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永遠のアセリア
Recordation of Suppressor


18話 その手に剣を(後編)


















 変化は陣営を問わず、戦場にいる誰にも伝わっていた。
 突然現れた強い力に何人かは、敵の動きを警戒しながらも注意を向ける。
 ナナルゥもその中の一人だった。
 両膝を地につけ、『消沈』で体を支えている。肩で息をして、両手からはうっすらと高温による湯気が上がっていた。
 すでに体力も精神も疲弊して限界が近い。

(誰……? ランセル様?)

 神剣の気配から受ける雰囲気に一番近いとナナルゥが感じたのはランセルだった。
 それがどうして五位に匹敵するほどの力を発しているかは分からない。
 確実なのは、ランセルの存在が状況を大きく変化させたこと。
 ナナルゥは光陰に注意を戻す。光陰も突然強まったランセルの力を警戒していた。
 光陰とナナルゥの距離は戦端を切った時に比べて、だいぶ接近している。
 ナナルゥも消耗しているが、光陰も決して無傷ではなかった。
 彼女の魔法は何度か光陰の防壁を突破し、光陰に手傷を負わせている。
 しかし消耗の度合いで言えばナナルゥのほうが激しい。
 ナナルゥの神剣魔法も防壁を突破できても、威力の大部分は相殺されてしまっていた。
 ナナルゥには初めから、彼女の力では光陰を倒せないのは解っている。
 そのため足止めに専念していたが、それはある程度上手くいっていた。
 今まで光陰が戦線に突入していないのは、ナナルゥの防戦によるところだ。
 しかし撤退の合図はまだない。ナナルゥという抵抗がなくなった以上、光陰の行動に枷はなくなる。そのはずだった。
 ここでラキオス側に五位神剣と同等の力が現れたことで、事態もまた変化する。

(どう……動きます?)

 光陰の取れる選択は大きく二つ。
 このままランセルを無視して、戦線に突入しナナルゥたちを蹴散らしてヨーティアの元まで進むか。
 それとも今すぐランセルを標的として、排除に取りかかるか。
 ナナルゥのそんな思考とは関係なしに、光陰も突然現れた強敵へと意識を向けていた。

「いくら『空虚』でも万が一ってこともあるか」

 突然現れた気配に光陰は呟く。その表情からはすでに笑みが消えている。
 誰が力の元か光陰には分からない。『求め』とは違うのだけは気配から分かる。
 彼の見立てでは、この戦いは『空虚』を敵に突入させた段階で終わるはずだった。それだけ『空虚』の力は高く、不本意ながらも光陰はそれを認めている。
 今回も攻撃をかけながら『空虚』が突入するまでの時間を稼げばよかったし、そうでなくとも彼や稲妻が突破してもいい。
 それがラキオススピリット隊の想像以上の抵抗で、少しずつずれ始めていた。
 光陰も初めから自分の思い描いた通りに進むはずがないことは解っている。完璧な作戦など存在しないのだから。
 だからこそ光陰は状況に応じた適切な選択を選んできた、そのつもりだった。
 それがここにきて、『空虚』が未知の強敵と正面から戦うという事態に陥っている。
 光陰はナナルゥらとの距離を測った上で、まだ遠すぎると判断する。
 心のどこかで悠人のいないラキオスならどうにでもなるという油断があった。それを光陰は認める。
 認めた上で、一筋縄にはいかないという事実を再認させられる。それが今の状況だ。

(五位ってところか……こいつは予想できなかったな)

 事前にラキオススピリット隊の情報はある程度把握している。
 四位ないし五位の神剣は『求め』一本のはずだったし、今までの戦闘でも確認できている。
 だというのに『空虚』と戦っている相手は四神剣に決して引けを取らない力を発していた。
 光陰としてはそれほどの相手と『空虚』を一対一で戦わせたくない。だから光陰は惑う。
 今すぐ自分が戦線に突入すべきか、『空虚』の支援に向かうべきか。
 戦線に突入すれば善戦しているラキオスのスピリット隊といえど決壊するだろう。しかし、その間に『空虚』――今日子の身が危険に晒される可能性も高い。
 逆に『空虚』の支援に向かえば戦線は確実に膠着する。それどころか配下の稲妻も悪戯に戦力を消耗する恐れもあった。
 要は今日子と部下のどちらを優先すべきか、である。
 その時、ちょうど光陰はクォーリンと目が合う。
 戦闘中に理由もなく、彼女が振り返ることはまずない。だから、光陰には意思の確認のように思われた。
 そして彼は断を下す。
 聞こえない、と思ったものの光陰は口に出した。

「クォーリン、この場は任せた。俺は今日子を助けに行ってくる」

 光陰が言い終えると、クォーリンはすぐに振り返った。その瞬間の表情が何か言いたげに光陰には見えていた。
 もしかしたら聞こえていたのかもしれないと思いつつも、考えすぎだと光陰は頭を振る。
 クォーリンの本心に気づかないほど、碧光陰という男は朴念仁ではない。
 しかし、それでも応えられない気持ちが存在するのも彼は知っている。
 知っていながら、生殺しと解りつつも、光陰には突き放せない。
 ヘタレとどっちが酷いのか。悠人の顔と周囲からの評価を思い出して、そんなことを考えた。
 彼の足は今日子のほうへと向く。その決断は指揮官として不適切だろう。
 しかし光陰にはそれとはまったく別の理由が在る。彼だけの、戦うための理由が。
 ――今日子を守らないのは、彼の理由に反する。
 その理由が在るからこそ、光陰は『因果』を持って戦う。

「死なないでくれよ」

 去り際に言い残すが応じる声はなかった。
 光陰は少し前まで自分の足止めをしていたナナルゥを遠目に一瞥してから走り出す。
 応じる声はない。そう思っていたのは光陰だけで、実際にはクォーリンたち稲妻のスピリットには聞き取れていた。

