永遠のアセリア 1
Recordation of Suppressor
15話 綱渡りの代価
2
生に岐路はいくつ存在するのか? そして、その岐路をどうやって選択している?
偶然? それとも必然? 自発なのか強制なのかさえ分からない。
時に意志と叫び、時に運命と叫ぶ。選んでいるのか選ばされているのか。果たして、そのどちらが真実。それとも、まったく別の解があるか、あるいはどちらをも含むのか。
解らないことは多すぎる。知りたいことも多すぎた。知れば知るほど飢えて、知れば知るほど見えなくなる。
いっそ何も分からなくなればと思った。そうなれば、存在する理由を失うから。
だが、それはできなかった。それは結局安易な方法で、最も意味を感じない選択でもあった。
故に私は今もここに在る。時に目的を見失いながらも。
目的を見失うのは、それが最善足りえないからだ。最善でないからこそ、最善を求める。
もっとも、それは永久に適わない夢物語でもあった。
何故なら、我らは一つの結果しか現実として向き合えない。
可能性が無限大であろうと、選び取れる道はただ一つ。残る可能性は結果の後には全て可能性として流れていく。
だから――真に結果が最善であったなど、証明できない。
無数の可能性と一つだけの結果。現実に在るのはただ一つの結果で、可能性は現実の前に意味を為さない。
仮定と事実は同列の比較対象にはならず。
しかし、誰しもが考えないはずもない。あの時こうすれば、こうだったらと。
その思いがいくら強かろうと現実は変えられない。それが生きるということでもある。
だが、変えられないからこそ最善を望む。より善いものを目指していく。
それもまた生きることと――私は思う。
――果たして例外は存在するのか。
あるいは未来を知れれば、最善を選ぶことも、より善い未来を選ぶことなら可能だろう。
しかし、それでも最善であるかは証明できない。変化する未来もまた理想とは限らないからだ。そして何より、未来を知ることは幸運とも限らないだろう。
未来が覆せないとすれば、どう向き合えばいいのか。変化した未来が、知ったものよりも悪くなれば?
何より、未来を知ることは今という瞬間を否定するのではないか。
不確定とはいえ、
それは己には適わない在り方だと断言できる。先を知れたらきっと、すでにこの身に未練はないだろう。
それとも未来を知るが故に、あれは強く在るのか。
おそらくは悠久の時を経ようと理解はできないに違いない。
……何故、私は決めつけている。それこそが最大の障害となるのに。
そんなことを考えているうちに、この日最後のエーテルジャンプを終えた。
初めてのジャンプより幾度となく回を重ねているが問題はない。私にも、主にも。
身が拡散される感覚は慣れないが、そういうものだとは解っていた。時間ではなくもっと単純な好みの問題だ。
「これなら実用化しても大丈夫だね」
ヨーティアの声が聞こえてくる。大した人間だ。人間の天才は決して口先だけではなかった。
視界を開く。周囲全天の視界は乱雑の一言に尽きる部屋を映し出す。
散らばった本に、用途が今ひとつ判断できない研究器具。それらが山や谷を織りなし、至る場所に散見していた。
研究室というには、あまりに機能性を欠いているように感じる。それでもヨーティアが困らないなら、機能はしているのだろうが。
部屋は持ち主の性格傾向を表す。それは多くの場合に当てはまる。
例えば、妖精たちの館。開放的な空気に満ちて、さながら陽光の差し込む場所か。
城と呼ばれる空間なら荘厳さや重厚さが醸し出され、独特の閉塞感を生み出す。
そして主の部屋には色がなかった。家具など必要最低限の物はあるのに、生活臭が感じられない。
住んでいる時間だけの話ではない。主というものがどこか欠けている、あるいは希薄なためだろう。
希薄にしてしまったのは私だが。過去の名残と言うべきそれは、今になって変化しつつある。
本人に教えたことはないが、主の考えることは全て筒抜けになっていた。
この男の思考が変化する様は興味深い。悪趣味でもあるのは自覚しているが。
――痛みが走った。
慙愧の念かもしれない。私は主を弄んでいるのかもしれない。過去も今も。
心苦しいと感じてしまう私は神剣としては不適格なのかもしれない。
目覚めて以来、多くの神剣の心に触れてきた。多くの剣は激情にも似た本能に突き動かされている。
それが本来あるべき姿なのかもしれない。しかし、私には戻れそうになかった。今の私に欠かせない要素を失うから。
そして笑うような声が響いた。私の声ではない。しかし内から響くような、少女の声。鈴のように染み渡る声。
’――こんな所にいましたの。’
予想は予感に変わり、予感は揺るぎない確信へと変わっていく。
深淵に近づきすぎた。『拘束』に触れる以前から薄々と分かってはいたが、ついにきてしまう。
予定調和だったのか、偶然の産物なのか。せめて予定調和であって欲しい。そうなら諦めもつく。
これはいつか訪れる宿縁。いつか向き合う現実。いつでも逃げられない真実。投げ出したい未来。
私に一体何ができるのか――。
’――猶予期間はもう終わりですの?’
