永遠のアセリア 1
Recordation of Suppressor
5話 雨の下で
2
深い陰影のある暗さと白い明るさの入り混じった雲が空一面を覆っている。
相反する色合いの融合は、世界から時間という概念を奪い去ってしまったようだった。
現に日中だというのに、日差しは隠れて本来の時間とは不釣合いな様相になっている。
雲の色はそのまま世界の色を表すように、見える景色という景色がどこも色褪せて沈んでいた。
そして幕を引くような音を立てながら、雨が落ちていく。豪雨とは呼べないが、決して小雨ではない。
ユートが木陰での休憩を命じたのは雨が降り出してすぐだ。
スピリットたちは思い思いの場所で雨宿りを始めるが、目の届く範囲に留まるようにしていた。
現在地はラキオス領パートバルトとサルドバルト王都の中間地点に当たる街道。
パートバルトは元々サルドバルト領であったが、3日前にラキオス軍の手により陥落している。
すでにサルドバルトは元からあった領土のほぼ半分をラキオス王国に切り取られ、おそらくあと数日も経たないうちに、この世界からサルドバルト王国は消滅するだろう。
イースペリア王国がそうであったように。
(滅ぼされ、今度は滅ぼす立場か)
といっても感慨はほとんどない。たとえ相手がイースペリアを裏切ったサルドバルトだとしても。
もしも、サルドバルトが本当の意味でのアズマリア女王の敵なら、この心境も違ったのかもしれない。
……結局、誰が彼女を殺めたのかは謎のままだ。
「ここまでは順調に進めたけど……」
いつからいたのか、ユートが俺の顔を横から窺っていた。かすかに緊張したような面持ちで。
戸惑いを含んだような声は、問いかけだった。考えてみれば、ユートに面と向かって話したのは一度きりしかない。
それも、あの互いに口に出しにくいであろう、リュケイレムの森での戦闘後のみ。
「……そうだな」
ユートに頷いてみせる。未だに関係がしっくりしないのは、不可抗力に近いのかもしれなかった。
だからといって本当に恨みなどの悪感情がないなら、現状のままでいいはずもない。
ユートも同じように考えているのかもしれなかった。だからこそ、彼は自分から話しかけてきたのかもしれない。
「サルドバルトの残存戦力も少ないだろうからな。逆に言えば王都の防衛に集中してるかもしれないが」
街道の先にあるはずのサルドバルト王都を見る。雨のせいで靄がかっているので、建物の影も形も見えない。
サルドバルトの土地は短い距離でも活性、沈静してるマナの種類が大きく入れ替わる。
そのため環境は不安定で、天候にまで影響を及ぼしているようだった。
山の天気は変わりやすいが、サルドバルトに限定して言えば平地でも似たような状態だ。
「行ってみないことには分からないな」
ユートも街道の先に目を向けていた。遠くを見通すような目は力強い。その立ち姿はなかなか堂に入っていた。
時々、雨垂れが落ちて服に小さな染みを作っていく。それでも雨中行軍を敢行していれば、こうも行くまい。
「ユート、どうして部隊の進行を止めて休憩に入ったんだ?」
「この雨じゃ余計に体力は奪われるし、視界だって悪いから奇襲を受けるかもしれないでしょう。それとも休まずに前進したほうが良いと?」
ユートは不信を隠そうともしないで、こちらを見る。
「気を悪くしないでくれ。ただ、こういうのは珍しいんだ……スピリットに配慮した指揮は」
人間の指揮官だと、スピリットの消耗には気を遣わない場合がほとんどだ。
戦うのは、味方も敵もスピリットだけ。だから彼らは消耗も何も気にすることはない。
ユートの命令はこの世界の常道には反していたが、至極真っ当な命令だった。
「……俺から見れば人間もスピリットも変わりませんよ。むしろスピリットのほうがここの人間より、よっぽどいい奴らですよ」
ユートは顔を顰める。詳しい事情は知らないが、彼のこの世界の人間に対する印象はかなり悪い。
「確かに人のほうが、よほど問題ありだ」
どこの国に行っても共通認識のようにスピリットへの差別がある。
それはイースペリアでもそうだ。だがイースペリアとラキオスは他の国に比べれば良いほうだった。
それが些細な程度の差であっても。
「……だけどスピリットにだって平等であろうと考える人たちだっている」
「へぇ」
「レスティーナ王女もそうだ……なんだ、その意外そうな顔は?」
「あのレスティーナが? そうは見えないけど……」
ユートは本気で頭を抱え込んでしまった。そこまで悩むことか?
