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永遠のアセリア
Recordation of Suppressor


34話 白と黒














 時はラキオスがサレ・スニルを占領した後。
 サレ・スニル周辺の情勢が安定したところで、イオ・ホワイトスピリットは本来の任に就くべく動き始めた。
 彼女に与えられた使命は剣聖ミュラー・セフィスをラキオスに登用するための交渉役である。
 ミュラーはサレ・スニルより北北東、法皇の壁を越えダスカトロン大砂漠に踏み込んだ位置にある洞穴で隠遁紛いの生活を送っているとのことだった。
 この情報をもたらしたのはクォーフォデという、ラキオスに参加したばかりの技術者だった。
 クォーフォデはミュラーと懇意にしていたため、居場所を知っていたわけである。
 イオは二つの書簡を携えていた。
 一つはクォーフォデが書いた親書で、もう一方はヨーティアの推薦状だ。
 どちらの中身もイオは確認していない。蝋を固めた封がすでにされており、その状態の書簡を検閲しようとは思わなかった。

(それにしても……)

 イオは特にヨーティアから預かった書簡を思う。
 明らかに大きくて重いのである。大きさは一般的な書簡より一回り大きく、重さもずしりと来た。それ以前に手紙だけでは説明できない膨らみがある。
 イオはヨーティアの生活能力に関しては常々懐疑的である――というより一分の信頼も寄せていない。
 しかし技術者として、そして全体像としてのヨーティアには心酔していた。
 だから中身にも幾つかの推測はあったが、確認せずに届けようと決めている。
 イオは次いで遠出のために食料や水、衣類の用意を整えた。片道だけで一週間を予定していた。
 その後、セリアの元に出向き、諸事の引継ぎや連絡を行う。出立は翌日の早朝に決まった。
 イオがいたことで、遠征の徒にありながら食事は今までより高い質を維持できた。
 これはピュリファイによって水の浄化などを訳もなく行える力によるところが大きい。
 イオは遠征の途上に三人のグリーンスピリットたちにもピュリファイを伝授してある。
 いくら環境が向上したといっても、日持ちのする乾燥食料は必需だったが。

「護衛を一人つけて頂きたいのですが」
「ええ、もちろんよ」

 イオの申し出にセリアは快く了承する。
 サレ・スニル北北東方面に敵の姿は確認されていないが、絶対にいないという証拠もなかった。
 加えてイオは訓練士として優秀だが、戦闘能力があるわけではない。セリアはそのように認識している。

「誰がいいか希望はある?」
「私にはこれと言ってありませんが……ミュラー殿は剣聖と謳われるだけの御方。それだけ剣の道に通じていらっしゃるのでしょう」
「それなら……ヘリオンかしら? 抜けてる部分は直らないけど、腕はずいぶん上達したし」

 セリアの言うようにマロリガン戦の半ばから何かに開眼したのか、ヘリオンの上達振りには目を見張るものがあった。
 ヘリオンに稽古をつけているイオにも、それが実感としてある。
 今やヘリオンの技量は大陸全土のスピリットの中でも抜きん出ているのでは、とイオは考えている。それだけの才能がヘリオンにはあった。
 もっとも、イオはそれを口にしない。ヘリオンがそう言われるにはまだ若すぎるし、何より自惚れてしまうのを危惧していた。

「そうですね、私も適任だと考えます」
「じゃあ、後で伝えておくわ」

 それから最後にイオは光陰たちの部隊と交信する。互いの状況を報告するためだ。
 それによると、光陰たちはトーン・シレタの森でサーギオスの大部隊と交戦し、これを撃破。数日中のうちにゼィギオスの攻略に取り掛かるとのことだった。
 悠人の復帰はもう少し延びそうで、ゼィギオスの攻略戦には間に合わないと判断されている。
 また合わせて、イオは別名を受けた。
 二名ほどのスピリットをできる限り早くケムセラウトに派遣して欲しいとのものだ。
 理由はイオにも伝えられなかったが、最重要で、かつ内密にと堅く指示された。
 伝え聞いたセリアも、その不明瞭な指示にいくらか困惑を見せる。

「詳細も伝えられずにね……それだけ口外されたくない理由があるのかしら」
「無意味な命令とは思えませんけどね」
「それはそうだけど、戦力を割かれていくのがどうもね。人数に余裕があるのは、むしろあっちなのに」

