永遠のアセリア 1
Recordation of Suppressor
9話 不在の幕間
2
埃っぽい街だと誰かは言い、賑やかな街だと誰かが言った。
薄汚れた街だと誰かが言えば、華やかな街だとも誰かは言う。
一言で言い表せるはずがないと、誰かが断じた。
旧イースペリア領にランサという街がある。
すぐ東には峻険な山肌が剥き出しになっているアト山脈が
その環境が原因で土地は
水の国と呼ばれ肥沃な土地が広いイースペリアの中にあって、食料自給率が水準を大幅に下回っている街である。
しかしランサは交易の街として大いに賑わっていた。
ランサを西進するとヘリヤの道と呼ばれる大陸北部と西部を繋ぐ貿易路に至る。
古くよりイースペリア王国は大陸南部のデオドガン商業組合、時に西部のマロリガン共和国と交易を重ねてきた。
その窓口となったのがランサである。
人間は生活を営み、生活を営めば商売が発生する。商売が進めば交易に発展し、交易が盛んになれば人がさらに集まる。その積み重ねの内にランサは発展していった。
清濁併せ持った街だった。明るい場所もあれば後ろ暗い場所もある。ある種、人生の縮図が至るところに詰め込まれたような街だった。
ランサは聖ヨト暦331年レユエの月の時点でラキオス領に属し、ラキオスはマロリガンの同盟交渉が決裂し交戦状態に入っている。
両国ともヘリヤの道を踏破することで、それぞれの領土に侵攻するしかない。
そうしてランサは中継基地として、交易以外の理由で注目を浴びることになる。
3
ランサから西に半クレほど進んだ地点。まばらながらも背の低い草木が生え、辛うじて平原と呼べるような土地が道なりに続いている。
ここでは今し方までラキオスとマロリガンのスピリット隊による戦闘が繰り広げられていた。すでに戦闘の回数は通算で二桁を越えている。
しかし戦闘の規模はまだ小競り合い程度で、どちらも相手の当たり方を確認する程度のものでしかない。
まだ両国とも戦争準備が完全に整っていないためだろう。少なくともラキオスの事情はそうだ。
「みんな、怪我はない?」
セリアが大きな声で呼びかけた。それぞれ思い思いの言い方で返事をするのが聞こえる。
今のところ、こちらも前線で戦うのはスピリット隊全体の半数程度で、残りの半分はランサの街を防衛がてら訓練に励んでいた。
またユートとエスペリアはいない。レスティーナ女王の使者として、どこかに向かっていた。どこに向かい誰に会うかは俺たちにも秘匿されている。
今回だと前線に出ているのは俺、セリア、アセリア、ファーレーン、ニムントール、オルファの六人だ。
「血が出てるじゃない、アセリア」
「ん……このぐらいなら、かすり傷」
アセリアの左腕からは赤い線が一筋垂れて、地面に点々と雨垂れのように染みを作っていた。
他人事のように告げるアセリアの腕を半ば強引にニムントールが掴む。
「いいから待って」
ニムントールが左手を肩口に添え言葉を唱えて傷を癒していく。アセリアはまじまじとニムントールを見つめ返した。
「な、何よ?」
「……ありがとう」
「べ、別にお礼なんかいいわよ。こういうのは当然なんだから!」
相変わらずというかニムントールはむきになって否定する。アセリアはやはり相手の顔を見つめてから頷いてみせた。
この一連の小競り合いの中でアセリアの活躍は目覚ましかった。
小手調べの段階で被害を嫌うマロリガンの部隊を素早い攻撃で乱戦に持ち込み、撤退を許さず各個に撃破していく。それがアセリアの見せた戦い方であった。
ラキオスとマロリガンの国力差が少ないとはいえ、スピリットの数ではラキオスが圧倒的に不利だ。だから確実に相手の戦力を
