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永遠のアセリア
Recordation of Suppressor


27話 闇の中の妖精














 法皇の壁を陥落させたその日。
 消耗が激しかったラキオススピリット隊は法皇の壁の内部で休息を取る運びとなった。
 法皇の壁を占領後、スピリット隊の動きは主に二つに分かれている。
 一つは怪我の治療をする者。もう一つは治療をされる者だ。
 例外的にコウインと何人かは、法皇の壁の内部を調べに行ったりもしたが。
 怪我の治療は夜の帳が落ちきった頃に、ようやく一段落した。
 負傷したものの多くは魔法では癒えきらない体力を回復させようと早くも眠りについている。
 それまで治療に奔走していた緑スピリットたちも、ほとんどが早くも寝入っていた。
 一方、起きている者たちは幾つかの場所に篝火(かがりび)を設け、それぞれ数人の見張りを立てている。
 これはサーギオス側の夜襲を警戒したためだ。
 敵は撤退したとはいえ、まとまればそれなりの数は残っているだろう。ひょっとしたら増援とも合流しているかもしれない。
 だから夜襲を警戒するのは当然だった。

「俺がサーギオスだったら間違いなく夜襲を狙うな」

 コウインがそう言ったのをよく覚えている。そのコウインは自ら不寝番を買って出ていた。
 ユートとキョウコはコウインの勧めもあって、早くから休みについている。
 もっともユートは眠れなかったのか、しばらくすると部屋から出て行くのを目撃した。
 かくいう自分もユートと似たような状態だ。
 休むよう言われて一度は当てられた部屋にいたが、どうにも落ち着かなかった。
 まだ戦闘の興奮がどこかに残っているのか、それならば休むより起きて見張りをしていようと思う。
 外に出ようと壁の内部を歩いていると、とある部屋から光が漏れ出しているのを見た。
 そちらに足を向けて、中を覗いて見るとコウインがいる。独りではなくウルカもだ。二人は椅子に座り机を挟んで向かい合っていた。
 ウルカがこちらに気づき顔を上げた。遅れてコウインもこちらを見る。

「休んでなかったのか?」
「落ち着かなくてな。コウインこそ休まないで平気なのか?」
「体力には自信がある。それ俺も不安っていえば不安だからな」

 側に近づくと、二人はサーギオスの地図を見ていたのだと判る。

「……そういえば今日は迷惑をかけた」
「迷惑? もしかして連れていく、いかないの話か?」

 そうだと言うと、コウインは苦笑を浮かべて首を横に振った。

「あいつが無事だったから気にするな。それにお前、結局助けに入ったんだってな」
「偶然だ。たまたま見える場所にいたから、それだけだ」

 コウインは笑うと、俺を手招きしながらウルカに視線を向けた。

「話を戻すけど、ウルカはリレルラエルからサレ・スニルなら何度か通ったことがあるんだな?」
「はい。地形もある程度なら把握しております」
「……そうなると部隊を二つに分けたほうがいいかもな」

 コウインの指が地図をなぞる。

「リレルラエルを占領した後、俺たちには二つの道がある。最短距離で言えばゼィギオスを目指すべきだが、サレ・スニルも無視できない。後ろから突かれるからな」

 コウインの説明に頷く。それを防ぎ同時に攻めるために部隊を二つに分けるとして、半分になった戦力で太刀打ちできるのか。
 法皇の壁の戦いで言えば、不可能ではない。苦戦は免れないが進めるはずだ。それだけの力はついていた。

「ランセル、部隊の指揮は取れるか?」
「……本気か?」
「本気だ。どうなんだ?」

 二つに分けられた部隊の片方を任せる、とでも言いたいのか。
 しかし、それなら他にもっと適任がいる。

「向かないと思うぞ。それに指揮を取るなら、エスペリアにセリア、そっちのクォーリンに任せればいいだろう」
「それはそうなんだけど、ランセルって案外やれそうに思うんだよ」
「……やめてくれ。指揮官には能力だけじゃなくて、人望みたいな信頼も必要だろ? 俺にそれはないよ」
「お前、むしろ好かれてると思うんだけど」
「だとしても指揮官としては未知数だ。そんなやつが指揮を取っても周囲を不安にさせるばかりだ」