「もちろんです」

 クォーリンは独白のように答え、一同の顔を見渡す。
 それぞれが無言で承知したと言わんばかりの顔をしていた。
 そんな仲間に心強さを感じながら、彼女はラキオスのスピリット隊に目を転じる。
 人数差は倍もあるのに、ずっと一進一退を繰り返していた。
 そうなった理由もクォーリンには解っている。
 被害を避けようと彼女ともう一人いる緑スピリットは回復に専念し、他のスピリットもどこかで防戦に徹していた。
 それが決定力不足となって、膠着させた原因になる。他にもどこかで光陰と今日子に頼っていた部分も否めない。
 被害を恐れた結果、逆に戦いを長引かせてしまっていた。そして戦いが長引けば不測の被害が発生する確率も上がる。

「打って出るわ……慎重に戦いすぎてた」

 他のスピリットも同意するよう頷く。
 一方のラキオス側もその動きを見て、稲妻が攻勢に移るのを察知する。

「エトランジェの加護が消えた分、今度は攻撃が激しそうね」
「そうですね……シアー、あなたは私の後ろに。相手の流れが止まったら一気に飛び込んで」
「うん……」

 エスペリアの後ろに回ったシアーはナナルゥを盗み見る。

「ナナルゥなら大丈夫よ。今は目の前の敵に集中して」

 セリアの言葉にシアーは頷くが、まだどこか上の空であった。

「……ねえ」
「何?」
「この強い力ってやっぱり……」
「まず間違いなくランセル様でしょうね。やっぱり何か隠してた」

 面白くなさそうに言い切るセリアにエスペリアは異を唱える。

「そうでしょうか? 知っていて隠していたようには思えないのですが」
「……秘密があったのは確かよ。とにかく隠してたのか知らなかったのか、戻ったら問い詰めないと」
「あまり手荒な真似は……」
「彼次第でしょ。その前に今はここを切り抜けることを考えましょう」
「……そうですね、ここが正念場です」

 三人は正面の稲妻に集中する。
 先に動き出したのは稲妻だ。クォーリン自ら先頭を切って、エスペリアたちに突撃してくる。
 エスペリアとセリアも前へと駆け、数歩分遅れてシアーも前に進む。
 互いの距離が詰まり、二つの流れは激突する。手を出したのはほとんど同時だ。
 エスペリアとクォーリンが同時に神剣を突き出す。両者とも細部は違うが形状は槍だ。
 二本の槍はぶつかり合い、そして持ち手は突き出した槍が外に流される前に引き戻している。
 その引きは突き出しより速い。再度二人は突き出す。そしてまた弾きあう。
 そこにクォーリンの右から青スピリットが飛びかってくる。上段から神剣を振り下ろそうとしているのがエスペリアには見える。
 エスペリアが左手を上へと振るう。するとハイロゥが青スピリットの前にシールドとして展開される。
 激突。青スピリットはシールドと衝突し、大きく体勢を崩す。
 その間にもエスペリアとクォーリンは何合も突き合うが、互いに決定打は出ない。
 横ではセリアも二人の敵と切り結んでいる。やはり決定打はなく、マロリガンの勢いは止まる。
 それを見計らってシアーが翼をはためかせて飛び出す。シアーから見て最も近い敵、クォーリンに斬りかかる。
 クォーリンはエスペリアとの距離を離し、ハイロゥを盾に変える。そこにシアーが飛び込む。
 ウイング・ハイロゥによる速度と体の回転を利用して、連続して切りつけていく。
 クォーリンはその一撃一撃を捌いていくが、その度にシールドごと切られそうに感じていた。

「ええいっ!」
「クォーリンはやらせないよ!」

 両者の間に割って入るように、左右から青と赤のスピリットが飛び出してきた。背格好からシアーとほとんど同じぐらいの年頃だと分かる。
 シアーの動きが攻撃から防御に転じ、優勢から劣勢へと転じた。
 そこに長駆、セリアが飛び込んできて、シアーの援護に回る。
 さらにそれを追って、別のスピリットたちが飛び込んできて、セリアを守る形でエスペリアも立ち塞がる。
 様相はまさに混戦。数で負けているラキオスには必ずしも不利とは言えない展開だったが。

「隊列を戻して! セリアは魔法の警戒も!」
「了解!」

 エスペリアが『献身』を大きく二度三度と横に凪ぐ。風を切る穂先を避けて稲妻のスピリットたちが距離を置く。クォーリンもこの機に一度隊列を整理させる。
 双方とも擦過傷などの軽傷はあるが、深い傷は誰も負っていない。
 休む間もなく稲妻が動き出す。ラキオススピリット隊も一歩も退かずにそれを迎え撃つ。












 光陰が移動を始めたのは、ウルカたち左翼に展開するスピリットたちも察知していた。
 敵の足止めをしていたウルカが下がると、その横を守りながらファーレーンが話しかける。

「ウルカさん、中央の敵を指揮しているスピリットを狙えますか?」
「……この場はどうするのです?」

 二人の側にはニムとネリーも集まっていた。二人は敵を警戒しながらウルカらの会話に耳を傾けている。

「ここは私たち三人で抑えます。その間にウルカさんには敵の指揮官を叩いて欲しいんです」
「しかし……ここを支えるよりも大切ですか?」
「はい、大切です」

 ファーレーンは言い切る。稲妻は隙を窺いつつ徐々に距離を詰めてきていた。

「ここは私たち三人だけでも抑えられます……ですが中央はどうも苦戦しているようですし、敵の指揮系統を乱したほうが撤退はやりやすいでしょう。そろそろ、そのために動く頃合です」

 ウルカは黙考する。
 ほとんど腹は決まっていたが、本当にそれでいいのか検討するための時間だ。
 ややあってウルカは頷く。

「……ならば、この場は頼めますか?」
「ええ、任せてもらいましょう」

 ファーレーン、次いでニムとネリーに頭を垂れてから、ウルカは黒の翼を広げる。
 一つ羽ばたいてすぐに、ウルカは疾風のように飛んでいく。
 驚いたのは左翼を攻撃していた稲妻の面々だった。
 突然、敵の中核を為していたスピリットが明後日の方向へ向かい始めたからだ。
 だが、その進路の先に何があるかに気づき、すぐに中央への援軍なのだと悟った。
 黒スピリットの一人がウルカを追おうと、飛ぼうとした時だ。
 その上に覆いかぶさるように黒い影が躍りかかる。
 頓狂な声を上げて、黒スピリットが腹に触れる。その手には滑り気のある感触があり、流れ出るものがあった。
 その影は一撃を与えただけで、止めは刺さずにウルカと稲妻の間に降り立つ。