「アセリアもあれで素直になったんですよ」
話しかけてきたのはファーレーンだ。視線は俺にではなくアセリアたちへと向いている。
「そうなのか?」
「はい。以前のアセリアならもっと見境なく突撃していましたし、治療を受けても何も言わなかったかもしれません。ユート様が一度諭されてから変わったそうですけど」
ファーレーンも又聞きなのか、断定は避けていた。しかし、彼女の口振りからはそれがまことしやかであるように聞こえる。
以前のアセリアも、ユートが何を諭したのかも俺は知らない。
しかしユートに関して言えば、人に大きな影響を与えていく男なのだろう。おそらく彼自身がそれに気づくこともなく。
そういう意味でも四神剣の英雄の再来なのかもしれない。周囲は彼に巻き込まれていき、巻き込まれた周囲が時々彼をも巻き込んでいく。
「今日はこのままランサまで引き揚げます。後列はランセル様とアセリア、オルファに任せます」
セリアの指示を聞き、みなが動き出す。ファーレーンも一礼を返すと、ハイロゥを広げてセリアたちの前へと飛ぶ。
部隊は密集せずにある程度距離を取って動くようにしている。そして後列の部隊の役目は後方警戒だ。どんな相手でも背後のような死角からの攻撃には脆い。
アセリアとオルファがこちらに駆け寄ってくるのが見える。それまでの短い間、後ろを振り返ってみた。
(ここを行くのか……)
道が続いている。道といっても舗装されたものではなく、草が生えずに土を剥きだしたような道だ。旅人が長い時をかけて歩いた結果あるような道。
もうしばらく行けば道は途切れて、後は遠大な砂漠が彼方まで広がるばかり。砂と埃と空だけの世界だ。
いずれは越えなければいけない場所だが、気の滅入りそうな話ではある。砂漠の気候は過酷だ。日中は酷暑、夜は極寒。おおよそ生物が住むには適さない環境だ。
それをただ歩くだけでなく、マロリガンと戦いながらやらなくてはならない。できるかぎり強行軍にはしたくないが、そうも言ってられないかもしれない。
「何見てるの?」
オルファの声だ。振り返り視線を下げると目が合った。幼い目は不思議そうにしているように見える。
その隣にはアセリアもいた。彼女はたぶん先ほどの俺のように道の向こうを見ている。
「しばらくしたらこの先に行くんだと思って……やっぱりオルファは暑いのとか平気なのか?」
「うん。でも、ここはマナがちっともないから苦手かも」
そうなのだ。ダスカトロン大砂漠はマナ消失帯としても有名で、すでにこの辺りのマナも希薄になっている。
マロリガンも同じ条件とはいえ、辛い環境であるのに変わりはない。
「暑いのはオルファなら平気だけど、パパとかエスペリアお姉ちゃんは大変だと思うよ〜」
「アセリアは平気なのか」
「ん……」
おそらく同意の声。しかし、どうして平気なんだ? まさか淡々としてるから暑さも気にならない……なんてことはないか。
「……こうすればいいだけ」
アセリアの頭上で光輪状のハイロゥが回り、黒い影が落ちる。
「それは日除けか?」
「……そう。あるとだいぶ違う……」
ハイロゥを消すと、横目でこちらを窺う。
「……それより行かないのか?」
「そうだな。そろそろ行こう」
遅れて俺たちもランサの街への帰路を歩き出す。帰り際に一度だけ後ろを振り返る。
マロリガンは遥か彼方だ。ここからではダスカトロン砂漠の始まりしか見えない。戦いの趨勢が見えないのと同じだ。
砂漠は気を滅入らせるのに十分な姿を晒していた。
ランサ西の郊外に二階建ての館がある。街の有力者が古くから所有している建物で、今はスピリット隊とそれに関わる人々の宿舎として提供されている。