 そこでコウインはようやく納得してくれたようだった。
 一方、ウルカは眉間に皺を寄せて何か考え込んでいる。

「何かまずいことでも言ったか?」
「……また直球だな」

 直接的すぎる、という意味か。
 確かにウルカの性格を考えると、何かまずいことを言っていてもそれを正直に答えてくれるかどうか。
 ウルカは髪をかき上げてから言った。

「……手前には隊を纏めるだけの力があったのかと」

 コウインも難しい顔で顎をさする。ウルカの過去はコウインも聞いていたが、詳しいことは知らないはずだった。
 だから、それに答えるのは俺の役目だ。

「あったに決まってるじゃないか」

 ウルカの目が驚いていた。自分でも意外に思うぐらい断定している。
 もちろん根拠があって言った。

「信頼が必要だと言っただろ。ウルカは部下から手紙を受け取っていて、あれだけの気持ちを向けてもらって信頼されてない、なんて言うつもりか?」

 今になってサーギオスのアリカがどんな気持ちでそれを綴ったのか、思い浮かべられるようになってきた。
 スピリットには持ち出すのが難しかったであろう筆記用具一式に書簡を手に入れる。
 夜になると小さな机に向かって字を書き連ねていく。あるいは事前に下書きをして、それを元に清書したのかもしれない。
 その手紙をしたためた時、あいつの側に仲間はいたのだろうか。
 一人だけの文字が答えのような気がした。

「ウルカは信頼されていたんだよ」
「……そう言っていただけると助かります」

 そう答えながらも、ウルカはまだどこか納得していないようにも見えた。もう俺から何を言っても効果はないだろう。
 それにしてもアリカ、か。
 彼女を思い出そうとすると、やはり落ち着かない。その名は俺にとって、あまりに因縁めいている。
 だからか。知っておきたいと思う。知らなければならないと思う。希望と義務の入り混じった気分になる。
 だが同時に怖くもあった。知ろうとする自分が、知った後が。
 知ってどうしたい。この心に余計な重たい荷物を背負おうというのか。
 だからいつも言葉を飲み込んだ。今この瞬間も同じように。
 ウルカに聞けば、知らないことも分かるはずだ。それでもいつも聞けない。聞きたくなかった。

「……二人とも少しいいか?」

 コウインの声が聞こえ、注意がそちらに向く。
 想念はほとんど消えていた。

「どうかしたのか?」
「気になることがあるんだ。少し聞いてくれないか」

 俺にもウルカにも断る理由はない。何よりコウインの表情には笑みがなかった。
 コウインは話を進めた。

「……秩序の壁はここにあるだろ? サーギオス城を守るために一面をぐるりと囲んで」

 コウインは地図のサーギオス城の周囲を指でなぞる。
 こちらが頷くのを確認してから話を進めた。

「じゃあ、どうして法皇の壁はこんな場所にあるんだ?」
「どうしてって……サーギオス領を守るためだろ」
「おかしくないか?」

 何がおかしいのか。分からずにコウインを見つめる。
 コウインは真面目な表情で続けた。

「法皇の壁はここ……サーギオス領の現在の外縁に当たるわけだ。つまり国境線だが、サーギオスの領土は初めからここまで進出していたんじゃないんだろ?」
「そうだな。今は周辺の小国を併合した上での領土だ」
「そこに都合よく法皇の壁があったっていうのか……?」

 それは自問にも近いようだった。

「……偶然ではないのですか?」
「そうだな。ただの偶然かもしれない。だけど、ちょっと考えてくれ。どうしてサーギオスは今現在の領土を治めてから、急に領土の拡張をやめたんだ?」
「そう言われると確かに……」

 サーギオスは法皇の壁より先に出たがらなかった、とでも言うのか。

「俺はどうして今までサーギオスが攻勢に出てこなかったのか不思議でならない。法皇の壁にいる戦力だけでも、以前の北方五国なら攻め落とせたんじゃないのか?」

 今でこそサーギオスのスピリットたちとも渡り合えている。
 しかし、それが一年前。二年前でも更に前でもいい。そういう時だったらどうだったのか?
 サーギオスが大陸の中でも最高の軍事力を有しているのは、今に始まったことではない。
 だというのに、大陸の東南部を手中に治めてからの動きは納得がいかなかった。
 攻め込む機会などいくらでもあったのに関わらず、ただ事態を傍観していただけ。そうでなくとも裏で暗躍はしていたが、そうする必要がどこにあったのか。
 ダーツィに戦力を貸与するぐらいなら、初めから攻め落とせばいい。サルドバルトを引きこむ以前にその戦力で同盟国ごと落とせばいい。そうすることは十分にできたはずだ。
 それをしなかった理由など分かるはずがない。だが確かにコウインの言う通り、おかしいとは感じた。