 ヘリオン含め三人のスピリットが一時的に離脱すると、西側の部隊にはスピリットが十二人しか残らない。
 対して、光陰率いる東側の部隊は総勢で二十人を越える上に、エトランジェが今でも二人いる。

「貧乏籤を引かされてるような気がするのよね……」

 セリアのぼやきにイオも気休めの言葉をかけるが、効果の程は定かではない。
 もっともセリアもすぐに思考を切り替えていた。

「この件はファーレーンとニムに任せましょう。あの二人なら大概の事態には対応できるでしょうから」

 二人を送る旨を伝え終えたところで、二人の話し合いは終わった。
 セリアはヘリオンにイオの護衛につくように言い、ファーレーンとニムにもケムセラウトに向かうよう指示を出す。
 イオは出立の決まった三人のために荷造りを手伝い、その日は過ぎていった。
 明けて翌日の早朝。サレ・スニル周辺は朝靄に煙っていた。
 イオとヘリオンの出発を見送るのはスピリット隊総出だ。
 なおファーレーンとニムは夜の明けない内に発っていて、こちらは可能な限り秘匿されての出立だったので見送りはなかった。
 この時に集まって、初めて二人が出立していたのを知った者も少なくない。
 見送りの人数の多さと物々しさにイオは苦笑し、ヘリオンは早速緊張している。

「それでは行って参ります」
「ええ、首尾よくいくのを祈ってるわ。ヘリオンもちゃんとイオの護衛を果たすのよ?」
「は、はい! 何があってもイオさんは守ってみせます!」
「ヘリオーン、もっと肩の力を抜いてクールにいかないと。クールクール!」
「クールッ!」

 ネリーに合わせてヘリオンが叫ぶ。それはネリーの意識するクールとは真逆だが、当の二人は満足しあっていたようなので、誰も触れないことで暗黙の一致となった。

「……とにかく。それではまた、お互い無事に会いましょう」

 その言葉を残して、イオとヘリオンは歩き始めていった。
 二人の後ろ姿をしばらく見送ってから、おもむろにセリアが一同を振り返る。

「私たちも私たちのやるべきことをしましょう」
「それなら、まずは朝食ですね〜」

 ハリオンののんびりとした声が、一同の笑顔を誘った。












 イオたちがサレ・スニルを発って四日目の正午過ぎ。
 二人は予定よりも早くミュラー・セフィスがいるはずの山に到着していた。
 山といっても、緑はほとんど見当たらない切り立った岩山だ。
 人どころかおおよその生物が生きるのに適した環境とは考えにくかった。
 見るからに山肌は硬く鋭く、長年の間に風雨に晒されてきたのか荒々しかった。
 それほどの高山ではないが、峻険と呼ぶには十分すぎる。

「イオさん、飛んで探したほうが早いと思います」

 そう言うヘリオンはすでにハイロゥを翼へと代えていた。

「そうみたいですね。お願いします」

 ヘリオンはイオの腰を取ると、ゆっくりと羽ばたいていった。
 山肌に沿うようにヘリオンは飛び上がっていき、二人は岩山に目を凝らしていく。
 中腹付近にたどり着いた頃に、小さな台地のような場所があるのを見つけた。その台地の上には、遠目では分からないが何かが林立している。

「あれは……近づいてください」
「任せてください!」

 ヘリオンが加速し、台地へ急速に近づいていく。
 見える物がはっきりしてくるに連れて、二人は息を呑んだ。
 イオは台地に広がる物に注意を取られていた。
 いつの間にかヘリオンも進むのを止めて、そちらを注視している。

「この山の洞穴とのことでしたが……これはなかなか」
「洞穴っていうか……遺跡って言うんじゃないですか、これ?」
「そのようですね……聖ヨト歴以前、それにしても古い……もしかすると千年以上昔の都市だったのかもしれません」
「千年!?」
「それ以上に古いかもしれません……とにかく降りてみましょう」

 二人は遺跡の端に降り立った。
 その街並みはすでに死んで久しい。いつから命が絶えたのか二人には判らないが、途方もなく長い時間が立っているのだけは疑いようがない。
 砂埃に塗れ、風雨により削り取られ。それでもなお、原形だけは留めている。
 あるいは、それは墓標なのかもしれない。誰のための墓標か、それを知る由はないが。