「ここから先は通しません!」

 ファーレーンだ。凛として立つ彼女からは強い気迫が感じられた。
 稲妻はファーレーンに殺気を向けるが、その後ろからはネリーたちが仕掛けてくる。

「はぁ……ネリー、さっさと蹴散らして。お姉ちゃんまで遠い」
「くーるにいっくよー!」

 左翼側の稲妻は数では勝っているが、後背にも敵を抱えての戦闘となる。
 加えて個人の能力差もあり、一進一退の戦闘が続き、すぐに膠着状態に陥ってしまう。
 一方、中央の戦闘にも変化が起きていた。
 いつの間にかエスペリアとクォーリンが一対一で戦い、セリアとシアーが他の五人を相手取るような形になっていた。
 槍の穂先が擦れ合い、互いを阻む。エスペリアとクォーリンの打ち合いは何度も繰り返されていた。
 同じ緑スピリットでも砂漠戦を前提とした訓練を多く積んできたクォーリンとでは、エスペリアのほうが明らかに不利であった。
 エスペリアもマロリガンとの開戦以来、砂漠戦は何度も経験しているが、そもそもの年季が違う。
 エスペリアが槍を引く瞬間を見越して、クォーリンはシールドを体の前に構えて飛び込んでいく。
 『献身』が突き出されるよりも早く、クォーリンはシールドごと体当たりをかけた。
 エスペリアの姿勢が崩れる。崩されながらも小刻みにステップを踏んで、距離を離そうとする。しかし、クォーリンはそれを逃がさない。
 クォーリンの神剣がエスペリアの足元を払う。エスペリアは踵からすくい上げられるように転倒した。
 そのままクォーリンは神剣を順手で握り直し、胸の高さで構える。穂先は下を向いていた。
 天を向くエスペリアに向けて、槍を突こうとした時だ。仲間の切迫した声が届いた。

「クォーリン、後ろ!」

 何事かを確認する間もなく、クォーリンは神剣を後ろに向かって薙ぎながら反転する。
 硬音が一度響く。その理由を知る前に、二度目の硬音と共に槍が上へと跳ね上げられた。
 咄嗟にシールドで胸を守る。鈍い衝撃がシールドの上から叩き込まれた。
 息を詰まらせてクォーリンはその場から離れる。その時になってようやく自分を襲ったのが黒スピリットだと気づいた。
 彼女はエスペリアとクォーリンの間に入って居合いの構えを取る。

「エスペリア殿、無事ですか?」
「ええ……助かったわ、ウルカ」

 ウルカの名にクォーリンは目を見張った。
 それを知ってか知らずか、ウルカは『冥加』の柄に手をかけて口上を述べる。

「手前、ラキオスのウルカと申します。そちらは副将とお見受けしました……いざ、尋常に勝負」
「ウルカ……黒い翼……まさか漆黒の? でも、あのウルカはサーギオスであってラキオスじゃない!」

 クォーリンは同名のスピリットである可能性も疑ったが、いずれにしても彼女の経験と本能はウルカが危険な敵だと認識している。

「皆は攻撃を継続して! この敵は私が相手をします!」

 大声で伝え、そしてクォーリンが先に動いた。
 彼女が槍を突き出そうとした瞬間、ウルカも動く。そして二人の戦いは始まった。
 ウルカは神速の勢いをもって、突きを巧みに避け間隙に切り返し確実に傷を追わせていく。
 一方、クォーリンも攻撃の度に傷を負うばかりだが、致命傷だけは受けずに凌ぎ続ける。
 それは神速と不動の戦いだった。一見すればウルカが圧倒的に優勢だが、クォーリンはウルカの隙を一瞬でも見逃すまいとしている。
 ウルカもクォーリンが急所への攻撃だけは的確に防いでることから、相手が一筋縄には行かないのを悟った。
 そうして彼女たちの戦いは(もつ)れ合い長引く。
 ウルカとクォーリンが戦闘を始めた頃、ようやく抗マナ化装置はその働きを終えていた。
 抗マナ化が終わったのは、ちょうどランセルと『空虚』が戦いを始めた頃だ。
 それからは装置の中枢部分の取り外しにかかり、今は梱包も積み込みも終えたところだった。
 あとに残っているのは、形ばかりの機械の塊だ。
 ヨーティアは方々へ魔法を飛ばしていたオルファに叫びかける。

「オルファ!」
「なーに!」
「こいつをぶっ壊してくれないか?」

 慌てた様子でオルファはヨーティアのほうを振り返る。
 彼女の目に映ったのは巨大な機械、抗マナ化装置だ。

「これって大切な機械なんじゃ……」
「中枢は外してる。それに機械なら作り直せるけど、あんたたちはそうもいかない。だったら考えるまでもないだろ?」

 オルファは目を丸くしてから、力強く頷く。
 距離を取り、機械を見上げる。そして助走を始める。

「てりゃー! オルファキィィィック!」

 叫びながら、最初の行動は踏み切りだった。
 不安定な足場でも強く踏み切り、その勢いを利して機械の中心部を蹴り飛ばす。
 オルファが着地した時には、機械はゆっくり後ろに傾き始めていた。
 だが、オルファの動きは機械が倒れるよりも速い。
 着地と同時にオルファは体を沈めこむ。そして体を伸び上げて、右の拳を叩き込む。その右手を引きつつ、左拳も叩き込む。
 その一連の動きを連続して繰り返す。一撃ごとに腰の捻りも加えられている。
 そして、しなやかな腰の生み出す捻りは回転を生み出す。
 オルファは後ろ回し蹴りを叩き込んだ。回転は見た目から想像できないほどの破壊力を生み出していた。
 機械はものの五秒にも満たない間に、残骸へと早変わりしている。
 ヨーティアは半ば呆然としたように、その光景を見つめていた。