愉悦を隠そうともしない声。なるほど、確かに何も変わっていなかったのだ。
それを喜ぶべきか悲しむべきかは、まだ判断できない。
私を取り巻く運命を歯車に例えるならば、確実に回っている。早く、速く、自壊さえ厭わない勢いで。
3
日は完全に沈んで、代わりに月が昇っていた。満月に近い月の明かりは、視野を確保するには十分の光量を投げかけている。
屋外にいるのは敵の接近を感じたからだ。
ヨーティア女史とイオはEジャンプの起動準備に取りかかっている。ランサに滞在しているスピリット隊を呼び戻すためだ。
とはいえ、起動にはどうしても時間がかかるので、それまでの時間は自分たちで稼ぐしかない。
気配の数からすると劣勢ではあるが、泣き言は言っていられない。
「ユートたちとの合流は難しそうか……」
この場にいるのは自分一人だが、詰め所のほうにいたユート、アセリア、エスペリア。それから……ウルカがすでに展開している。
ウルカは神剣の力を完全に取り戻している。数日前、ウルカを狙ってサーギオスから刺客が放たれていた。
ウルカとその場に居合わせたユートは辛くも刺客を撃退し、同時にウルカも神剣の声を聞けるようになったそうだ。
そして『拘束』は『冥加』という名の永遠神剣へと姿を変えていた。『鎮定』が言ったように、別の神剣へと――。
「頼ってもいいんだよな」
ウルカを味方として。自問への返事はない。しかし、答えは出ている。今のは自分への確認だ。
すでにユートたちも行動を始めている。それに合わせて敵も二群に分かれてしまったようだ。
ユートたちを一群が足止めして、もう一群が移動を始める。
城に向かうはずだと思っていたそれは、別の方向へと移動しているようだった。
「俺に向かっている?」
それとも進路上に俺がいるのか。とにかく避けるわけにはいくまい。
こちらからも距離を詰める。なるべく城からは距離を取っておきたいからだ。おそらく森の辺りで遭遇するはずだ。
ふと『鎮定』がおかしな反応を見せた。どうして、という疑問はすぐに消される。
【主、一つ言っておくことがある】
走りながらも『鎮定』の声が頭に響く。
【今回、おそらくは危険な相手が現れるだろう。もし姿を見たら、迷わず逃げるのを勧める。姿を見た時には逃げるという選択肢も潰れているだろうが……】
……言っている内容が矛盾してないか? 逃げれないはずなのに逃げろなんて、無茶を言う。
しかし、これは……怯え?
(……怖いのか?)
【ああ】
……そこまで素直に認められると、どう言葉をかけてやればいいのか。
つい最近も同じようなことを言われたのを思い出した。
(……最近怖がってばかりだな。『拘束』の時といい)
【そうだな。それだけ我々は細い糸の上を渡り続けていたのだろう】
まただ。また自分が知らない話をされている。うまくは言えないが嫌な感じだ。いつも核心から外されてしまう。
だが、今は不満にこだわっている時じゃない。
(……それで危険なのは、もうすぐ出会うやつらか? 今までと違う感じはするが)
【これとは違う。比較するのが無礼なぐらいに、桁違いだ。主たちの言葉で言うなら……化け物だな】
何故だか、背筋が震える。本当は化け物なんて生易しいんじゃないか、そんな予感がした。
(誰なんだ?)