「ほえー……こんな場所があったんですねぇ……」

 ヘリオンはしきりに感心したように、その廃墟を眺めていた。
 一方のイオは降り立ってからというもの一言も口を聞いていないが、ヘリオンがそれを不審に思うことはない。
 イオは、ゆっくりと息を吸い込んで、深く吐き出していった。
 彼女の心の奥底に訴えかけてくる趣が、その廃墟にはある。それは単なる気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれなかった。
 イオにも、それが判然としない。ただ、そのような気持ちになったのは初めてだった。

「こんな場所に来客とは珍しい」

 不意に、二人の耳に声が届いた。振り向いた先には、いつからいたのか女性が立っている。
 褐色の肌に繊維の硬そうな銀髪をしていて、頭の左右からは一際太い髪が動物の耳のように垂れている。
 両腕は完全に包帯で覆われていて、左手には杖が握られていた。
 外套を纏っていて、その下の着衣、腰のバックルと全てが黒かそれに近い濃紺色だ。
 着衣の胸元から臍の辺りまでは縦に開けていて、そこだけ妙に露出が高い。
 両腕を包帯で覆っていることも考えて、イオには少し奇異にも映った。
 しかし、外見で最も奇異だったのは服装ではないだろう。
 ミュラー・セフィスの齢は不詳である。しかし、決して若くないのは確かだった。
 四十とも五十とも言われ、中にはそれ以上との説がある。
 だが、それらの説に一貫して共通している点がある。外見は二十代にしか見えないということ――。
 その女性は二十代半ばにしか見えなかった。

「……あなたが剣聖ミュラー・セフィス様ですか?」
「その肩書きは世間が勝手につけたものだけどね。それで君たちは何者だい? そっちが名前を知っていて、私が知らないのは不公平だろう?」
「私は……イオ・ホワイトスピリットです。今は故あって主とともにラキオス王国に身を寄せています。こちらがヘリオン・ブラックスピリット。ラキオススピリット隊に所属しています」
「なるほど、ラキオスか。まずは遠路遙々(はるばる)よく来た、と言っておくよ」

 ミュラーは落ち着いた物腰ではあるが、油断なくイオとヘリオンを観ている。

「ここまで私を訪ねに来たからには何か用があってのことなんだろうね?」
「はい。ミュラー様にラキオスの訓練士として働いてもらいたいのです」
「なるほど。それで君、イオが私との交渉役で、ヘリオンが君の護衛といったところかな?」
「ご明察の通りです」
「……ふむ。今のラキオスの国王といえば、レスティーナ王女だったね。若き名君か……興味はあるけど」
「……詳しいですね」

 こんな場所で暮らしているのに、とはイオも言わない。

「こんな僻地でも、ある程度の情報は集めるようにしているからね。まあ、情報の鮮度が古いのは仕方のないことだよ」

 ミュラーは苦笑してから、目を伏せる。
 どうやら考え込んでいるようだとイオは判断した。

「こちらに我が主と……クォーフォデ様の親書があります」
「クォーフォデ? へえ、ラキオスに協力するか……いいだろう、見せてくれ」

 イオはミュラーに近づいて、クォーフォデの書簡から手渡す。
 近くで見たことで、イオはミュラーの銀髪の先端が紅くなっているのに気づいた。
 イオは、強烈な違和感を覚える。イオはその感覚を表情に出さないよう、努めて殺した。
 ミュラーは書簡から親書を取り出すと、それを眺めていく。瞳が時々揺れている。

「なるほど。君の主人からの親書も見せてくれないかな?」
「こちらが我が主からの書簡です」

 以前レスティーナに宛てた書簡には頭が三つの蛇、すなわちサーギオスの紋章が刻まれていたが、今は龍をあしらった紋章、つまりラキオスの紋章が彫り込まれた書簡だった。
 ミュラーはそれを受け取り、重さと膨らみに気づいたのだろう。書簡をまじまじと見つめた。
 すぐにミュラーは封を破る。親書だけを取り出し一目見て、ミュラーは突然愉快そうに笑い出した。