「ふぅ……」
「すごいな……とにかく上出来だ。みんなにも撤退の合図を出すんだ!」
「りょーかい!」












 硬音が響く。息が燃える。大気は震え、電撃が方々に乱れて、白光が胞子のように舞い散っていく。
 何度も続く攻防は確実に互いの体力を削り取っていた。
 振り下ろされる『鎮定』を『空虚』は刃を滑らせるように流す。衝撃を返すように放出される電撃を『鎮定』のマナが相殺していく。
 胞子のように散る光は、その名残だ。
 『空虚』が立て続けに振るわれる。その一連の動きは、瞬間ごとに区切られて見える。引き伸ばされた光景だ。
 今や諸所の動作の一つ一つを、体に触れる空気の揺れの一つ一つを認識し知覚できた。足が砂を踏みしめる感触も然り。
 遅くなった世界は、やはり自分の動きも遅く動く。しかし余裕はない。
 『空虚』の攻撃を紙一重で避け、時には避けきれずに深くはない裂傷が生まれる。
 あいつの動きは俺以上の速度で動き続けていた。
 動体反応が上がったことで致命傷だけは受けずに戦えているし、剣の軌道もすでに見えていた。
 しかし俺自身の動きはあいつに追いついていない。伝達が間に合ってない。
 本来なら優位に立てそうなものだが、基本的な能力差がそれを覆させなかった。
 どちらが一概に有利とも不利ともなく、戦い続けるばかりだ。
 『空虚』がこちらの攻撃を払いざまに後ろへ大きく跳躍する。すぐに追うが、距離を詰めきれない。
 距離を取る理由は簡単だ。電撃を使うからに決まっている。
 しかし、それはまずい。いかに『鎮定』で防げるとはいえ、完全にではない。
 そもそも遠くの相手への攻撃手段を有してないんだ。
 咄嗟に頭に閃くものがあった。俺はそれをすぐに『空虚』に向けて言う。

「誰だ、さっき俺たちを剣だけで殺すと言ったのは」

 『空虚』が帯電させたままの状態で、剣を止める。放出も来ない。
 キョウコの顔は無表情に、目だけがこちらを睨んでいる。

「口約束も守れないか。伝説の四神剣が聞いて呆れる」
「……」
「仕方ないか。五位なのに九位の神剣で首を落とされそうになったんだからな」
「口に気をつけろ」

 それでいい。安っぽい挑発だとも思うが、効果はあったようだ。言葉の節々から自尊心が高いのは推測できたが、こうも簡単に乗ってくれるとは。
 近接戦闘に限定すれば、互角以上に『空虚』と戦える。
 しかし、あくまで限定した場合であって、総合的に見れば劣勢だ。その理由があの電撃にある。
 こっちが近距離戦しかできないのに、あちらは中距離以上からでも攻撃できる。距離を離され電撃を集中されたら圧倒的に劣勢になる。
 勝機を繋ぎ止めるには接近戦に持ち込むしか道はない。

「……貴様程度の相手など過去に何度もこの身で屠ったと教えてやろう」

 『空虚』が迫る。低い姿勢からの踏み込み。突きの狙いはこちらの首筋だ。
 身を引きながら相手の剣に合わせて、こちらも『鎮定』で受けた。閃光が走り、その明るさに瞳孔が絞られる。
 『空虚』は体を押し込んできながら、こちらの懐に入り込もうとしてきた。
 後ろに飛び退くが、体が飛ぶよりも速く『空虚』は攻撃に移っている。
 右下段から左上段への振り上げ。反射的に左腕を盾代わりに構える。
 斬られ、電流が体内に侵入しのた打ち回る。それを実感として得ながらも、痛みという刺激は認知しない。
 着地した時には『空虚』も次の行動に移っている。
 正面ではなく背後。すでに回り込まれていた。圧力を背中に感じる。
 体を回し、『鎮定』を後ろの空間へと叩きつけるよう振り回す。
 『鎮定』と『空虚』が激突した。強い抵抗を感じながらも『空虚』を払う。キョウコの足が地を滑りながらも踏み止まる。
 態勢を整えて、双方ともじわじわと距離を詰めていく。

(……何か忘れてないか?)

 (しのぎ)を削っている最中だというのに、そんな疑問が湧く。
 『空虚』を握るキョウコの表情を見て、その理由に気づいた。
 状況が変わっている。
 今までは全力で戦っても『空虚』にはまず勝てず、加減がどうとかという話ではなかった。
 殺そうとしても殺せるような相手ではない。むしろ殺すつもりで戦っても生き残れるか分からなかったというのに。
 それが今は曲がりなりにも同等近くの力を出している。つまり、十分に斃せる可能性が出てきたということ。

(どうしてここにいない、ユート!)

 『空虚』のキョウコにせよ『因果』のコウインにせよ、お前がどうにかしたいんじゃなかったのか?
 この肝心な時にそう言った張本人がいないなんて。
 手など抜けるはずがなかった。そんなことをすればやられるのはこちらだ。
 全力で戦って、それで生き残ってくれればよしとするしかない。そもそも勝てるかも分からない相手なんだ。
 『空虚』が地を蹴った。反応が遅れる。キョウコの肉体がぶれたと思った時には、横合いから突きかかってきた。
 防ごうにも、こちらの防御をすり抜けて高速の突きが何度も体を穿ち貫く。
 一突きごとに『空虚』の剣身が纏う電流も強まっていく。

「終わりだ」

 小さな呟き。その声は安堵しているようにも聞こえた。
 『空虚』が俺に向かって払われようとしている。それをまともに受けては駄目だ。
 本能が警鐘を鳴らす。それを受けたら、もはや立ってなどいられない。
 腕の動きが鈍く、足元が覚束なかった。時間ばかりが遅く、しかし止まらない。
 刹那、右手が映る。
 右手に浮かんだ紋様のような白線は力の証なのか。白線から光が体に送られているのがゆっくり見える。
 ああ、そうだ。まだ力は尽きてない。尽きるにしても、こいつは止めなければならない。
 俺がやられたら、『空虚』はみんなを襲うだろう。それをさせてはいけない。
 天秤は片方に傾いて、動きなどしないんだ。