【……何が?】
(とぼけるな。お前は隠してることが多すぎる)
【……知りたければ覗いてみろ。私の思考は今なら大部分がやつらに関することだ】
やれるものならやってみろ、とでも言うのか。
自分にそれができないと分かって、こいつも言っているのだろう。性質の悪い。
【隠す気もないが、教える気はもっとない。難儀なものだな】
(知るか)
だが、知ろうと思えば知れるのか。結局は俺次第で。
【詮索している時間はもうないぞ】
分かっている。森の中がちょうどよく開けたので、そこで立ち止まる。
自分の正面、森の奥から青スピリットが三人現れた。いきなり襲いかかってはこない。かといって、相手が何かを考えているのかも分からない。
一対三は厳しいと思いながら、相手をよく確認する。
三人とも青スピリット。一見、変哲も何もないスピリット……そのはずだった。
そいつらの姿が透ける。後ろの木まで半透明に見えた。
「……っ」
だが、そう見えたのは気の迷いだったのか。
青スピリットたちの体は透けていなければ、後ろの風景など見えるはずもない。
しかし、相対している相手が普通のスピリットと比べて何か異質だという確信を得た。
上手くは言えないが……希薄だ。
ハイロゥや瞳は黒く染まっている。そこだけ見れば、魂を呑まれたスピリットとなんら変わらない。
しかし、その目。それはまるで初めから色も光もなかったように見える。
おそらく、それが希薄だと感じた原因なのだろう。
その目には感情が、敵意さえ感じない。初めから置き忘れたように――。
【来るぞ】
『鎮定』を体の前、中心線上に合わせて構える。青スピリットたちも神剣を抜いて、ハイロゥを黒い翼へと代えた。
敵の神剣が力を解き放つ。それは想像していたよりもはるかに強い力だった。
「……冗談じゃない。三人ともお前より強いじゃないか」
【……】
体をかすかに前屈みに。向けられる力は自分の知るどの六位神剣よりも強い。
先頭が突っ込んでくる。上段に振りかぶった一撃が来る。
後ろに下がり、相手の神剣を横から打つ。
外された剣先が地を穿ち、足元が大きく揺れる。確実に自分の一撃よりも破壊力を秘めていた。
切り返すより先に、残りの二人も迫ってくる。迷うことなく下がった。というよりも逃げる。
正面からぶつかり合っては勝ち目が薄い。どうにか機会を作らなくては。
「……力を」
『鎮定』の力を引き出そうとする。意思を神剣と同一視させる。
応じるように力が流れ込んでくる感覚がある。距離、段差、周辺の地形を認識する。頭の中に地形図が瞬時に組み立てられていく。
森の木々を遮蔽物として駆ける。地形図の道筋に沿うよう、背を曲げ時に跳ねて木々を避けていく。
対し、敵は進路上の木々を神剣でなぎ倒しながら追ってくる。その動作の分、こちらよりは遅い。
しかし予想はしていたが、ほとんど障害にはなっていなかった。
「自分の障害にならないなら、相手の障害にもならないか」
単純に神剣の力を比較すれば、相手のほうが格上だ。
『鎮定』から警告が走った。青スピリットの一人が右手側から円弧を描くように自分の前面に出る。
進路上の木々はその翼で、右へ左へと強引に弾き飛ばしている。なんて強引なやつ。
そいつが前から一直線に向かってくる。距離は見る見る間に詰まっていく。
横薙ぎの一撃。『鎮定』で受けるが、そのまま体を横に吹き飛ばされる。
何本もの木を巻き込み、地に跡を引きずりながら、それでも木の幹にぶつかって何とか体を止めた。
呼吸が一時的に止まる。圧迫されるように咳き込んで、ようやく呼吸も再開した。
その時には眼前にそいつが迫っている。
「――くっ」
慌てて身を横へと投げ出す。先ほどまでいた場所の後ろにあった木が滑り落ちていく。
断面は斜め。上向きの角度がついたそれは、切ったスピリット自身に向かって木を落とす。
黒い翼が滑り落ちる木を受け止める。同時に、こちらも踏み出していた。
翼が木を横へと落とし、こっちは『鎮定』を突き込む。
弾かれる。敵の神剣が『鎮定』の切っ先を逸らしていた。
反撃されるよりも早く、その場から離れる。
そこに右と後ろから別の二人に追撃を受けた。それらをいなしながら、何とか距離をもう一度開け直す。
「……首がつながってるだけ上出来か?」
【及第点ではあるな】
なんの及第だ。だいたい基準が分からん……余計な思考だ。
三者とも自分よりも神剣の力は強い。
しかし、経験が浅いのか追撃がそこまで激しくなかった。というより、行動から行動への移りが緩慢に感じる。
それもあってか連携も上手く機能していない。ラキオスのスピリット隊やマロリガンの稲妻のような連携を見せられていたら、首と胴体がすでに別れていただろう。
そして一人は、ハイロゥで周辺をなぎ払いながら強引に進んでくるぐらいか。他の二人には見られない行動だ。
さて、どうする?