「君のご主人はあのヨーティア殿だったのか。聞いていた以上に面白そうな人だね」

 ミュラーはイオにヨーティアの書簡を見せる。
 手短に記された文章がそこにあった。


 剣聖と謳われる貴殿と酒を酌み交わしたいと所望す。
 同封のアカスク、ないしそれ以上の上物を持ちてラキオスに来られたし。
 世紀の大天才、ヨーティア・リカリオン。


「主が無礼を……」

 イオは仏頂面だったが、ミュラーは心底面白そうに笑っている。
 呼び方にだけは敬意を払っているようで、中身は命令と大差ない。加えて、自身の枕詞にライバル意識が見て取れた。
 ラキオスに戻ったら、ヨーティアへの説教を行わなくては、とイオは心に秘めた。

「いやいや、今まで色々な人間を見てきたけど、実に面白そうだ。それにクォーフォデたっての願いもある。この話を受けさせてもらうよ」
「よろしいのですか?」
「まあね。それに私もこの世界がどこに向かうのか、見ておきたい気持ちもある」

 ミュラーは理由を答えてから、イオとヘリオンに言った。

「荷造りも必要だし、これから家に来ないかい? もてなす物もあまりないけど、せっかくの来客だ。それに今から山を下っても途中で夜になってしまうからね」
「……それでは、お言葉に甘えさせてもらいます」
「存分に甘えて構わないよ。ついておいで」

 ミュラーは背を向けて歩き出す。
 イオとヘリオンは顔を見合わせ頷き合ってから、ミュラーの後を追った。
 ミュラーの歩は早い。杖を突いてはいるが、体の動きに不自由な点は見られなかった。
 ヘリオンがミュラーの後ろ姿を見ながら、小声でイオに話しかける。

「……隙がまるで見当たらないです」

 イオも小さく頷く。隙がない上に、背を向けられているのに見られているような気分になる。
 内心で敵に回してはいけない、とイオは確信した。
 しばらく歩いていくとミュラーが立ち止まる。
 その前には暗い穴がぽっかりと口を開けたように広がっていた。

「ここが私の家……と呼んでいいのか迷うけど、とにかく家だよ」

 イオはヨーティアと住んでいた研究室も、こんな洞穴だったと思い返す。
 身を隠すには適していても、決して暮らしやすいとは思っていなかった。そんなイオの考えも知らず、ヘリオンが言う。

「あの、立派な家ですね!」
「ありがとう。そんな風に言われたのは初めてだけどね」

 ミュラーは苦笑いを浮かべていた。失言に気づいてヘリオンは顔を赤らめる。
 もっともミュラーが気分を害したようには見えなかった。少なくともイオには。

「とりあえず、入ろうか」

 ミュラーが先頭を歩き出す。イオとヘリオンはいくらかの躊躇いを残しつつ、洞穴の奥へと入っていく。
 元々の位置が高地だったが、洞穴の中は特にひんやりとしていた。
 天井や壁にはミュラーが用意したのだろう、ランプがあるのでそれほど暗くはない。
 道は一本道で、歩いてすぐに道が二つに分かれていた。

「この先はそれぞれ空洞になっていてね。右を私の部屋として利用している」
「では左は?」
「弟子が使っていた」

 ミュラーは詳しく語らないままに進んでいくので、二人もそれ以上は聞けなかった。
 右の空洞では円を描くように家具が並べられている。壁面に沿っているためだ。
 空洞の中央より少し奥まった場所にテーブルが置かれている。椅子は二つだけだ。

「とりあえず楽にしてくれていいよ」

 ミュラーは二人に席を勧め、その上で自分はベッドの上に腰かけた。
 自然と三人は話し始める。
 ラキオスに関する話題が中心で、世俗的なことから習慣、流行の話もすれば、スピリット隊の話にも及んだ。
 二人にとって以外だったのは、ミュラーの知識が豊富で視野も幅広いことだ。観点も的確で鋭い。
 それもあったせいか、ヘリオンは話題についていけない部分が所々あったようだが。
 そのヘリオンだが、こんなことを聞いた。

「あの、ミュラー様は外の建物で暮らそうとは考えなかったんですか? この洞窟より暮らしやすそうな気がするんですけど」
「うん、私も何度かそう思って調べてみたんだけどね。老朽化が酷くて天井や床がいつ崩れるか分からないし、幽霊が出そうで気味が悪いだろう?」
「幽霊はちょっとわくわくしますけどねー」