スピリットの館よりも一回り大きく、岩のように重々しい外観をしている。壁には植物が蔓を張って群生していた。蔦は伸び放題だったらしく、館は遠目には緑色の壁に見える。
蔦がない部分から見える壁面も元は白色だったようだが、年月の積み重ねと汚れとで黒っぽくなっていた。
もっとも今の時間帯はちょうど夜で、遠目からではただの真っ黒な塊でしかないだろう。
それでも敷地内の庭や館の中は定期的に人の手が入っているようで、小奇麗でさっぱりとしている。
館も丈夫に建てられていて、建築物としては優良じゃないかと素人なりには思う。市街の中心部から遠すぎるなど、立地環境はさほど良くないが。
(そのほうが街にもこっちにも都合がいいのかもしれない)
スピリットが近くにいるのを人間は嫌う。恐れるといっても過言ではない。
ラキオス王都などは徐々にスピリットに対しても門戸を開きつつある。殊にレスティーナ王女が女王に即位して以来、その傾向はますます加速しているように見える。
しかし、浸透するにはまだまだ時間が足りない。ランサのように王都から遠く離れた場所では、さらに時間もよりかかる。
この世界でスピリット蔑視の風潮はそれこそ歴史として人間に脈々と受け継がれてきたのだから。
(それにしても女王か……)
国王が暗殺された数日後にレスティーナ王女は、ラキオス女王として異例の事態ながらも正式に即位し、速やかに亡き国王夫妻の国葬を含めた多くの政務を執り行い、国内の混乱を収束させていった。
その手際は鮮やかと言う外にない。ラキオス王国は政治の空白期間を生むことなく安定を取り戻していた。
また女王は軍部の再編にも着手している。スピリット隊への待遇改善や情報部、技術部の再編が主なところだ。
なお、この再編に伴って俺は訓練士を解職され、代わりに正式にスピリット隊に組み込まれた。
何が変わったかというと何も変わっていないし、何かが変わったとも言える。
スピリットのみんなと行動するのは相変わらずだ。訓練をつける義務こそなくなったものの、一緒に訓練をこなすのにも変わりない。
一方で書類仕事など庶務も担当するようになり、前よりスピリット隊と深い部分に関わるようになった。それだけの話だ。
(こんなものか)
書類の束をなめし皮で作られた封筒の中に詰め込む。中身は、今日の戦闘報告書や備品の発注書だ。
戦闘報告書は詳細や考察、反省などまで書くと、短い戦闘でもそれなりに長くなる。こういうものが将来的に参考情報として活用されれば良いと思うが、どうなるかは分からない。
(それとも生かされないほうがいいか……)
職務怠慢で生かされないのは
まったくもって余計な回り道だ。マロリガンはアズマリア女王との関連はどこにもない。さりとて戦闘を放棄する気もないが、それでも余計と思わずにはいられなかった。
封を閉じて、窓の外に目を凝らす。闇は深く部屋から漏れる明かりさえ飲み込んでしまっている。
それは恐怖を喚起するには十分な暗さだ。だというのに、外に出ようと思い立った。理由はない。強いて挙げると、ただの気まぐれか気分転換か。
普段の習性で『鎮定』を持って部屋を出る。夜もいい時間で廊下に出ても自分が扉を閉める以外の物音は聞こえなかった。みんなが寝てしまっているかまでは分からない。
足音を忍ばせながら屋敷の外へと向かう。見られて困るようなことをするわけではないが、こんな夜中に堂々と足音を立てて歩くのも
入り口の広間を通って外へ出た。外から見た館は深い影のように彩られ、空には小さな星の光が黒い空よりも多くの面積を占めている。
そんな星空をずっと見ていると気持ち悪くなりそうだったので、目線を元の高さに戻す。理由は分からないが、空を埋めるほどの星には抵抗があった。