「あ――!」

 ふらつく足で踏ん張る。
 この命はいつだって誰かに支えられていた。今日だって、ハリオンがいなければすでに死んでいた。
 そしてハリオンがいなければヒミカもヘリオンも助からない。
 だから、守らなければならない。命は彼女が繋ぐ。
 血流が熱い。顎が痛む。胸が詰まる。目が、何故だか熱くて視界が歪んだ。
 自分のために死んだスピリットを思い出した。
 あいつは最期に泣き笑いをしていたが、今の俺もあいつと同じ気持ちなのか?
 初めてラキオススピリット隊の戦いを見た時を思い出した。
 あの時は確かシアーがヘリオンを守ろうと庇っている。
 シアーは特別な理由はないと言ったが、今の俺もそうなのか?
 もしも、そうだと言うなら――。

「ああああああっ!」

 『空虚』の軌道に『鎮定』を強引に割り込ませた。
 落雷のような閃光が走る。それが収まった時には俺も『空虚』も吹き飛ばされて砂の上に転がっていた。
 先に立ち上がったのは俺だ。『空虚』はようやく立ち上がろうとしていたが、その動きは緩慢。
 足の筋が悲鳴を上げるが構うものか。この体はもうどこも悲鳴だらけなんだ。
 踏み切るには適さない足場をものともせず、『空虚』めがけて跳躍する。
 『鎮定』を振り下ろす。キョウコがそれよりもわずかに速く体を後ろへと飛ばしていた。
 キョウコが先ほどまでいた場所に大穴を空ける。視界を塞ぐように大量の砂が上空に舞い上がり、土流のような砂煙として落ちてくる。
 『空虚』はその一撃の間に距離を取る。そして剣身はまたも帯電している。
 もう自尊にこだわっている場合でないと気づいたようだ。

「『空虚』……!」

 その雷で俺を殺すか。それもいいだろう。しかし、それでみんなをやらせるわけにはいかない。
 アズマリアを失った時のような、あんな気持ちはもう御免だ。この手から大切なものが滑り落ちていく、あんな空しい気持ちは。
 そのためには『空虚』を止めなければならない。
 だが、どうする? もはや今までのような距離まで『空虚』は近づけさせてくれないだろう。
 このままでは打たれるだけで、何もできやしない。
 模索する頭に、一つの出来事が鮮やかに蘇った。
 ウルカの部下、その中にいたあの緑に神剣を投擲されたのを。
 自分にはできない芸当なのは解っていた。だが――俺一人でないならば。
 『鎮定』の光が強くなる。解る、完全ではないが目覚めようとしているんだ。
 俺一人ではマナはうまく制御できない。だが、こいつとならば。
 目覚め切らない『鎮定』が応えてくれる。
 俺の意図を理解し、可能な限りの手順を踏んでゆく。
 飛翔距離、相対速度、入射角、マナ干渉、重力、大気圧、風向、風量、重量、重心、突入角、その他自分には解読できない演算が働く。
 それらの緒元と行動予測を元に、投擲体勢に移る。剣はまっすぐ飛ばない――投擲など用途として考慮されていないからだ。
 無茶を成立させるためにマナによる方向制御を加える。それも『鎮定』が行うべき操作だ。
 この段階で自分にできるのは投げるのみ。そして『空虚』の動きを止めることを願うだけ。
 何が最善なのか。みんなも助かって、キョウコという女も死なないで。コウインもユートと和解して――そんな理想か。
 俺には理想など追えない。側にある何かを守るだけで精一杯で、それさえ叶わないのかもしれない。
 それでも、俺は守れるものだけは守りたい。

「くうきょおおおおっ!」

 砂を巻き上げながら『鎮定』を振り上げる。
 姿勢は半身。柄は肩の正面に来て握りは逆手、剣先は『空虚』を向く。
 腕の力が制限された。投げるべき軌道、角度に自然と手が動く。右足が前へと踏み込んだ。
 投擲は巻き上げた砂が落ちきる前に終わっていた。そして、体がそのまま砂の上に倒れこむ。それでも、顔だけは上げて軌跡を見た。
 空を切り裂き、『鎮定』は飛翔する。どんどん遠ざかっていく。それは光の矢のように見えた。
 『空虚』が瞬時に離れるが、『鎮定』の軌道もそれに合わせて変化する。
 避けられないと思ったのか『空虚』から『鎮定』に電光が放たれる。それも『鎮定』は弾きながら目標へ直進していく。
 そうして光の矢は目標を違えず捉える。その目的を果たすために。
 『空虚』が防壁を発生させる。正面から『鎮定』は防壁と衝突した。
 余波の衝撃波が届く。潰し合いはどちらが優勢なのか、はっきりと判らない。
 腕に力を込めて立ち上がる。剣を手放したので、力は弱まっているが、加護は完全には切れていない。
 重たい体で歩きだす。まだ決着は着いていない。
 そう思った矢先のことだ。突然強い気配が『空虚』と『鎮定』の間に割って入るのを感じた。

「『因果』のコウイン……」

 気配の正体を呟く。『空虚』との戦いに没頭しすぎていて、接近にまったく気づかなかった。
 『因果』の力が加わったことで、拮抗はあっさりと崩れる。
 力を失ったように『鎮定』が空中に舞う。そして回転しながら落ちる。
 だが、同時にキョウコの体も崩れ落ちていた。コウインが慌てて彼女の体を支える。
 そしてキョウコの口が何事か告げたのが遠目にも見えた。
 何を言ったのかまでは分からない。
 コウインはキョウコを寝かせ、俺を見ると『因果』を肩に担いでこちらに寄ってくる。
 武器はもう、ない。
 コウインは自分の間合いから二歩近く離れた場所で立ち止まった。その表情に浮かんでいるのは敵らしからぬ笑みだった。

「あんた、大したもんだな。一人であの『空虚』を行動不能まで追い込むなんて」
「……一人じゃない」
「何?」
「俺一人だったら最初の接触でやられていた。『空虚』をあそこまで追い込むのは、俺一人じゃできない」
「そうか」

 コウインはどこか満足したように頷く。何を考えているのかは読み取れない。

「前に見た時はそんなに強い神剣だと思わなかったけど……まさか手加減してたとか?」
「それはないな……俺も驚いてる」
「そうか……で、あんたはエトランジェ?」
「知らないし、お前には関係ないだろ」
「それもそうか」

 苦笑を返された。他愛のないやり取りをしながらも警戒は解けない。
 いや、するだけ無意味か。俺の生殺与奪は今やコウインが握っている。

「あんた……悪いな、名前知らないんだ」
「……ランセルだ」
「ランセルか。俺はあんたに少し感謝してる。さっき一瞬だったけど、今日子が今日子に戻ってな」

 ……それは神剣の支配から脱した、ということなのか?