 と、ヘリオンは笑顔で言ってのける。本気でそう思っていた。

「……君は変わっているようだね」

 ミュラーも笑い返す。
 そうして時間が過ぎていく。ミュラーは荷造りも終え、ラキオスに関する話もある程度聞けたことで満足しているようだ。
 この日はイオとヘリオンもミュラーの洞穴で夜を過ごす運びとなった。












 真夜中になって、イオは床を抜け出して一人で洞穴の外に出た。足はそのまま廃墟に向かう。
 虫の鳴き声一つとして聞こえない。静まり返った廃墟は確かに薄気味悪かった。
 もしも幽霊と言う存在があるならば、出くわしてもおかしくない。そう思われるぐらいには。
 呼気は白く流れていく。冷え込んでいるが、イオは身震い一つしなかった。
 イオは朽ちた街並みを遠望する。何故か、見たかった。その気持ちが湧き上がる理由は、やはりイオにも解らない。

「ミライド遺跡か」
「っ!」

 イオは飛び退き、振り返る。その右手には、いつの間にか『理想』が握られていた。

「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ。一人で出て行くのが見えたから気になってね」

 そう答えたのはミュラーだ。相手の正体に気づき、イオもゆっくりと警戒を解いた。

「杖か、君の神剣は。永遠神剣というと、どうしても純粋な剣としての形状を思い浮かべてしまいがちだけど、杖は初めて見たな」
「『理想』は些か特殊のようですから……」

 イオも『理想』と同じ杖型の永遠神剣を他に知らない。
 それ故、特殊と感じるのも無理はないだろう。

「ミュラー様……ミライド遺跡とは?」
「あの廃墟の呼び名さ。誰がそう名づけたのか知らないけど、私がここに来た頃からすでにこの名はあった」

 ミュラーもミライド遺跡に目を向ける。

「歴史学の見地で言えば宝の山かもしれないけど、過去を掘り返すことが幸せとは限らないだろうね」
「そう……かもしれませんね」

 イオは曖昧に答える。過去の話はイオにとって苦手に属する話だった。

「……過去は大切だと思います。でも私たちが生きているのは今であり、未来なのでしょう」
「そうだね。その未来を知るためにも過去から学ぶのだろうけど」

 イオは、自分のためにため息をついた。

「ヘリオンたちが……みんなが戦うのは今であり未来のためなのでしょう。彼女たちに剣や力の使い方を教えるのは、そのために必要なことでしょう」
「そう。間違えてないと思うよ」
「ですが、時々考えるんです。ならば私自身はどうして戦わないのかと。どうして彼女たちと同じ場所に立たないのかと」

 スピリットが戦うための道具、という観念はイオにはない。主のヨーティアがその考え方そのものに批判的だからだ。
 しかしイオはスピリットに高い戦闘能力があるのは、少なくとも現実として認めている。その中に自身が含まれているのも。

「イオは戦いたいのかい?」
「……分かりません。何とかしたいという気持ちはあります。でも、それが戦うことに結びつかない……いえ」

 言葉を切り、イオは目を伏せる。

「本当は戦うことが、『理想』の力をそのために使うのが怖いのです」

 イオがそんな話をしたのは、ヨーティア以外では初めてだった。

「イオの感じ方は、私は大切だと思うけどね」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。力を使うのは敵だけじゃなくて、自分や自分の周囲さえ傷つけかねないんだ。それを怖がるイオの感性は間違えてないさ」

 ミュラーは慰めるように微笑む。
 そして、その微笑みを消しつつ断じる。

「でも迷っているようなら戦場には出ないほうがいい。そして悪いけど、私ではイオに戦うための理由は教えてあげられない」

 ミュラーの口から白い息が棚引く煙のように後ろへと流れていく。

「私は誰かに力は与えられるかもしれないけど、戦う理由は与えられない。理由は自分で見つけるから、意味があるんじゃないのかな?」

 その過程で人の話を聴いたり、誰かに教えを請うのも間違いじゃないだろう、とミュラーは締めくくる。

「剣聖といっても、そんなものさ。悩める者一人を救うことさえ難しい」

 自虐とも取れる言葉だが、ミュラーはさながら軽口のように言う。

「夜風の当たりすぎは体に毒だから、早く休んだほうがいいよ」

 そう言い残して、ミュラーは静かにその場を去っていく。イオは何も言わずに、その背を見送った。
 後ろ姿が完全に見えなくなったところで、イオはミライド遺跡に目を向ける。
 過去から連綿と続く名残、そんなものがそこにはあった。