(数をどうにか減らすしかないか……)
相手の速さは不揃いで、相互間で連携を取る気配もない。
逃げることを中心に戦えば、同時に攻められるのは防げそうだった。
あのスピリット――翼を多用するやつが真っ先に来る。
迎え撃つ。剣と剣がぶつかり合い、耳朶を打つ硬音が響く。押されながらも踏み止まり、なんとか競り合う。
咄嗟に相手の剣を押し返し、胸を薙ぐため剣を振った。
それよりも早くマナが収束し、青スピリットの前に氷壁という形を成す。
切っ先が氷壁を削り取り、粉のように無数の破片が月光を反射して煌く。
仕損じるや否や、後ろに飛び退いた。下がりながら『鎮定』で周辺の木を、倒れるように切り払っていく。倒れる位置は相手の予想進路上に。
追ってくる青スピリットに向かって幹が一斉に倒れる。
青スピリットは即座に立ち止まり、翼でその身を覆う。視界が一瞬閉ざされる。
(今だ……!)
一瞬でも隙は隙だ。相手の背に回りこむ。
スピリットが翼を外へと一気に広げる。羽ばたきが押し寄せる木々を打ちつけ払い飛ばす。
(その挙動が大きすぎるんだ)
背を斜めに切り落とす。それで終わり。
切られたそいつは呆けなく消えていった。手応えもあるにはあるが、どことなく軽い。
本当に相手を切ったのか、迷う。しかし、それもすぐに無視する。
頭上と背後から残り二人が迫っていた。
体が瞬時に反応する。体を返しながら後ろへと踏み込み、そのまま切り結ぶ。
今度は最初の時のように無様に吹き飛ばされる。途切れない意識は本来知覚するはずの痛覚をも無視し続けた。
頭の上、今は森の中なので月光も届かない。影が落ちてくる。反応が間に合わない。
【呆けるな】
叱咤がきた。楽に言ってくれる。
飛ばされる体を引きずり、引きずられたままに右手を、『鎮定』を振り上げた。
甲高い音と共に右腕が下に弾かれ、右肩が裂かれる。
剣を叩いた青スピリットが眼前に着地する。すでに腰だめに神剣を構えていた。
まずは剣。そして次に――最後に胸か。
【……どうかな】
剣が突き出されるより速く、体を捻っていた。切っ先が胸元を掠め、布地が舞い落ちる。
離れようとする体に相手の翼が叩きこまれた。
豪快に弾き飛ばされた体は肋骨が数本折れたらしく、聞き慣れない音が体内からする。
体勢を立て直した時には、二人の敵は悠然とこちらに歩いてきていた。
そろそろ限界か――?
【……忘れるな】
「『鎮定』?」
【この感覚、できるなら忘れるな。主にはあまり適応していないが、これこそが――】
心臓が一打ち。体が内から締めつけられる感覚。呼気が熱い。『鎮定』が何かを、している。
忘れるな。頭に一本の剣が思い浮かぶ。白い光の先にあるのは『鎮定』だ。
適応していなくとも。これは一つの先だ。近づく。あるいは近づいてくる。
本来により近い。俺は剣を掴んだ、掴めるはずの剣をこの手に。
忘れるな。一時の力。置き忘れた何かを。
「忘れるな」
体が動く。いや、動かされる。意に反して、速く。己の反応を無視した動きで。
それは『鎮定』の動きで、自分の動きではなかった。
体に力が溢れている。これが本当に自分なのかと、心のどこかで疑う。それでもこれは俺だ。
腰を落とした低い姿勢で疾走する。骨折も陥没も疲労も気にせずに。
敵の二人が身構える。その動作はゆっくりとしているように感じた。
斬り込む。相手の攻撃を紙一重で避けながら手前の相手に肉薄し、『鎮定』を横に一振り。鮮血が吹き出る。
直後、刃を相手の胸に突き立てた。刃先を引き抜き、相手の体を蹴り飛ばす。
自分の行動がまるで他人事だった。だが、えもいわれぬ高揚感も確かにある。力を行使しているのだという実感が。
最後の一人が距離を取ろうとするが、それより先に相手を組み伏せていた。
剣身が月光を浴びて煌めく。すでに相手の首を刎ね終わっていた。重たい物が草の上に落ちる。