「……おかしいのは分かった。だが、それはどういう意味なんだ?」
「さあな。俺もそれが知りたいんだが」

 最後の最後で投げやりなことを、コウインは臆することなく言った。
 だが、すぐに真顔で言う。

「サーギオス帝国を打倒したとして、この戦争は本当に終わるのかね……」

 コウインは何か別の敵を見据えているように思えてならなかった。
 不意に心臓が強く脈打つ。忘れていたわけではないが、考えないようにしていたことが一つある。
 『鎮定』の声が聞こえなくなった日。あの時、確かに化け物に遭遇していた。
 あれは一体なんだったのか。

(この戦争は本当に終わるのかね……)

 コウインの言葉が頭の中で繰り返された。
 俺たちは何か大きな見落としをしているのかもしれない。

「余計な話を――」

 言い終える前に、神剣の気配をいくつも感じた。
 反射的に腰を低くして身構える。コウインもウルカも臨戦態勢に入っていた。

「敵襲か!」

 気配の正確な数は読み取れない。だが、少なくとも二方向から神剣の気配を感じる。
 敵の規模はまだ分からないが、少数で仕掛けてくるとは考えにくい。

「二人とも一足先に出てくれ!」

 コウインが俺とウルカを交互に見る。
 今のうちに部隊を取りまとめるためだ。
 眠っていた者たちは今頃混乱している可能性が高い。そのような状態でまともに戦えるものか。
 すぐに外へ向かう。途中で喧騒の声が響いていたが、今はそれに構っている余裕はない。
 外に出てすぐに光がないのに気づいた。唯一の光源は上空、尖ったような三日月だけだ。
 焚かれていたはずの篝火は見つけられない。消されたと考えるべきか。
 だとしたら、どこまで侵入を許している?
 この状態での単独行は危険だ。ウルカと行動しようとして、そこでようやく彼女の双眸(そうぼう)が闇の一点を向いているのに気づいた。
 暗いだけの闇で、何も見えなかった。
 だが、ウルカは確信したかのように声を放つ。闇に向かって。

「そこにいるのは分かっている。姿を現してはどうか?」

 すると闇の中から浮き出るように、スピリットたちが姿を現す。
 俺にとっては変哲もないスピリットだった。しかし、ウルカが息を呑む気配が伝わってくる。
 ウルカの表情を横目に見ると、凍りついたように固まっていた。

「ウルカ?」

 返事はない。声が聞こえていないかのように、ただただ相手から目を逸らせない。
 すると、さらにもう一人が姿を現す。そして全てを悟った。
 白い顔に緑の髪。無機質な黒い目。作り物じみた雰囲気。妖精という空人形。
 心をかき乱されそうになる。その人形は、アリカ・グリーンスピリットという名を持っていた。

「……もしかしてこいつらは」
「皆……手前の部下です」

 言葉がなかった。ウルカの胸中は察して余りある。いや、俺には想像すらできないのか。
 それでもただ一つ。残念だと本心から思えた。

「……こういう形での対峙は……望んでなかったんだがな」

 言っても詮無いのは分かっていた。
 果たして俺の言葉は届き、理解してくれているのか。
 それを願うことこそが無意味なのだと、即座に自身の考えを打ち消す。
 個々人の感情を抜きにして、こいつらとの戦いは避けられそうになかった。












 高嶺悠人は夜襲を受けた時には外に出ていた。
 休んでいたはずのエスペリアが外に出るのを見て、追ってきたからだ。
 すぐに悠人はエスペリアに追いつき、エスペリアはそれに驚いた様子を見せた。

「どうかしましたか?」
「どうかって……一人で外に出て行くから、何かあったのかなって」

 悠人の行動は純粋にエスペリアを心配してだ。
 エスペリアは慌てて謝った。それから彼女は一人で外に出た理由を告げる。

「……昔のことを思い出したんです」
「昔?」

 悠人の表情はいくらか硬くなる。
 エスペリアは過去に何かあって、それがトラウマになっているのを知っているからだ。
 ふとした時に見せるエスペリアの自己嫌悪と自信の欠如。それは彼女の陰となっていた。