「ユート、お前はレスティーナ王女にどういう印象を抱いてるんだ?」
「印象と言われても……鉄面皮な冷血女で、美人だとは思うけど気位はいかにもって感じで、それから佳織を……」
カオリという単語が出てから、ユートの表情が今までになく険しくなる。
「ユート、お前がどう思っているかは知らないが、王女はそんなに非情な人でもないだろう」
ユートはまだ無言で考えているようだった。思い当たる節はあるのだろう。ただ、それを素直には信じられないのかもしれない。
考えてみれば、ユートが戦う理由もカオリが誰なのかも知らない。
知らないが、それでいい。こういう話は迂闊に触れるべきじゃない。知る必要があるなら、いずれ分かるだろう。
「……そうだとしても今の俺には信じられないですよ」
「なら信じなければいい。自分の目で確かめたものを信じればいいんだ」
ユートがこちらを覗き見るのが分かったが、何気なく顔を逸らしてしまう。
理由はよく分からない。強いて言えば理由などないのかも。
だから続いて口にした言葉も、特に深い理由なんてなかった。
「サルドバルトか……あまり長居はしたくない国だ」
「それはどうして?」
「元々、この国はそんな好きじゃないんだ……国全体が沈んでるみたいで」
辛気臭い、とでも言えばいいのか。国民からして内に塞ぎこんでいるようで、どこか暗く陰湿な部分がある。
全員が全員そうでないにせよ、傾向としては間違えていなかった。マナの量が少ない貧しい国だから国民にも希望が持てないせいか。
「来るのは初めてじゃないんですか?」
「何年か前だが一度だけ。まだ龍の魂同盟が成立してる頃だ」
そこまで言って、同盟が破棄されたのはつい最近であるのを思い出す。
昔の出来事のように感じるのは良い傾向なのか、悪い傾向なのか。
そして気づく。自分にとって女王の死と国の滅亡は同列に扱われていないのを。
「ラキオスは明るい国だろう? 国民に活気があって、街の中は元気がある。だけどサルドバルトはそうじゃないんだ。マナが少ないから恵みも少ない。そして、なけなしのマナも軍備でスピリットに使われる」
何気なく辺りを見渡すと、スピリットの何人かが聞き耳を立てているように思えた。
本当に聞こえてるかは定かではないし、聞かれて困るような話もしてないのでそのまま続ける。
「そしてサルドバルトの国民はスピリットを嫌っている。少ないマナでさえスピリットにつぎ込まれるから……生活は苦しくなるばかり」
「……だけど、それなら農作物を耕せばいいじゃないですか。マナが足りなくても鍬とかはあるだろうに」
「ところがサルドバルトは農作物まで取れない枯れた国なんだ……ラキオスは土地が肥沃だから、実感はないかもしれないが」
足元の地面を見る。見た印象はラキオスの土と変わらない。だというのに、その中身はまったく正反対とは。
「哀れな国ではあるな」
「……そうですね」
「だが敵なのに変わりない」
ユートが明らかに驚いた顔で、俺の顔をまじまじと見る。
「……おかしなことを言ったか?」
「そういうわけじゃないけど……一言で今まで言ってたことを全て覆したような」
「事情と戦争は別だ。それにサルドバルトがイースペリアを攻めたのは紛れもない事実だから」
吐息。だから戦うのか……おそらく違うだろう。
自分には明確で自発的な理由がない。『鎮定』を持っているのとラキオスによっている点、サルドバルトがイースペリアと最後に交戦していた国だからだろう。
「戦うための理由は有無のどちらか。理由があっても公的か私的、崇高であれば下賎でもあるだろう。それでも戦うのが戦争、じゃないか?」
ユートは答えなかった。自分も答えをもらおうとは思っていない。
だがしかし、ユートは解答ではなく疑問を発した。
「じゃあランセルさん」
「呼び捨てていい。ユートの敬語は似合わない」
どうも自分の中ではユートという人間が使う敬語は違和感として返ってくる。
そんなことを言ったら、当人は気分を害するかもしれないが。
「じゃあランセル、あんたはなんで戦うんだ?」
「エスペリアから謁見での話を聞いてないのか? 聞いてないようだな……あんまり何度も言うようなことじゃないんだが」
言うべきか言わないべきか。二度も言う必要はないと思うが、今からエスペリアに言わせるのも二度手間か。
「アズマリア女王のためだ。死んだ人間の本心は分からないけど、生前その人が大切に思っていた人の役に立つのが、女王に通すべき筋だと思ってる」
「……大切な人なんだな」
「そうだな。大切だったんだと思う」
いなくなってもなお。それとも、いないからこそなのか。手が届かないのに変わりない。