「一時的なもんだとは思うけど、まだちゃんとあいつの人格も消えてないのが分かってた。だからあんたには感謝してる」
「……それはどうも」
「感謝してるから言うぜ。ランセル、俺たちの捕虜にならないか? このまま消すのは忍びないし、あんたが良ければこっちで取り立てるよう取り成しもできるぜ?」

 心はまったく揺らがなかった。
 おそらくこの男の言ってることは嘘ではないだろう……少なくとも、コウインが嘘をついているようには見えない。
 しかし、それとこれは別だ。

「ありがたい話なんだろうけど、断る」
「そう言うと思った。けど考え直さないか? こっちだって無益な殺生はするなって教わってるんでね」
「……今の俺の居場所はラキオスなんだ」
「そうか。なら愚問だったな」
「ああ、悪かったな」

 いやいや、とコウインはやはり苦笑を返す。
 ユートがこいつと戦うのに迷う理由がなんとなく分かったような気がした。
 逆に今度はこっちが質問していた。

「答えてくれないか、コウイン。お前は本当にユートを殺したいのか?」
「最初に会った時にそう言ったつもりなんだけどな……」
「はぐらかすな。俺が聞いてるのは今のお前の本心だ。上辺の答えになど興味はない」
「こいつは手厳しいな……だけど、そんなことを聞いてどうする気だ?」

 逆に問われて迷う。
 ただ、返答次第で自分がどうしようとしているのかは解っていた。

「返答次第では今この場で――ユートに代わってお前を殺す」
「神剣がない上に、満身創痍でよく言うぜ」

 やはり苦笑を返す。だが、今度は目が笑っていない。

「ユートはやっぱりお前たちとは戦いたがってなんかいないんだ。お前もそうなんだろ、コウイン?」
「どうかな、俺は自分のためだったら酷いことでもできるからな」
「知らぬは本人だけ、って言わないか? ハイペリアじゃどうか知らないが」

 構えようとして、『鎮定』が手元にないのを改めて実感する。
 回収は……無理だ。拾う前に切り捨てられるのがいいところか。

「本当にお前たちの間に殺し合うって選択肢しか残ってないというなら、俺がそれをやる。あいつに友人殺しの責など、感じて欲しくない」

 コウインは何かを言おうとして、しかし何も言わなかった。
 ただ、言い直すように告げる。

「だったら、あんたには消えてもらうしかないな」

 『因果』が力を解放する。素手で立ち向かえる相手ではない。
 『鎮定』をどうにか拾えないかと思った矢先、何かが口をついていた。

「――」

 なんだ? なんと言った? 戻れ、と言ったのか?
 コウインが一歩詰めてくる。

「――」

 再び同じ言葉。右手は横に伸ばしていた。
 それで何かが起こるはずもなく――何かが触れる。触り慣れた硬い感触は『鎮定』の柄だった。
 どうして、と思った矢先には反射的に柄を握り締めている。マナが急速に収束し剣身を形作った。
 右腕に再度文様が浮かぶ。力の伝達もまだ終わってない。
 まるでエーテルジャンプの時のような現れ方だ。
 コウインが踏み込んできた。『因果』の鉄塊じみた刃を辛うじて受け止めた。

「おいおい、どんな手品だよ。どうして神剣があるんだ?」
「……知らない」

 体を逸らしながら、『鎮定』をコウインに向かって振るう。しかし、強固な防壁によってあっさりと阻まれた。
 これだけ消耗しきっていては到底破れそうに思えない。
 コウインが『因果』にマナを収束させて振り下ろす。
 身を捻って直撃こそ避けたが、余波の衝撃だけで距離感を失うぐらいに飛ばされていた。

「……なんてやつ」

 『空虚』を相手にしてもそうだが、敵にしてよく解かる。
 エトランジェは凄い、と。
 過去、彼らと同一視されたことを思い出す。まったく、見当違いもいいところだ。
 自分とは桁違いじゃないか。捻り出すにも一苦労するような力を苦もなく行使する。
 これで何がエトランジェですか――だ。
 体を何とか砂から引き剥がす。痛みこそないものの、体の反応はだいぶ鈍っている。
 その時になって、女史たちのいた辺りから天に向かって火が立ち昇っているのに気づいた。

(撤退の合図か……)

 もっとも自分が逃げれそうにないのは、初めから分かっていた。逃げれないなら足止めを続けるだけだ。
 コウインに注意を戻す。あいつの防壁を突破するのは困難だが、ここで粘ればそれだけでも足止めになる。
 そう思って力を込めた時だ。変調は突然やってきた。
 胸が圧迫される。そして喉元から何か塊が込み上げてきた。
 堪えきれないと思うのと同時に左手で口を押さえる。
 その上から塊を吐き出した。しかし指の間からすり抜けるように零れて砂の上にばら撒かれる。
 赤黒い塊の正体は血だ。量が多かったので塊のように感じていただけで。
 吐血……そんな聞き慣れない単語が頭を過ぎった。
 さらに咳き込み、嘔吐するように血を吐き出していく。
 コウインも攻撃の手を止め、目を丸くしてこっちを見ていた。