「急に、としか言いようがありません。だから少し夜風に当たりたくなったんです」
「火照った体を冷ますためですか?」

 唐突に男の声が答えた。もちろん悠人の声ではない。
 だが悠人はその声を知っていた。エスペリアも知っている。違うのは二人の見せた反応だ。
 悠人は、敵意を隠そうともせずに声の方角を睨みつける。エスペリアは怯えたように手で覆った顔を背けた。

「ソーマ・ル・ソーマ!」
「覚えておいででしたか。いやはや光栄ですな」

 ソーマが姿を現す。大仰な動きで舞台前の挨拶のような一礼をする。それは実に芝居がかった動きだった。
 その両脇にはいつものようにスピリットが付き従っている。それだけでなく悠人たちの周囲も完全に包囲されていた。
 まだ姿こそ隠しているが、神剣の気配を方々から二人は感じる。
 それだけではなく、さらに遠方からも神剣の気配があった。法皇の壁には別働隊が襲撃をかけているからだ。
 悠人はすり足でエスペリアに近づきながら、ソーマを睨みつけた。ソーマの表情は薄ら笑いだった。

「初めから俺たちを狙っていたのか?」
「それは勘違いですね。元は法皇の壁に陣取るあなた方を一掃する予定でしたので。ですが、ここで出会ったのは運命、とでも言っておきましょうか。ここで出会ったのは偶然、されど運命の赤い糸が私たちを結び付けている。そうは思いませんか」
「気色の悪いことを言うな!」

 ソーマは悠人の言葉を軽く受け流し、取り合おうとはしない。彼の意識は悠人ではなくエスペリアに向けられているからだ。
 一方、エスペリアの様子を横目に見た悠人は、怒りがいくらか引いていた。
 頭に血を昇らせた状態ではいけないと気づかされたからだ。

「エスペリア、戦えそうか?」

 悠人の小声に、エスペリアは心ここにあらずといった様子で答えない。
 ついには耳を押さえてうずくまってしまう。顔は青ざめて、歯の根が噛み合っていなかった。
 以前、悠人に見せたものとはまったく違う激情だ。

「おい、エスペリア!?」
「それほどまでに私が焼きついているということです。これだけのものを残せたんですから、あの男も殺された甲斐があったでしょう」

 ソーマの話、その事実も真相も悠人は知らない。だが、そこにエスペリアの陰の中心があるのだとは察した。
 そして、それを嘲笑うがごとくのソーマに悠人は怒りを募らせていく。
 エスペリアを庇うように、悠人は前へ出る。その表情を見て、ソーマから薄ら笑いが消えた。

「そんなにスピリットが大事ですか?」
「大事に決まってるだろ。それにスピリットとか、そんなことは関係ない」
「愚かな……無知蒙昧な輩が何を言うか」

 ソーマは一言の元に吐き捨てた。その奥に込められた憎悪に悠人は気づく。
 何に向けられた憎悪かは分からなかったが、どす黒くて根が深いのは解った。

「やってしまいなさい」

 ソーマは命じる。一斉にフェアリーの包囲が縮まってきた。
 悠人は即座にソーマに向かって突撃する。エスペリアは動けない。
 だからこその行動。ソーマを狙うことで自らを囮にしようという動きだった。ソーマの口振りから、エスペリアの命が奪われることはないとの考えもある。
 それでも安心も信用もできないが、一人だけで守りきれるかも怪しかった。ならば可能性の高いほうに賭ける。
 悠人がソーマに辿り着く前に、包囲していたスピリットたちに取りつかれる。
 すぐに一人と競り合いを演じるが、それ以上の数に押し包まれた。
 『求め』の力を解放して周囲のスピリットたちを吹き飛ばしても、すぐに悠人に向かってくる。
 それは意思ある動きではない。もっと機械的な、不乱の動き。攻撃のタイミングも同時ではなく、わずかにずらされている。
 動きに惑わされ『求め』が空を切る。悠人は徐々に押し込まれていく。
 血潮が飛び散り、秒刻みで傷が増えていく。体力とマナが失われていった。
 その時、包囲の一角が崩れる。複数の神剣の気配が一瞬にして消えた。