……女々しいな。信は得ていたかもしれないが、特別な関係だったわけじゃないだろうに。
それにだ……死んだ人間のためだなんて、高尚な目的を本当に自分が持っているかも疑わしい。
その時、ちょうど額に雨粒が落ちる。
それが最後の雨粒だったのか、そこで雨が上がった。空はなおも薄暗く日差しは差さない。
3
明けて翌日。前日の内にサルドバルト王都を目視できる位置まで近づき、そこで野営を行った。
サルドバルト側の襲撃も警戒したが、一度もその素振りを見せずに夜は過ぎていく。
夜が明けると同時に陣を発ち、昼前には王都への攻撃を開始する。
しかしサルドバルト王都への門の前では、今までの戦闘からは想像できないほどの熾烈な抵抗に遭い進撃が止まる。
ラキオスは一時後退し、サルドバルトは自ら打って出るような真似はせずに持久戦の構えを見せた。
そして膠着状態が発生する。すぐにユートは部隊を集めて軍議を開いた。
「この状況をどうやって打破するかだけど……」
「現在の敵情はこのようになっています」
ユートの言葉を引き継いでエスペリアが簡易卓上に並べられた地図に印をつけていく。
地図はサルドバルト周辺のもので、軍備について判明してる情報や今までの経路が記されていた。
「サルドバルト王都の主戦力は二体のブルースピリットで、戦闘能力からサーギオスのスピリットだと推測されます。また王都への門周辺には大規模な防衛施設が建築され、ブルースピリットの能力を生かすための蒼の水玉も設えられています」
エスペリアが建築物についての情報を地図に書き加えていく。
セリアがそれを確認しながら質問する。
「蒼の水玉はどこにあるの?」
「城壁の内側ですね……正確な位置までは分かりませんが、破壊は難しいでしょう」
「主力以外のスピリットは?」
「ブルースピリットとは別に何体か控えています……ごく少数で練度も大きく落ちるようですが」
セリアは何度か頷きながら図面に目を凝らす。おそらく攻略法を思案しているのだろう。
同じように図面を見ていたヒミカが意見する。
「……結局、力押しの正攻法で行くしかないんじゃないかしら?」
ユートが難しそうな顔で唸る。そして彼の目が俺に合う。
「ランセルはどう思う?」
何故、俺に訊く? ユートの一言のせいで、視線が一身に集まったような気がする。
意見を求められるなら、答えるまでだが。
「俺もヒミカの意見に賛成だ。建築物を別働で潰す方法もあるかもしれないが、時間はかかるだろうし逆に危険だろう。それなら一気に攻勢をかけたほうがいい。敵スピリットの数は少ないんだろう?」
「はい。私たちと同数以上はありえないかと」
エスペリアの補足にユートは頭を掻く。
「……やっぱり正攻法しかないか。そうなると編成は蒼の水玉がこっちにも影響を及ぼして、しかも敵主力がブルースピリットとなると……」
ユートは面々を一瞥していく。その顔は指揮官のそれになりつつあるように思える。
「俺、アセリア、ファーレーンで一組、セリアをリーダーにしてランセル、ネリーで二組目。この二隊でブルースピリットに当たるから、エスペリアは残りのみんなを指揮して支援と後詰めを頼む」
みんながユートの言葉に頷く。それは軍議の終了も意味していた。すぐに部隊に分かれて、行動を始める。
俺は『鎮定』を鞘から抜き、両手で柄を握った。
剣に選ばれる、とはこういうことなのだろう。しかし――誰が言った言葉だったか。
「ランセル様、これから戦闘だけど私たちの足は引っ張らないでよ」
「ネリー」
ネリーの発言にセリアが眉を顰める。ネリーはバツの悪そうな顔はしたが、それほど悪びれてはいないようだった。
「分かってる」
「む……ちゃんと聞いてるの?」
「ああ」
ネリーは鼻白んだように押し黙る。ぞんざいな対応に呆れたのかもしれない。
期待に添えなくて悪いな。そういうのは期待するだけ無駄だ。
代わってセリアが口を開く。
「ランセル様は支援系の神剣魔法を使えるんでしたよね?」
「ああ。マナの流れが凍結してる環境でも使える」
「ではネリーがアタッカーで私がディフェンダー、ランセル様はサポートを。以降は逐次の指示で……よろしいですね?」
異論はない。見ればユートたちの部隊も動き出している。連携を取るため、遅れるわけにはいかない。
ラキオスの部隊は、この連携が巧みだと思う。チームワークが優れているといえばいいのか。
多くを言わずとも部隊のリーダーが最適の行動を取ろうとする。……本来ならユートが細かに指示しなければいけない部分も補えてしまうのだ。
ユートもそれに気づいているのだろうか?