「おいおい……あんた、大丈夫かよ?」

 声が出ない。呼吸が喘鳴している。喉が潰れたようにまともな声が出てきやしない。
 代わりに血ばかりが吐き出されていく。足元に赤黒い水溜りができるのに時間はかからなかった。
 一際、大きな咳をしてから、ようやく呼吸が落ち着きだす。『鎮定』からの力は弱まっているが、まだ普段よりは強い力だ。
 だが、すでに体のほうが限界を迎えているのかもしれない。
 荒げた息のまま、『鎮定』を右手だけで構える。左手は胸を押さえつけていた。そうしないと壊れてしまいそうな気がしたから。
 コウインは何も言わずに『因果』を体の前に構える。
 血を吐いている間に、どう動くべきかは決まっていた。

「余談をしておこうか」
「ん?」
「俺とコウインたちとの違いだ。俺はマナの扱い方が下手なんだ。どのぐらい下手かと言うと」

 左手を胸から離して、コウインに突き出す。
 『鎮定』からの力を左手に集中するよう意識する。
 すると次第に腕が熱くなっていき、マナが収斂(しゅうれん)していくのが分かる。
 コウインが左手の力を警戒して身構えた。それでいい。

「今の力を利用しようとしたら」

 左手を振る。下へ、掌が足元へ来るように。
 コウインが息を呑むのが見えた。

「暴発する」

 言葉通り、爆ぜた。左手が内から破裂するように、マナが放出される。
 そして、足元の大地を吹き飛ばす。衝撃で砂が周辺に飛び散り、砂のカーテンに変わる。
 コウインの気配は動かず。おそらく、砂で視界を塞がれたことで奇襲を警戒しているに違いない。
 だが、虚を突いても防壁は突破できないだろう。
 だから狙いはそこじゃない。
 残りの力を振り絞って、一目散に駆ける。狙いは一つ、後方で待機している稲妻の部隊だ。

「しまった!」

 コウインの声が後ろから聞こえ、そして追ってくるのを感じる。
 だが、初めに距離を離したのが大きく、手負いでも自分のほうが移動速度は速い。
 すぐに振り切った。そのまま走り続け、後方の部隊を目指す。
 そこを攻撃し、混乱させれば撤退の手助けになるはずだ。その代わり、自分が合流する機会は永遠に失われたが。

「……犠牲か」

 自分には似合わない言葉だと思っていたし、今も似合わないと思う。
 しかし、今の自分の行動はその類なのだろう。その名を冠した神剣を持ったスピリットは今の自分をどう見るのか。
 関係のない話だ。
 近づくに連れて、スピリット隊と交戦していたはずの稲妻も自分を追ってきているのに気がついた。
 ……これでいい。後は少しでも引きつけるだけだ。
 後続の部隊、そのスピリットたちの表情が見える位置まで到達する。
 浮き足立っているのが、見て取れた。
 不意に、自分が何をしようとしているのかに気づいてしまう。

(俺がやってるのは『空虚』と同じか……)

 心臓が強く打つ。後続の部隊から何人かが飛び出てきた。
 その一人一人の顔を観察してから、まっすぐ突っ切る。
 『鎮定』は振らなかった。というより振るえない。それをやってしまうのが、酷く怖いと思えたから。
 攻撃を避けながらスピリットたちとすれ違っていく。
 いくらかは避けきれずに受けるが、それでも抵抗せずに後続の部隊に突入する。
 攻撃はせずに、しかし反撃を受けながら突破を目指す。
 魔法が一斉に突き刺さる。剣先が腕と言わず胴と言わず顔と言わず、至るところを切り裂き、突き、打っていく。
 耐え切れず、『鎮定』を振る。大きく、これ見よがしに。スピリットたちはそれを避け、そして道を開いていく。
 息を切らし、何も考えずにそこだけを目指し、そして越えた。
 『鎮定』からの力が弱まる。もう、十分だ。
 逃走に入る。スピリット隊にいる方角とは見当違いだが、そうしなければ今度は自分が生き残れない。
 死んでも仕方ないと思う反面、まだ可能性があるうちはすがりたかった。
 自分の行動が無駄でなかったのを願う。
 次の瞬間には自分が消え果ようとも、そちらが無事でありますように。












 合流地点に最後に戻ってきたのはヒミカたちだった。
 治療を受けたヒミカは自分の足で歩いていたが、膝から下は生身のまま曝け出されている。
 靴や膝から上の服はあるにはあるが、焼け焦げて黒く変色している。変色の度合いも膝に近いほど強い。
 隣を走るハリオンはヘリオンを抱きかかえている。ヘリオンも命に別状はないが、今は体を丸めるようにして気を失っていた。
 エスペリアと撤退の指揮を執っていたセリアが、その様子に気づく。

「ヘリオン! ちょっと大丈夫なの?」
「なんとかね。でもまだランセル様が……」

 ヒミカは後ろを振り返る。神剣の気配は感じられるが、状況は不透明だ。
 ただ気配があることから、まだ生きているのだけは確かだった。

「……やっぱり、この力はランセル様なのね?」
「ええ、私もこんなに強い力を持ってたなんて知らなかったけど」

 ヒミカはそう言いながら、集まったスピリットたちの顔触れを確認する。
 ランセルを除いて誰も欠けていない。それに安堵しつつ、焦慮を感じるヒミカだった。

「撤退は?」
「今からするわ」
「そう……じゃあランセル様はどうするの?」

 ヒミカの疑問にセリアは答えない。答えず、体ごとヒミカから視線を外す。

「どうする気なの?」

 苛立った声音に変わる。だが、やはりセリアは答えない。
 一方、ハリオンはヘリオンをどこかで休ませられないかを探していた。
 抱え続けていても平気だったが、負傷もあるので、可能ならどこかで安静にさせておきたかったからだ。

「ヘリオンはこちらに運んでください」

 声のほうをハリオンは向く。イオだ。イオが指すのは幌台だった。
 すでにヨーティアと他の技術者たちは乗り込んでいる。
 イオはヘリオンを見て整った眉をわずかに眉間に寄せていた。