「ユート!」

 短くも力強い呼び声。アセリアだった。
 悠人への包囲が緩み、何人かがアセリアを標的と認識する。
 後ろを見ないままに悠人は強く言う。

「アセリアはエスペリアを守ってくれ!」

 アセリアはすぐに返事をしない。悠人が危険だと解っているからだ。

「頼む!」

 アセリアは無言のまま素早く後ろに下がった。『存在』は胸の前を守るように突き出されている。
 状況は悠人とソーマ、その身辺を守るフェアリーが向かい合う形で、その後方ではアセリアとフェアリーたちが睨み合っていた。
 エスペリアは未だに自分を見失っているままだった。
 アセリアはエスペリアの様子に目もくれずに言う。

「立つんだ、エスペリア」
「……私にはできません」
「このままだとユートがやられる。エスペリアはそれでいいのか?」
「……いいわけないでしょう」
「だったら立って。今のエスペリアはおかしい」

 淡々と、アセリアは率直に言う。しかしエスペリアは首を左右に振る。

「……アセリアに戦えなかった者の気持ちが解るものですか」

 苦々しげに吐き出された言葉を、アセリアは受け止める。その上で彼女はまっすぐに問う。

「……エスペリアは何が言いたい? どうして欲しい? 私はユートの怪我を治せないから、エスペリアに助けて欲しい。私はユートを守りたい。失いたくない」

 問いかけた上で、アセリアは望みを告げる。あるのは純粋な気持ち。
 エスペリアはアセリアを見る。光を直接見た時のように目を細めて。

「私はアセリアと違って……汚れてるのよ」
「……難しい話は分からない。きれいなのか汚いのか、そんなこと知らない」

 そこでようやくアセリアはエスペリアを見た。

「でもエスペリアはエスペリアだ。違うのか?」

 アセリアの視線にエスペリアは答えられない。
 だが、その言葉を合図としたように状況に変化が起きた。
 悠人がアセリアたちの位置まで下がってくる。正確には押し戻されてきた。その証拠に、すでに満身創痍となっている。
 それに合わせてフェアリー、そしてソーマが三人に近づいてきた。
 声の届く位置まできたソーマは、これ見よがしにため息をつく。

「どうやら法皇の壁の奪還は厳しいようですな。今宵はこれまでといたしましょう」

 それから視線が順に三人を舐めるように観ていく。そして視線はエスペリアに向けられて止まる。
 エスペリアは観られていると判りつつ、絶対に視線を合わせようとはしなかった。
 それを分かっているソーマは、酷薄な笑みを張りつかせている。

「エスペリア、あなただけなのですよ。私がこれほどの時間をかけてでも手に入れたいと思ったのは。自分の手で汚してやりたいと本気で思えたのは。これも一種の愛かもしれませんねぇ。道具に愛を持てると言うならば」
「……ふざけるな。エスペリアはお前の道具なんかじゃない!」
「何を言いだすかと思えば、今更そんなことですか。ならば、あなたが間違っていると答えましょう、勇者殿」

 底冷えのするような笑みのまま、ソーマは悠人を見た。明確な敵意が現れた視線は、睨みだった。

「今まで一度たりとエスペリアや他のスピリットを自分の好きなようにしたいと思ったことはないのですか? 妄想の捌け口にしたことはないのですか? ないわけがないでしょう? 本能なのですよ、私たちがスピリットを好きにしたいと思うのは」
「そんなことは……」
「ない? 嘘はお止めなさい。私とあなたは本質的には同じ、近いのは事実なのですから」

 その言葉を聞いて悠人の心にわずかな疑念が生まれた。
 どうしてソーマが本質が同じといった物言いをしたのかと。
 だが疑念はすぐに思考の奥に押しやられ、そのまま浮かび上がることはなかった。

「それにスピリットたちも望んでいるのですよ。汚され辱められることを」

 ソーマの視線がエスペリアに移る。敵意は消えるが、代わりに侮蔑の込められた視線に変わる。

「エスペリア、本当はあなたも私を忘れられないのでしょう?」
「っ!」
「あなたは仮面で自分を隠しているに過ぎない。貞操と恐怖という偽りで、自身の本音を見ないようにしているだけに過ぎない!」

 一息。ソーマは断言した。

「エスペリア、お前は淫らな人形だ。お前は汚れきっている」

 エスペリアは体を縮こませる。それを見て、ソーマに愉悦の色が浮かぶ。
 だが、その空気もアセリアによって吹き飛ばされる。

「エスペリアへの悪口は許さない」

 声は決して大きくない。しかし断じた言葉は、強く響く。

「ユートもお前みたいに、弱くない」

 アセリアは力強く、前へと踏み出す。
 それに気圧されたわけではない。だが、ソーマはあっさりと踵を返した。
 フェアリーたちもその背中を守るように、後ろへと。そして一人また一人と闇の中へ消えていく。
 後に残ったのは、重く淀んだ停滞だった。