動かなくなった相手から離れる。その遺骸ももう消えていた。
「……なんだったんだ」
先ほどの高揚感は、虚脱感に取って変わられていた。
ひどく気だるい。億劫と感じながらも歩き出す。とりあえずはユートたちのほうへと。
一歩を踏み出してから動けなくなった。
「あ……」
背筋が凍え喉が渇く。『鎮定』がやかましく鳴り響いて、膝が笑い出す。
解っている。来るんだ、化け物が。もう声も出なかった。
濃厚なマナが離れた場所に収束する。それは『求め』や『因果』らよりはるかに強大な力を顕現する。
扉の開くような音がした。その場違いな音を契機に威圧感が現れる。今まで感じた何者よりも圧迫感のある気配。
圧倒的な威圧感がすぐ側に迫っている。こちらに来る。逃げるなど敵わない。
そして、それは来た。
姿を捉えるよりも早く、頭を後ろから掴まれる。まるで万力のような力で。
そのままの力で壊れたおもちゃのように振り回され、木といわず大地といわず頭を叩きつけられる。
鼻が根元から叩き割られる。唇がぼろぼろに裂けた。口の中も硬い物で切られる。目がどうなったかは分からない。開けられないのは確かだ。頬骨が砕けて陥没する。
痛みをまともに感じない分、自分の状態を冷静に受け止めてしまう自分がいた。
「こうも簡単に接近を許すとは……」
落胆を滲ませた低い男と思しき声。聞き覚えがなかった。
男は俺を地に押さえつけていた。鉄の臭いに混じって腐った土の臭いを嗅ぐ。
体は動かない。機能不全なのは承知していたが、指一本さえ動かないとは思わなかった。
【主、もう一度だけ言う。忘れるな】
意識が沈み始め、乏しい感覚が消えていく。逆に『鎮定』の力が浸透しはじめる。しかし今回は有効に生かせそうにもなかった。
4
「……てください! 起きてください!」
輪郭がぼやけていた。誰かが覗き込んでいるらしいのは理解した。
焦点が合い、正確な像を結ぶ。エスペリアだ。慌ててる様子なのが見て取れた。
頭が痛む。額を押さえながら上半身を起こす。視界が左右に揺れているような気がして、吐き気を感じた。
……吐き気? 珍しいな。
周囲にはいつの間にかスピリット隊が全員集まっていた。しかしユートとアセリアの姿だけは見当たらない。
「……何があったんだ?」
「それはこっちの台詞です! 一体何があったんですか?」
エスペリアに言われて周囲を見て……言葉が出なかった。
自分を中心に大地が人の背ほどは陥没し、周辺の木々は放射状に倒されている。
確かにこの一帯で戦闘はしていたが、ここまで荒らした記憶はない。
「……なんだ、これ」
「私たちが駆けつけた時にはすでに……何があったのかはこちらが聞きたいです」
エスペリアは胸元で手を握り締めていた。彼女の焦りを表しているようだ。
見かねたのかセリアが歩み寄ってくる。
「一体、ここで何と戦っていたんです?」
「何って……スピリットだよ。変な感じがするスピリットだ」
「……ずいぶん抽象的な言い方ですね」
「他に言葉が思い浮かばないんだ。それから……」
それから、圧倒的な威圧感を放つ誰か。
為す術もなく手酷くやられたのは確かだというのに、その痕跡がないのはおかしい。
「……見つけられたとき、俺はどうなっていた?」
「別に怪我とかはなく、ただそこで気を失っていただけですけど」
怪我が治っている? どうしてかは分からない。そもそも、そうなると本当に怪我をしたのかが急に分からなくなる。
しかし夢だとは到底思えなかった。
「エスペリア……それからウルカも、強い力を感じなかったか?」
エスペリアとウルカは顔を見合わせ、頷き合う。
「感じました……ユート様とアセリアはそれを確認しようとこちらへ……」
「……ユート様たちはそのまま行方知れずよ」
「……行方知れず?」
本当に何があったんだ?