「いいんですか〜?」
「ヨーティア様の許可も取ってあります。酷い傷を……負ったんでしょう?」
「はい……乗せてきますね〜」

 イオに礼を言ってから、ハリオンは幌台に駆け寄る。
 普段通りのヨーティアと技術者たちの驚いた顔が一斉にハリオンを向く。

「失礼します〜」
「そっち側なら空いてるよ」

 ヨーティアが場所を指示する。元は木箱が置かれていた空間だ。
 技術者たちの視線を居流すように、ハリオンは静かにヘリオンを下ろした。
 視線は穏やかに眠っているヘリオンの顔に注がれる。

「そんなにスピリットが珍しいのかい?」

 どこか刺々しい言い方をしたのはヨーティアだ。技術者たちはしどろもどろになって弁解をする。
 そのうちの一人がこんなことを言った。

「いえ、あまりに寝顔が可愛かったので……」

 ヨーティアは呆れ半分、苦笑半分といった体でその技術者を見た。
 同僚たちも一歩引いたような位置から彼を見る。

「聞いたかい、ハリオン?」
「はい〜。起きたら伝えておきますね〜」

 慌てて呼び止める声を無視してハリオンは幌台から離れていく。
 今にも白くなっていきそうな彼を見て、ヨーティアは煙草に火をつける。

「別に私は主義主張は気にしないさ。妖精趣味だってまぁ、あれも偏見の一種ではあるしね。ただ幼女趣味だって言うんなら、なんだ。諦めろ」

 ヨーティアはどこか暖かい眼差しを向ける。
 彼の発言を他の同僚がどう受け止めたのか、彼には知る由がない。
 ただ、目を合わせないようにされたのは確かだった。
 幌台の出来事などハリオンには関係なく、彼女はヒミカらのいる場所へ戻る。
 すると、すぐに怒声が聞こえてきた。
 慌てて駆け寄ったハリオンが見たのは、ヒミカがセリアの胸倉を掴んでいるところだった。それをエスペリアが割って入り、二人を引き離す。
 それでもヒミカは激昂してセリアに怒りをぶつける。

「あんた、見捨てるつもりなの!? このまま撤退だなんてふざけないでよ!」
「じゃあ訊くけど、どうしろって言うの!? 今からのこのこ出て行って、一緒に討ち取られに行くつもり!?」

 セリアもヒミカを強く言い返す。一触即発の雰囲気を漂わせて、二人は睨み合う。
 口を開いたのはヒミカだった。

「……ならいい。私はここに残る。ここに残って助け出してくる」
「そんな勝手……」
「だったらネリーも残る!」
「シアーも!」

 双子の姉妹もヒミカに賛同する。その表情は真剣そのもの。
 ヒミカは驚き、セリアは苦い顔をする。
 ウルカとファーレーン、ニムは成り行きを見守りながらも、戦闘に備え神剣の様子を確認していた。

「これなら文句な――」

 乾いた音が響き、場を支配する。
 ヒミカが呆然とした顔をしていた。いや、ヒミカだけでなくセリアも、他のスピリットたちも同じような顔をしている。ただ一人を除いて。
 エスペリアだ。彼女がヒミカの頬を叩いていた。

「落ち着きなさい、ヒミカ! 誰も見捨てたいなんて言ってません!」

 ヒミカはまじまじとエスペリアの顔を見る。どうしていいのか分からない、そんな表情をして。
 エスペリアは双子のほうへと向き直る。

「あなたたちもです。私たちだって助けられるものなら助けたいです……でも、もう……」

 エスペリアは最後まで言葉を告げない。
 告げずに唇を噛む。切れて血が出ているのにも気づかずに、噛み続ける。

「……私も速やかな撤退に賛成です。これ以上は二次被害を招くだけでしょう」

 そう言ったのはナナルゥだった。彼女は双子の後ろに立っている。
 見ようによっては、暴走を押さえようとしての位置なのかもしれない。
 シアーはそんなナナルゥを見上げる。

「おかしいよ、ナナルゥ……誰もいなくならないでって言ったのにどうして……」

 ナナルゥは答えられない。眉根を寄せて困ったような顔をするばかりだ。
 一方、ヒミカにはハリオンが近づく。

「ヒミカ……エスペリアたちの言うとおりですよ〜」
「でもここでこのまま逃げたら、またユート様たちみたいに……」

 ヒミカの言わんとすることは他のスピリットたちにも分かっていた。
 そんなヒミカにセリアは正面から目を合わせる。

「私はあの男の気持ちなんて知らない。だけど、これだけは言えるわ。もしも私が同じ立場なら助けになんか来ないで欲しい」

 ヒミカは愕然とした顔でセリアを見る。

「ヒミカはどうなの? 自分のために周りが死の危険を冒して……私は嫌よ」

 声を抑えようとして、それでも抑え切れずに。

「私だって、好きで見捨てろなんて言ってるんじゃないのよ!」

 ヒミカは結局、それ以上何も言わなかった。
 エスペリアはすぐに撤退の指示を出す。反対する者は一人もいなかった。
 ヨーティアたちを護衛しながら、スピリット隊は戦場を離脱していく。
 殿はエスペリアとセリアがそのまま務めている。
 離れながら、どちらともなく話しかけていた。

「……辛いわね」
「ユート様たちの時とも事情が違いますからね……」
「……そう?」
「……ええ。ユート様とアセリアは突然いなくなった……特にランサにいたあなたたちはそういった気持ちが少しはあるんじゃないかしら」
「……そうかも」
「だから、いなくなっても死んだとは思えない……思わないで済むようにも考えられる。ひょっこり現れるんじゃないかって」
「でも……今回は違う」
「……まだランセル様の気配を感じられるでしょう? だから、私たちは自覚しながら置いてかないといけない……」

 エスペリアは歩きながら、後ろを向く。
 砂塵が(なび)いていて、地平線の辺りははっきりと見えなかった。

「……行きましょう。せめてあの人の行動を無駄にはしたくありません」

 彼女たちが感じる『鎮定』の気配は徐々に薄れていき、そして消えていった。
 遠く離れたためなのか、所有者が力尽きたからなのかは分からない。
 いずれにしても、彼女たちはランサへの帰途につけた。










18話、了






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