「私は……『理想』……あなたは私の気持ちをどう思うの?」

 『理想』はイオの問いかけに何も答えなかった。












 払暁。まだ日が昇りきらないうちから、ヘリオンはミュラーの師事を受けていた。
 前日の内に取りつけた約束で、当初ヘリオンは頼み込んででも稽古をつけてもらうつもりだったが、頼み込むまでもなく快諾されている。
 ミュラーはその日の深夜にも起きていたのに、疲労の陰はまったく窺えなかった。
 そうして日が完全に昇りきり朝食の時間を迎えるまで、ヘリオンはみっちりとしごかれた。
 特にミュラーとの組み手は発見も多い一方で、ヘリオンの積み重ねてきた自信もついでに打ち砕いている。
 神剣の加護を受けないなど同じに近づけた条件下で、ミュラーには指一本触れられない有様だった。
 三人が山を下るのは昼食を取ってからに決まり、それまでヘリオンとミュラーは訓練を続けている。
 朝食を終えても、ヘリオンはまだ悄然としていた。
 さすがに見かねたのか、ミュラーがヘリオンに話しかける。

「そう気に病まないほうがいいよ。今回は私が勝てただけで、ヘリオンの太刀筋は鋭かったし何度も危ない場面はあったんだから」
「気休めはいいです……」
「じゃあ、そのまま腐ってるかい?」

 言われて、ヘリオンは慌てて頭を振った。
 その様子にミュラーは笑みを零す。

「そう、その調子だ。一度失敗したぐらいで沈んでるようじゃいけないよ」

 ミュラーはヘリオンから距離を取る。

「まだ時間があるから、続きをやろうか?」
「はい、お願いします!」

 ヘリオンは力強く応じた。
 今一度訓練が開始される。ヘリオンにとっては実りの多い訓練だったが、始終ミュラーに圧倒されていたのは変わらない。
 訓練中の休憩の合間に、ヘリオンは思い切ってあることを尋ねる。
 ミュラーはその問いに意外そうな顔をしたが、話をしっかりと聞いた。
 ヘリオンは包み隠さず本心を話し、ミュラーは黙って最後まで聞く。聞き終えた後、是非には触れずに答えも示さない。
 代わりに別のことを頼んだ。

「イオを呼んできてくれないか?」

 ヘリオンはいくらか不審そうな顔をしたが、何かしらの考えがあると判断して言う通りにする。
 そうしてイオがやってきた。ミュラーは二人に向けて言う。

「これから二人で組み手をしてもらいたい」

 と、ミュラーは切り出した。
 戸惑う二人だったが、ミュラーは気にせず二人に立つ位置を指定する。
 彼女の真意は分からなかったが、何か意味があると察して、二人はすぐに言われた通りにする。彼我の距離は十歩ほど。
 ミュラーは杖の先端で地面に線を引いていく。線は三本で測ったように等間隔に離れ、どの線もヘリオンの後ろにある。
 手前の線はヘリオンから約三歩ほど離れ、一番奥の線だと十歩ほどとイオは目測した。
 次いで、ミュラーはヘリオンの耳に手を当て何事かを囁く。イオにはその声が聞こえなかった。

「……今のはなんですか?」
「ちょっとした助言さ。これぐらいは構わないだろう?」

 ミュラーも二人の実力は前もって把握している。
 釣り合いを取る意味もあるのだろうとイオは判断したが、助言一つでそこまで変わるものか、ともイオは疑念に思う。
 しかし、その考えもすぐに捨てた。
 ヘリオンの技量は今や油断していたら負けるところまで伸びている。ミュラーの助言の有無に関係なく、手を抜ける相手ではなくなっていた。
 それでもまだ負ける相手ではない、という思いもイオにはある。
 イオはその考えをすぐに自戒して、ヘリオンに向き合う。
 『理想』を右手に呼び寄せるが、加護は受けられない。訓練でも『理想』はほとんど加護といった形の力は与えてくれなかった。