 爆炎を突き抜ける。そこに狙いすましたように、アリカの槍が右から突き出された。
 それを払ったところに、左手側から赤スピリットに火弾を打ち込まれる。
 攻撃を諦めて即座にその場から離脱するが、それを見越してアリカが槍による連突きで追撃をかけてきた。
 赤スピリットに無防備に身を晒さないように警戒しつつ、突きを防ぐ。
 先ほどからずっとこの調子で、いつの間にかウルカと分断されてしまっていた。
 横で戦っているのは見えるが加勢に行く余裕はない。ウルカも同様だ。むしろウルカのほうが苦戦している。
 こちらがアリカと赤の二人に対して、ウルカは黒、赤、緑と三人のスピリットを同時に相手をしていた。
 その上、少しずつ法皇の壁からも引き離されている。孤立させられてはまずい。
 防御から攻撃に転じる。槍をかい潜り前へ、前へ。
 だが、それに合わせるようにアリカも後ろに退いていく。
 左手のシールドは胸元の前に掲げられ、右手の槍はこちらの行き足を封じるように突き出され振り回される。
 簡単には踏み込ませてはくれない。

「嫌な女だな」

 悪態にも反応を見せない。初めから分かっているのに、俺は何を言っている。
 動きながらも改めてアリカの目を見る。深い黒。もはや瞳孔との境界さえ分からないぐらいに黒い瞳だ。

「お前の目の色、好きな色だったのに……」

 余計な言葉だ。これは感傷。戦いには必要のないものだとは理解している。
 しかし、そう感じる心を止めることもできない。
 不快の伴う戦いだった。だが、動きにそれは反映させないよう、強く意識する。

「……聞こえてるのか?」

 返事はない。『鎮定』とアリカの槍が互いを弾きあう。だが互いに下がらない。
 俺はアリカとの距離を詰めるために。
 刹那、赤スピリットを中心にマナが一気に収束し始める。大規模な神剣魔法を発動させるためだ。
 そんなものの直撃を受ければ、ただでは済まない。
 だが逃げようにも今度はアリカが打って出てくる。自身も神剣魔法に巻き込まれるのを前提としての動きだ。
 だからアリカは下がらなかった。俺を逃がさないために。
 つまり、どうあっても仕留めたいらしい。
 アリカでも赤スピリットでも、どちらかが俺の命を奪えばいいと考えているのか。そのためになら、こいつは自分を犠牲にしてもいいと。

(仲間のために――?)

 別れ際にアリカ本人がそう言っていたのを思い出す。敵を倒せば仲間への脅威は減る。
 そのためなら自分の命さえ捨てようと?
 次の動作が遅れる。『鎮定』を振るうのを躊躇ってしまったからだ。

(なんて失態を……!)

 アリカの槍が素早く突き出される。『鎮定』を盾代わりにするが、その上から鳩尾を突かれる。
 衝撃が体を貫く。息が止まるのを感じ、足から力が抜ける。
 槍が引き直されるのを見た。神剣魔法の発動がなくともこれでは――。

「やめろっ!」

 鋭い声。上空からだった。
 翻った影がアリカを空中から斬っている。アリカも咄嗟にシールドを上空に展開するが、それを擦り抜けた上での攻撃だ。
 『冥加』の切っ先が左肩の付け根を切り裂いていた。

「……ウルカ」

 ウルカが地に降り立つ。降り立つや否や、アリカに追撃をかける。今度はアリカも大人しく下がった。ウルカの動きには追随しきれないとの判断からか。
 合流を図るのを優先したためか、ウルカと交戦していた三人のスピリットは健在だった。
 だがいずれも遠巻き。理由は判っている。赤スピリットの神剣魔法が来るからだ。
 こっちは助けられた形になるが、結果としてアリカは離脱する機会を得て、逆にウルカが死地に飛び込んだことになる。
 だが、その状況が一瞬にして変わった。

