけている。すでに出て行くつもりだ。

「そうね、ではそろそろ――」
「先に行ってるから」

 挨拶はしないでニムントールが部屋から出て行く。ファーレーンが慌てて振り返った時には、もうドアがほとんど閉まっていた。

「申し訳ありません……ニムはあれで照れ屋なので。本当はランセル様の身も案じていたんですよ」
「そうなのか……そう言うならそうなんだろうけど」
「はい。あの子は気持ちを伝えるのが得意じゃないので」

 話すファーレーンの眼差しは、どこかで見たことがあった。子を慈しむ母親の眼。
 少し考えてから、それがアズマリアのそれとよく似ていると気づいた。

「……早く行かないとニムントールがまた怒るぞ」
「そうかもしれませんね」

 ファーレーンは笑ったようだ。表情は読みきれないが、柔和な目がそう物語っていた。

「それではお大事に」

 模範になりそうな丁寧な会釈をして、部屋から出て行く。ドアも音を立てないように静かにゆっくりと閉める。案外こういう時に性格が出るのかもしれない。
 独りだけになった部屋でなんとはなしに呟いてみる。

「保護者も大変だな……それとも好きでやってるなら苦にもならないものなのか」

 どっちでもいいと内心で結論づける。
 それにしても、あの場面でアズマリアを思い出すとは考えもしなかった。
 嬉しいのか悲しいのかは、自分でも分からない。
 窓に目をやると、いつの間にか太陽は見えなくなっていた。今は地平線の向こうから届く残光が空を焼いたように染め上げるだけだ。
 もう夜の帳が下りるまで、もうほとんど時間はないだろう。
 ラキオスは否応なしに転機を迎えている。この国がどう進んでいくかはわからないが、平坦な道のりじゃないのは確かだ。
 自分にとっても、これは何かの転機になるかもしれない。そんな予感が煙のようにまとわりついていた。
 それでも――空はいつもと同じ色を見せている。その下にいる者だけが時に流され、時に抗い、ただただ移ろっていく。










8話、了





2006年6月15日 掲載。

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