あの時の誰かは明らかに『求め』を上回る力を秘めた神剣を持っていた。
やられていたとしても、おかしくはないのだが……腑に落ちない。
「……もしかして、ユートたちはやられたんじゃないの?」
「ニム、そんなことはありませんよ……」
ニムントールの表情には普段と違って不安がっているように見えた。そしてファーレーンも。
「……ファーレーンの言う通りだろう。そうだったら俺がここで話してるはずがない」
ユートを圧倒できるはずの敵がどうして俺を見逃す。生かされる理由など俺にはない。
「生きてはいるはずだ」
気休めの言葉は気休めにしかならないが、何も言わないよりはいい。
セリアを初め他の者も分かっているはずだが、そこに口を挟む者はいなかった。
とにかく立ち上がってみる。いつまでもこうしては……。
「……と」
立ち上がった拍子にバランスを崩して、膝を突く。
セリアが眉を顰めるのが見えた。気を取り直して、立ち直す。今度は倒れない。
足元が不安定なのは、やはり怪我の後遺症のようなものか。
(……そういえば『鎮定』なら何か知ってるかもな)
意識を失う直前に、力が浸透していくのを感じた。あるいはそれで怪我が治ったとか……それはさすがに厳しいか。
とにかく疑問を解決しようと『鎮定』に声を向ける。しかしいくら待っても、何度呼びかけても返事が来なかった。
どうして、と思った時にやっと返事が来る。だが『鎮定』の答えは想像していたようなものではなかった。
【主……私は眠い。意識を保てない……おそらく、当分は何もできないだろう】
(……何を言っている?)
【……好きに行動しろ。主がやりたいように、やればいい】
そうして一方的に会話は終わった。味気も感慨もなく。俺はまた何かを失ったのだろうか?
「どうかしたのですか?」
エスペリアに尋ねられる。スピリット隊の耳目が自分に集中していた。
話さないわけにはいかない、か。
「……困った話だが」
ウルカを窺うと、ちょうど目と目が合う。それでも自分が何を言わんとしているかまでは伝わらないだろう。
「俺も神剣の声が……聞こえなくなったらしい」
水の底に落ちていく。見上げる光が遠ざかって、暗い場所にゆるゆる沈んでいく。
心地よい水の底へ。惰眠という泥濘の場へと。
おそらく私はここからしばらく――下手をすれば二度と浮かび上がれないだろう。抗うには甘美で、それ故に苛酷な環境だった。
しかし、できる限りの手は打った。それに幸運でもある。
あれは結局変わっていなかった。だから私は消されてもおかしくなかった意識が、今も残っている。
相手の手抜かりではない。しなかっただけだ……そうした理由も推測できる。そして、少しは共感できるだろう。
だから私はそれを踏まえた上で抗う。それがどういったしっぺ返しになろうとも、私の知ったことではない。
あれの事情と私の事情、そして何より主の事情はもはや違うのだ。
沈みきる前に、主に今まで通りの力ぐらいは行使できるようにした。私が眠ってしまっても、普段の力は発揮できるはずだ。
それに、と思う。
今の主なら、逆に私の力を引き出せるかもしれない。
何故なら、過去に私が否定したはずの感情を今になって持ち始めているのだから。
不思議なものである。生命というのは感情が時により強い力を引き出す。我らもまた決して例外とは言えない。
もっとも、その感情が時に目を曇らせ判断を誤らせることも知っている。
そして、私は力よりも判断の誤りを恐れた。故に感情を否定した。望まなかったのだ。
しかし、それもまた感情から発生したものだとは気づかずに。私の誤りはすでにそこから――それ以前から始まっていたのか。
主はそれに気づいていたのだろうか? 気づいていたような気がする。筒抜けであるはずなのに、推し量れないこともあった。
本当に同列だと信じていたのは、信じたかったのは私だったのだろう。主はいつの間にか私の先を歩んでいる。
彼ならおそらくこれを、寂しいなどと呼ぶだろう。
だから私はこれを、悔しいと呼ぼうと決めた。
――全てを主に委ねよう。私が選んだ男と、選んだ私を信じて。
そうして私は落ちていく。次に起きる機会があるならば、主がそれを作るだろう。
いつ、どこでかはまだ分からない。早いのか遅いのか、本当に来るのかも。
私はそれでも、その瞬間を待つ。それが今の私にできる唯一だから。
15話、了
二〇〇六年十一月十一日 掲載。