目が闇に慣れ始めてきたところで歩き出す。目的地は特に決めていなかったが、自然と木立のほうへと足が向かっていた。
日中の生ぬるい風と違って、涼しい夜風が頬を撫でていく。砂漠が近いせいか夜はだいぶ冷え込む。
木立の下には月明かりがまばらに落ちていた。
手近な木の根元に腰かける。幹に背を預けたりはしない。ちょうど館に背を向ける形だ。
組んだ足の上に、鞘に納めたままの『鎮定』を置く。
(こうして見ると変哲のない普通の剣に見えるのに……)
実態がそうでないのは十二分に知っているつもりだ。
元々、『鎮定』の声はよく聞こえていた。最近まで知らなかったが、六位の神剣が明確な声を持つのは珍しいらしい。
といっても剣の声は所有者にしか届かないので、本当に『鎮定』の声が明確かは証明できない。現に声が聞こえても、それが理解できるかは別の話だ。
さらに言うなら、明確な言葉として聞こえるのは逆に理解できてない、という見方もできる。スピリット隊のみんなは言葉なくして、剣の声を理解できているのだから。
自分が何を考えているのか『鎮定』には伝わっているはずだが、返事はない。
「それでいいさ」
内心で自分の呟きに頷く。言下を理解してこその理解なのだろう。それが本当に適うかは分からない……いつまで経っても分からないことだらけだ。
夜風が時々木々を揺らしていくと葉が鳴り、それ以外の音はない。だから、しばらくしてから聞こえてきた音を聞き逃さなかった。それが小さい音であっても。
靴が大地を踏む軽い音。静寂の中でよく響く。相手もその音を隠す気はないらしい。
「誰だ?」
誰何の声に足音が止まる。返事はすぐに返ってきた。
「あ、怪しい者じゃないです! 外に出て行くのが見えてどうしたのかなぁって!」
慌てたように早口の若い男の声。聞き覚えがある。暗がりに目を向けるが、影がぼんやりと見えるぐらいで顔は見えない。
一瞬の逡巡の後、声と名前が頭の中で一致した。
「……それでどうした、訓練士?」
「そっちだって少し前まで同じ部署だったじゃないですか」
影が近づき、月明かりの下に入り込む。分けた黒髪の童顔で背は中ぐらいで細身、ラキオスの軍服で腰には帯剣している。
名は確かキード・キレ。まだ二十にも届いていないはずだが、新米でもなかったはず。
「どうしたって、こんな夜中に出歩く人がいたら気になるじゃないですか」
「……それは悪いことをしたな」
「いいですけどね。それより、こんな夜中に一体?」
キードは俺の横に立つ。少し投げ遣りに視線を向けると、曖昧な笑顔を浮かべていた。愛想笑いとは少し違うように見える。
訓練士としての彼は……それほど有能でもないのかもしれない。しかし職務には勤勉であり忠実という印象をすぐに受けた。
他の訓練士たちにも協力的で、よく準備などを手伝っていたり直接参加する姿も度々見受けられる。
それもあってかスピリットからの受けもそれほど悪くなかったように思う。
「これといった理由はないんだけどな……気分転換かな」
答えになっていなかったが、キードは勝手に頷いていた。
「確かにここ二ヶ月は目が回りそうなぐらいに忙しかったですからね。それにランセルさんは前より熱心に訓練に出てません? あ、別に今までが不真面目とか、決してそういう意味じゃないですよ!?」
キードは自分で言ったことを強く否定する。どことなく忙しい男だ。
「……前みたいに深手を負うような目に遭いたくないだけだ」
「でも怪我で済んだとも言えますよね」
キードはため息をついた。不審に思ってもう一度見ると、明後日の方向を向いている。何かを考え込んでいる?