「行きます」
セリアの一言で体が動き出す。姿勢を低くして駆ける。意識はさらに深く『鎮定』と結びつこうとしていた。
その時、城壁からブルースピリットが二人現れて二手に別れる。一人はこちらに、もう一人はユートたちへ。そのハイロゥは黒く染まっていた。
さらに何人かのスピリットの一団も出てくる。そちらはエスペリアたちが対処するだろう。
「『鎮定』よ、この身に力を。境界を掃うだけの力を」
『鎮定』の刃が微かな光を帯びる。呼びかけに応じた証拠だ。
剣を介して、周囲のマナが集まり始める。体そのものの動きも軽く速く強く変わる。
神剣魔法の詠唱を始めるのと、敵スピリットのアイスバニッシャー発動はほぼ同時のタイミングだった。
次の瞬間、周囲の空気が急速に冷え、大気中のマナの流れが凍結する。
委細問題なし。許容範囲内だ。
「無色のマナよ。集え、この脆弱なる身に。力を欲すこの身に」
アイスバニッシャーで凍結された空間は独自の指向性を持つ。
神剣魔法などによりマナが集中しようとすると、その地点に向かって冷気が集束し、マナの流れを根本から凍結しようとする。
それに対抗するには、凍結に必要なマナを飽和させる以上のマナで神剣魔法を行使するか、凍結よりも速い高速詠唱。
そしてマナの流れを感知させない方法。エトランジェのオーラフォトンがこれに当たる。
彼らの扱うマナは同じマナでも、異質のマナでもある。属性に左右されない無色のマナだ。
「我らが剣と体を纏い守れ。守りは等しく攻めへと転じよ。エーテルコート」
無色、すなわち拠らないマナが俺たちの身を包む。透明な膜に包まれる感覚。
違和感を伴なった感覚はすぐに消えた。効果が消えたわけではなく、感触だけがなくなる。
無色のマナはすぐに馴染んで溶け込んでしまう。見えない自己主張を残して。
「いっくよぉーっ!」
ネリーがウイング・ハイロゥを展開、後背の空間を叩くように体を加速させた。
敵ブルースピリットは慌てた様子も見せず神剣を掲げると、水壁が張り巡らされる。その数は四枚で一枚一枚の壁が、かなりの厚みを持っている。
それをネリーの『静寂』は、当たる端から壁を断っていき、水壁を次々とマナに還していく。一連の攻撃は水壁の三枚を打ち壊すが、最後の1枚を残したまま敵の青が攻撃に転じる。
そうはさせじとセリアがネリーの前に出て、水壁を発生させた。セリアの水壁も普段の彼女よりも堅牢に見える。
蒼の水玉がもたらす効果は、こちらにも確実に恩恵をもたらしていた。
しかし、やはりそれは敵にも同じことが言える。神剣と深くリンクしての一撃は、水壁をまるで紙のように切り裂いていく。
「ネリー、下がってて!」
セリアの『熱病』と敵の神剣が激突し、刃と刃が競り合う。
押されているのはセリアだ。攻勢と守勢では勢いがどうしても攻勢側に傾いてしまう。
互いが攻防を続けていくうちに、神剣による衝撃でセリアの手傷も増えていく。
押し気味だった敵スピリットが突如として後ろに下がる。体勢を立て直したネリーが再び突撃したからだ。
短い詠唱と共に水の壁が再び形成されるが、数も厚みも先ほどと見劣りする。あちらにも余裕がないのだろう。
ネリーの斬撃が水壁を突破して、敵スピリットに迫る。
必ずしも洗練されているとはいえない荒削りな攻撃だが、ネリーの攻撃もまた相手の体力を削っていく。
しかし致命傷には届かない。ネリーが振った『静寂』を敵スピリットが横に受け流す。ネリーの体勢も流れて崩れる。
「割り込むぞ」
こっちも黙って見ているわけじゃない。両者の間に飛び込むように割って入る。
右手で柄を、左手を剣の半ばに添えて、下段から振り上げられた神剣を上から押さえるように『鎮定』で受け止める。
上方に向かう衝撃が腕を伝っていくが、それも含めて押さえ込む。