「勝負は一本先取。判定は私が取る……逆に言えば、私が判定を取らない限り終わらないから、注意するように」

 両者が頷くのを確認して、ミュラーは静かに、しかしはっきりと告げる。

「はじめ」

 合図があっても、両者はすぐには動かない。
 イオは『理想』を斜に構えて出方を窺っていた。ヘリオンは『失望』を鞘から抜き青眼に構える。握りは諸手。
 先制したのはヘリオン。姿勢を低く下げながら、小走りに踏み込んでくる。
 ヘリオンの動きは直線的すぎる嫌いがある。生来の身軽さに加えて、翼による加速があるからだろう。
 しかし、同じ黒スピリットでもウルカとファーレーンの動きはもっと横や縦と曲線的な動きをしてくる。それは技術だ。
 確かにヘリオンの剣技は著しく上達している。しかし、それを生かす戦い方、殺さない戦い方はまだまだ未熟だった。
 特に、自ら打って出る場合は。
 イオは一歩踏み込みながら『理想』を振り抜く。その軌道は的確に飛び込もうとするヘリオンを捉えていた。

「っ!」

 ヘリオンは『失望』を倒して『理想』の先端を辛くも受ける。しかしイオの切り返しも速い。
 右肘を回すようにして『理想』を下から顎めがけて振り上げた。
 ヘリオンは機敏に体を後ろに下げて避ける。空気を巻いて『理想』が掠めていく。
 それを機にイオは一気に攻撃に転じる。間合いを詰めつつ、『理想』を縦横に振るう。
 ヘリオンはそれをいなしながら、攻撃の合間を縫って『失望』を繰り出そうとするが、ことごとくが防がれていく。
 そうしている間に、ヘリオンは二本目の線を踏み越えていた。

(あの線にどのような意味が?)

 イオは疑問に思うが、答えは出せそうにない。そしてヘリオンに未だ有効打を与えられずにいた。
 彼女の上達振りをつくづくと実感する。だが感心してばかりもいられない。
 イオは連撃を繰り出していく。その動作は流れるようにゆったりしているのに、付け入る隙がない。
 無理に突きかかろうものなら易々とかわされ、無防備になったところを狙われるに違いなかった。
 だからヘリオンも防戦に徹しざるを得ない。じりじりと後退していき、最後の線が間近になる。
 その最後の線を前にして、ヘリオンの気配が変わった。表情も鬼気迫るものに変わる。
 ヘリオンが一挙に前へ出た。イオの攻撃を避けようとしつつ、同時に攻撃へ移る。
 『失望』が伸び、『理想』の軌道が切り替わり――勝負が決した。
 『理想』がヘリオンの肩を掠めたのに対し、『失望』はイオの胸の下に押し当てられている。

「それまで」

 中止の合図がかかる。二人はゆっくりと離れていき、軽く一礼を交わした。

「結果はヘリオンの勝ちだね……大したものだよ。実力で言えば、イオのほうが上だろうからね」
「そうですよね、私もそう思います」

 ヘリオンはどこか浮かないような顔をしていた。
 実際の力量はヘリオンにも判っているからか。

「神剣の力も加味していけば、二人の差は自ずと出てしまうだろう。だとしてもヘリオンが勝利を引き寄せた。それも事実だ。不思議なもので気持ちや想いというのは、勝利を手繰り寄せる要因になりえるんだ。これは随分うまくいったけど」

 ミュラーはイオの目を見る。

「組み手の前にヘリオンに言ったのは、もしも最後の線を越えたら大切なものに危害が及ぶぐらいに押されている、と言ったことなんだ。ヘリオンが何を思い浮かべたかはともかくとして、もちろんこれは訓練だ。実際とは違う。だけどヘリオンは実戦のつもりで望んだ……少なくともそれに近かった。最後の攻撃はね」

 戦うとは、こういうことだよ。ミュラーはそう言う。
 次いで、ミュラーはヘリオンへ視線を向ける。

「ヘリオン、さっき君に訊かれたことに対する私の意見を言っておくよ」
「……剣を振る理由ですね?」
「そう。君は私に剣を振る理由を訊いてきた。それと君自身も剣を振っていいのか、とも訊いてきた」

 ヘリオンは頷く。イオは二人のやり取りを黙って見ていることにした。

「私が剣を振ったのは……戦うためでした。それがスピリットの役目だから、そう教えられて……初めは無我夢中でとにかく振ってました。振り方は『失望』が少しは教えてくれましたし、とにかく振ってたんですね」