「実を言えば、少しだけ羨ましいです」
「負傷したのが?」
「違います! みんなと肩を並べて戦えるのがです!」
キードは大仰に息を吐いて、どかりと座り込む。視線は夜空を向いている。
「結局僕らはスピリットに頼りっぱなしなんですよ。それが悔しいっていうか申し訳ないっていうか」
「……別に矢面に立つことだけが戦いじゃないだろう。補給もそうだし諜報も。教育だってそうだろ」
「それは分かるんですが……やりきれないんですよ。どう足掻いてもスピリットに敵わないのは分かるんですが」
「何が不満なんだ? 自分が直接戦えないのが? それともスピリットにかける負担が?」
「それは……」
キードは言葉に詰まる。もしかすると彼自身、理由は分かっていなかったのかもしれない。
だからだろうか。キードが次に口を開くまでには時間がかかった。
「……怖いのかもしれません。訓練士になってすぐに目の当たりにするのが……現実なんですよ」
キードは
一通り言い終わったらしく纏めるようにこう言った。
「人間はどう転んでも勝てない相手を自分たちの代理として戦わせて。でも、その危うさに見向きもしなければ感謝もしないんです」
言い終えたキードは深呼吸する。暑くもなかったのに彼は額に汗の玉を浮かべていた。
拭いもせずに話を続ける。
「どういう人たちが訓練士になるか知ってますか?」
「……そういえば知らないな」
「みんな、何かしらやってしまった人なんですよ。たまに志願してくる人もいますし、最近はそういう人たちが多いですけど」
キードは吐息。その横顔は少し物憂げに映る。
「僕は左遷されてきたんですよ。それとも栄転って言ったほうが通りはいいのかな」
懐かしむ口調は、やはり憂いの調子を帯びているように感じた。彼は訊いてもいない過去を端的に語る。
「元は国境警備隊に所属してたんですけど、上官殿といざこざを起こして転属命令が届いて……それが二年前の秋でしたね。収穫期が近かったから畑が綺麗だったなぁ」
どこの国境かは訊かなかったが、自然とイースペリア方面だと考えてる自分がいた。
サルドバルト方面は、ラキオス領でも農耕に適しているとは言いがたかったからだ。
残りの地方は戦争の危険を孕んでいた以上、農耕を行っていたとは考えにくい。
もっともキードの言う畑が国境付近にあったとは限らないが。
「それから訓練士になって……なり立てに先任に――もういないんですけどスピリットは人形だと思え、そう教えられたんです。現実にはそんなことなかったんですけど。あんな個性的な連中、どうやったらそう見えるんですかって」
言葉は震えていて、しかし本人はそれに気づいていないらしい。
風が凪いで木々も震えていく。それは夜の冷たさをより身に沁みさせた。
「人形は話さないけどみんなは話すし、自分たちの生活を確かに持っていて、どこが人形なんだって。でも先任の言う通りにすれば……そうすれば気楽だったのに」
弱々しく彼は笑う。はっきりとは言えないが、キードはスピリットに対し区別なく接しようとしているのかもしれない。そういう関係を望んでいるのだろうか。
しかし、同時にスピリットへの警戒も抱いているようでもあった。
感謝と怖れ。キードがスピリットに向ける感情。それは畏怖と呼ばれる感情が一番近いのではないだろうか。
他にあるとすれば……?