「マナよ、静寂に沈め! サイレントフィールド!」

 瞬間、周辺のマナが急速に沈静化する。それは赤スピリットが収束していたマナとて例外ではない。

「ネリーか?」
「シアーもいるよ〜」

 二人が俺たちのすぐ横に並ぶ。
 おそらくはコウインの指図だろう。助かる。これで数は四対五なので、状況は一気に好転していた。
 加えて、マナが沈静化した状態なら赤スピリットの神剣魔法はもとより、アリカらの治癒も封じられる。
 赤スピリットの脅威が消えた上に、こちらは神剣魔法を使うよりも直接戦闘を得意としていた。
 気がかりがあるとすればウルカだが、不安視するような状態ではなさそうだ。
 一瞬とはいえ鈍った自分のほうが、よほど問題があるのかもしれない。ウルカのほうが心境としては苦しいはずなのに。
 敵のほうは赤スピリット以外の四人が前へと出る――と思った時には、音もなく襲いかかってきた。

「……またお前か」

 思わず呟く。目の敵にされたのか、アリカはまっすぐこちらに向かってくる。
 しかし、それでいいとも、どこかで思う。
 ネリーとシアーの二人には負担の重い相手だ。ウルカに取っては、今回の相手は誰でも辛いだろう。
 消去法で行けば、アリカの相手は俺が適任なのだろう。
 前へ。『鎮定』と槍が打ち合い、交差する。位置は入れ替わりつつ、すぐに俺もアリカも突きかかる。
 硬い音がそこかしこで幾重にも鳴り響く。その一撃はいずれも相手を屠るための行動、そのなれの果てか。
 攻防を続けながらも、アリカから目を逸らさない。意識を集中する。己に、アリカに。
 これはアリカの動きなのだろうか。それともアリカという妖精、その外見をした別の存在の動きなのか。
 魂を呑まれたスピリットはいつの間にか見慣れてしまっている。
 それでも、相手を形作る根幹や背景は深く考えないようにしていた。きっと、余計なことだから。

(また会うかもしれない……)

 心のどこかで少し願った。だが、それはこのような形でではない。
 だが、本当にそうだったのか?
 再会の機会があるとすれば、敵として以外にありえなかったのでは。
 今のように、殺しあうために。

「!」

 互いが打ち合い、反動で距離が開く。
 アリカの口が動く。神剣に向かい囁いていた。力が解放される。マナの輝きは淡い緑。

「……」
「来るか!」

 アリカが動く。風に押されたような一歩目は、すでに最高速に達しているようだった。
 間合いに到達されるのは一瞬。その速度、動きはさながら雷鳴のような。
 初撃を受ける。即座に続きが来た。息をつく暇もない連続攻撃。
 加速したアリカの動きを追いきれたのは途中まで。
 四度目の突きが脇を抉っていく。槍は引かれず、揺らいだ体に向けて払いが叩きつけられる。
 足が地を滑った。体勢を完全に崩し体が軋む。両足と左手で地面を掻くようにして踏み止まる。
 そこに追い撃ちがきた。見上げるようなこちらに対し、槍を下段に突き込んでくる。
 頭を狙っていたそれを、首を捻って避けようとした。
 しかし避けきれずに左の目蓋からこめかみを鋭くかすめていく。血が飛び散った。
 飛ぶように後ろに逃れる。
 目を直接やられたわけではないが、左目が血で覆われる。視界が一気に狭くなった。
 目蓋の辺りに血が集まっていくような感覚。
 アリカはさらに追ってくる。その動きは左寄りで、死角を突こうとしていた。
 守勢に回っては勝てない。
 顔を右に向けながら前へ出る。他に、何ができる。
 アリカはすでに槍を腕と共に引いていた。追う形でこちらも剣を引き、振るう。
 咄嗟に左手で首筋を守ったのが、功を奏した。
 首の代わりに左の掌を穂先が擦っていく。
 一方、アリカもハイロゥを首筋の横に展開して『鎮定』を押さえている。
 そして膠着した。
 互いに簡単に次の行動には移れない。息遣いが聞こえる。自分のとアリカのと、二人分の息遣いが。
 膠着は外からの要因で終わりを向かえた。
 神剣の気配が一つ、消えた。
 ウルカでも、ネリーとシアーでもない。ウルカ隊の誰かの気配だ。
 そしてアリカが動いた。軽く水切りのように地を蹴って、背は見せずに後ろに下がる。
 すぐに他のスピリットも下がって集結した。
 戻らないのは緑のスピリット。最後に見た時、戦っていた相手は。