 ヘリオンは目を伏せる。記憶を辿っているようだった。

「その内にみんなと知り合って、ユート様もやってきて……足を引っ張らないようにまた剣を振ったんです。私がみんなより弱いのは知っていましたから。その頃からです、剣を振るのが楽しくなってきたのは」
「確認しておくけど、戦うことじゃなくて剣を振ることが、だね?」
「はい。楽しいとはまた違うのかもしれませんけど……でも、私にはそれが少しずつ大切になってきたんですけど。大切に」

 ヘリオンはそこで言葉を切った。息を二度三度と吸っては吐く。

「でも……剣を振るのは敵を倒すためなんですよね。剣を振るのが誰かを傷つけたり殺すためのものなら……私は剣を振っていいんですか……?」

 ミュラーは腕を組んで考えるような仕種を見せた。
 是非に問わず、ヘリオンは戦場で剣を振らなければならない。それを知った上でのヘリオンの疑問である。
 ミュラーは口を開いた。

「剣の世界では『活人剣』と『殺人剣』という、二つの見方がある。そして、この二つは技術面と観念の、それぞれ違う定義があるんだ」

 この場合は観念の話になるかな、とミュラーは付け加えてからヘリオンに訊く。

「いきなりだけどヘリオンは、言葉の響きではどちらが正しく聞こえる?」
「え……それはやっぱり活人剣じゃないですか?」
「じゃあ殺人剣は?」
「……やっぱり良くないんじゃないですか? 殺す剣なんですよね?」
「でも、どちらも剣であって斬るのは同じだとしたら? どちらも斬っているのは同じなのに、どうして片方はいいのかな?」

 思考が堂々巡りしてるのか、ヘリオンは答えられない。
 今にも目を回し頭から白煙を噴き出すのではないか、とそんな空想が思い浮かぶぐらいにヘリオンは混乱しだした。

「すまない、私の言い方が意地悪だったね。どちらも……同じなんだ。斬るという点だけでなく、その理由でも二つは似ているんだ」

 ミュラーは二つの意味を話し始めた。
 殺人剣というのは、悪や障害を除くために振るわれる剣で、それによって悪や障害に打ち勝つための剣である。
 活人剣は、その悪や障害を斬る……殺すことで、多くのものを救うための剣だと。

「つまり活人剣あっての殺人剣で、殺人剣あっての活人剣なんだ。二つはほとんど同じと考えてもいいかもしれない」

 ヘリオンは真剣に耳を傾けていた。
 ミュラーは少し待ち、ヘリオンが完全に話を飲み込んだと判断してから、彼女なりの意見を告げる。

「だからヘリオン。君が剣を振るう理由に拠るんだ。もしも君の剣がどちらにも当てはまらないなら、君は剣を振らないほうがいいだろうね」

 もっとも、とミュラーは思案するように続ける。

「イオには言ったけど、私は答えや理由を誰かに与えられない。だから君が自分の剣をどう使うかは、君自身で答えを出さないといけない。そして、私が言ったことが正しいかどうか、それも君が考えるんだ」
「……分かりました。それなら私は……見つけてみます。答えはいつか見つかりそうな気がするので」
「ああ」

 ミュラーは満足げに頷く。
 イオはどうしてヘリオンと組み手をさせられ、この話を聞かされたのか得心がいったような気がした。
 イオにもヘリオンにも、必要なことだったからだ。

「そういえばミュラー様。活人剣と殺人剣の技術としての違いは何でしょうか?」
「活人剣は相手の動きに応じて戦うことだよ。後の先とも言うかな。ヘリオンみたいな黒スピリットは相手の攻撃を逆に足がかりにして突破口を開くこともあるだろう? 要はあれだよ」
「はあ、なるほど……」
「殺人剣は逆に自分から積極的にしかけて、相手に得意な戦い方をさせないこと。青スピリットなんかはこの傾向が強いはずだよ」

 ヘリオンは力強く何度も頷いた。どうやら納得したらしい。

「これから先は君たちの問題だ。助言ぐらいはできるかもしれないけど、私も完璧じゃないからね。せめて君たちの理由が見つかればいいと思うよ」

 そう言いミュラーは微笑む。彼女の内面でも、いつの間にか彼女たちやまだ見ぬスピリットたちの答えを見届けたいという気持ちが強くなっていた。

「……生きることは求道なのかもしれませんね」

 イオが呟いた。気がついてしまえば簡単だったのかもしれない。イオはそんな風に思った。










34話、了





2007年5月9日 掲載。

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