「……不器用」
「なんですか、いきなり?」
「言ってみただけだ」
剣呑な視線を受け流す。強いて言うなら、これが一番当てはまっているのかもしれない。
不器用は素直になれない性格を指す言葉でもあった、と思う。
だけど――ふと考えてみる。これはキードの話であって、他の訓練士たちにとってどうなのだろう。
「そういえば」
引っかかる記憶が一つある。あれは境界を異にした光景だったんじゃないだろうか。
「少し前に、髭を生やしたお偉いさんの有り難いお褒めの言葉を聞かされたことはあるが、あれは上滑りだったと思う」
「……それって」
「別に誰がとは言ってない……ただ、他に何人もが同じ言葉を聞かされた。反応はそれぞれだったと思うけど」
キードに顔を向ける。彼もまた同じように俺を見ていた。
「
風が吹きぬけ、木々の枝や葉が擦れ合う。その中でそれとは少し違う音が混じっているように聞こえた。
「言ったじゃないですか。最初に知るのは現実だって。それをどうやって受け止めるかは、その人次第じゃないですか?」
答えになっているのかいないのか、判別しづらい返され方をした。
ただ、思う部分はある。
変化は大きく進んでこそ気づく。だが、実際には気づかないうちに進んでいるのも変化だ。
「……でも、その見立ては間違ってないとも思いますよ」
キードは小さな声で、それだけを言った。俺はそれに答えずに、ただ黙って夜空を見上げる。
相変わらず星は気持ち悪いぐらいに輝いていた。砂粒が大河を侵食してるようだ。
「例えばの話で……あまり意味のない話だが。うちのスピリット隊の誰かが魂を飲まれてて、それこそ人形のようだったらどう思っていた?」
スピリットが神剣に呑まれてそういう状態になりえるのは、この世界ではほぼ常識だと考えていい。
現に相対した敵スピリットの多くは、そういった手合いだった。
そうじゃなかったのは……サーギオスのウルカ隊ぐらいか。つくづく嫌な相手だ。
「……それこそ最初からそうだったら、今みたいな話はしなかったと思いますけど」
「そうか」
「でも、ナナルゥとアセリアはそういう部分が強かったですからね。エトランジェ殿が来てから……変わったのかな?」
首を傾げながらの言。真偽を確かめる術はないが、ユートがきっかけでもおかしくないだろう。
アセリアに関してはファーレーンも似たようなことを言っていた。
「アセリアなんて大分変わりましたよ。前はほとんど反応示さない子で叱っても褒めてもそうでしたし、シアーみたいにお菓子に釣られるわけでもなく」
「…………」
「でも鉱石を渡した時はちょっと嬉しそうでしたね。ああいうので喜ぶとは思いませんでしたけど」
「……詳しいな」
「熱心だと言ってください」
それはどうなんだろう、訓練士?
まぁ、彼が何をしてようと俺にはあまり関係ないが。
「もしかして何か誤解されてます?」
「何が誤解なのかそもそも分からないんだが」
「だからアセリアのことで――」
「呼んだ?」
「うぉぁっ!?」
キードは飛び退りながら情けない声を挙げた。後ろからいきなり首に冷たい物でも突きつけられた時のように。
「ア、ア、アアアセリアっ!? どうしてここにいる!?」
キードはほとんど呂律が回っていない。誰でもそうかもしれないが、想定外の不意打ちに恐ろしく弱いと見える。
いつものように鎧姿のアセリアは、推し量るように俺とキードを交互に見ていく。
「ん……眠れなかったから」
アセリアも答えているようで、あまり答えになっていない。
「も、もしかして気づいてました?」
「うん?」
キードが興奮した面持ちで詰め寄ってくる。
「どうしてそう?」
「いや、だってぜんぜん驚いてないじゃないですか。気づいてて黙ってたんですか!?」
「……誰か近づいてくるのは分かってたからな。アセリアだとは思わなかったが」
「それなら、どうして一言……!」
「別に言わないでもいいと思っただけで……その、なんだ。そんなに怒るな」
宥めるべきなんだろうが、聞き入れてくる余裕はなさそうだった。
アセリアはそんな俺たちを尻目に星空を黙々と見上げている。彼女の視点からだと、この空をどう感じるかは分からない。
おそらくは恥ずかしさで悶えてるキードの声が、夜の静寂を打ち破っていた。
館まで聞こえなければいいが。いや、間違いなく聞こえているだろうけど。
ここにいたことが分かれば、またセリア辺りから白い目で見られるのだろうか。大儀な話ではある。
それにしても、どうして外に出たのか。強いて考えれば気分転換だ。
だとすれば、その目的は果たされたらしい。
9話、了
二〇〇六年九月一日 掲載。