「ウルカ……」

 予感は的中していた。
 ウルカの足元に緑スピリットが仰向けに倒れている。
 まだ息はある。しかし胸から腰にかけての傷は、完全に致命傷だった。
 そして魂を呑まれたアリカに蘇生(リヴァイブ)の力は使えないはずだ。
 死に逝くだけのスピリットは、虚ろな目を天に向けている。しかし、虚ろでもその瞳は呑まれたスピリットの目ではなかった。

「うぅ……あっ……」

 苦しそうに漏れる声は、緑とウルカ。そのどちらの声だったのか。
 いつの間にかネリーとシアーもウルカから目を放せなくなっていた。
 アリカたちは無表情に、しかし動かない。
 だが、その中にあってアリカはウルカを見据える。
 まるで仲間の死を悼むように、その敵を。大切なはずのウルカを敵として。
 動いた。アリカはウルカを狙って疾走する。
 そして、俺はその間に割って入っていた。
 『鎮定』を叩きつけ、強引にアリカの動きを妨害する。

「アリカ……」

 続くアリカの行動は攻撃。それはただ、ウルカを討とうとしての動きだったのか。
 俺を見ているようで、見ていなかったのが分かった。
 だが、だとすれば。
 書簡を俺に託した時、アリカはどんな気持ちをしていたのか。何を願って、何を望んで、誰のためだったのか。
 今のアリカは何を願って、何を望んで、何をしようとしているのか。
 どうして、アリカがウルカと戦う。どうして、どうして――。
 心臓が警鐘を鳴らした。知ったことか。

「アリカァァァ!」

 それよりも、許せない。
 自分で見つけた法則を無視して『鎮定』の力が発現した。
 視界と感覚が鋭敏になる。感情に吹き荒れるのは強い怒り。抑えが効かなくなっているのだと、ここに至って自覚した。

「いい加減にやめろっ! これがお前の、お前たちのしたかったことなのか、アリカ!」

 返事はない。解っている。だが言わずにはおけない。たとえ、それがどんなに理不尽でも。

「ウルカの将来を案じておいて、どうしてこんなことになる! お前は……どうして、こんなことをしてしまうんだ?」

 声は返らない。
 返答は、攻撃。アリカは半歩下がり、槍を突き出してきた。
 それを振り払う。

「なんとか……答えろ!」

 間断なく続けられる突きを避け、時に弾く。
 答える気配はない。解っているのに、答えを待とうとする自分がいた。
 だが、それも無意味だとすぐに気づく。そして強く思う。
 アリカの相手は、初めから俺しかいなかったんだ。

「……上等だ。それが答えだというなら、ここで消滅させる!」

 こんなことは、許しておけない。
 大切な相手を、大切に思っていた者が殺そうなどと。
 突き出された槍、その柄を左手で掴んで固定する。
 アリカは槍を引き戻そうとするが、動かせない。それ以上の力で俺が抑えているからだ。
 『鎮定』を掲げる。
 その時だった。初めは何かの見間違いかとも思う。だが、それは事実だった。
 アリカの頬を涙が伝っている。一瞬にして激情が静まった。
 ただ、どうしていいか分からなくなった。
 腕の力が緩んだ隙に、アリカは槍を引き抜く。だが、攻撃は来なかった。
 アリカは後ろへ下がる。残りのスピリットたちも同じように下がって、闇の向こうへと消えていく。少ししてから、撤退したのだと、ようやく気がついた。
 『鎮定』からの力が弱まり、普段の状態に戻る。
 同時に強い虚脱感と嘔吐感が現れた。立っているのが辛く、地に膝を突く。左手で胸を締めつけるように押さえる。
 それよりもウルカは。
 ウルカは自分で斬った部下を抱いていた。血で汚れた腕を、ウルカの腕が握り締めている。
 言葉はなかった。息の漏れ出す音と、鼻をすする音。
 緑のスピリットは少女のようにあどけない顔つきをしていた。
 天を見上げるその視線は変わらない。しかし口が動いていた。
 震え掠れているであろう声はこちらには聞こえない。元よりそれはウルカ以外が聞いていい言葉ではなかった。
 少女は何かを告げる。そして、少女は消えた。一陣の風に乗って、マナに還っていた。
 消えた温もりを噛み締めるように、ウルカは華奢な身を震わせる。
 ウルカが、泣いていた。










27話、了





2007年3月30日 掲載。

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