相手が剣を振るのに合わせて、こちらからも斬り込む形で剣を振る。攻撃と迎撃の度に、硬い音が響き周囲の空気を震わせマナをかき乱す。
しばらくの間、こちらは攻守を入れ替えながら、敵と切り結んでいく。
三対一だというのに相手はなかなか崩れない。それでも徐々にこちらが押し始める。
何度目の交代か、再び前に出てスピリットと接触した時だ。
「!」
頭上を高速で影が通り過ぎる。見上げる余力はないが、視界は影がセリアであるのを捉える。
セリアが空中からスピリットの右肩を斬りつけ、そのまま行き過ぎて着地。同時に背後へと体を切り返す。俺とで敵スピリットを挟み込む動き。
スピリットは退こうとするが、それより先に『鎮定』で相手の右脇腹を斬る。動きを止めるには十分だ。
背後から迫ったセリアの『熱病』が、ウイング・ハイロゥごとスピリットを斬って伏せる。
(これも一種の連携、か?)
疑問は声に出さない。目の前には霧のように消えていくスピリットの体。
その体を構成していたマナのいくらかを『鎮定』が呼吸でもするように吸い込む。
(これでしばらくは
剣にもよるかもしれないが、神剣は蓄えたマナで剣身をある程度は修復してくれる。
もちろん程度の限界はあるので、自分で手入れもしなくてはならない。それでも戦闘中に切れ味が落ちるのを防いでくれるのは有りがたい話である。
一方、戦闘の趨勢は決して、流れは完全にラキオスに傾いていた。
すでにエスペリアの率いる別働隊は城門を突破しており、ユートたちももう一人のスピリットを片付けたようだ。
一呼吸整えてから、先行した部隊を追って城門を越えていく。
城門を確保した段階で戦いらしい戦いは終息していた。
サルドバルト国王は少数の手勢と共に城を落ち延びたらしく、ラキオスの人間部隊が中心となり捜索に
捜索にはスピリット隊からも年長組の何名かが駆り出されていた。
これは国王の護衛にスピリットが加わっていた場合、人間には対抗できないのと、逆にスピリットがいれば人間相手なら簡単に無力化できるためである。
一方、残りのスピリット隊は王都内の警戒に就いていた。制圧がほぼ完了したとはいえ、どこに敵が潜んでいるかは分からないからだ。
それに敵国の人間やスピリットが歩き回るのは、国民に占領を理解させる手っ取り早い方法でもある。
……スピリットならば、直接の危険はないと人間は判断を下す。
「あ、雨だ〜」
横にいたシアーが掌を空に向けている。よく見てないが、その手には雨粒がついているのかもしれない。
その時、自分の顔にも冷たいものが何度か落ちてきた。せいぜい小雨だが、冷たいのに変わりない。
渡された地図を濡らさないように、ズボンのポケットに入れる。
「あーめあめ、ふれふれー」
唄うかのようにネリーが両手を広げて飛び跳ねる。気分は高揚、とでも言ったところなのか。
雨が降るというのは青のマナが活性してるからで……このぐらいの雨なら、逆に彼女たちは調子がいいのかもしれない。
それでも、雨の中にいるのも、やはりどうかと思う。
「……はしゃぎすぎると風邪をひくぞ」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
なんというか……子どもっぽいな。しかし、本当はこれぐらいがちょうどいいのかもしれない。これぐらい許されなくてどうする?
そのネリーが急に立ちすくんで、周囲を大きく一望する。
「なんだか暗い街」
ネリーは注意深く辺りを窺う。今までの陽気さからでは、意外としか言えない言葉だ。
しかし居心地は確かに良くないだろう……俺も好きになれない。
何年か前よりもさらに暗いと考えるのは、あながち考えすぎでもないだろう。
「気をつけろ。暗い所は怖いぞ」
「気をつけろって……何に?」
怪訝な顔のネリーへの答えは持ち合わせていない。だが用心に越したことはないはずだ。
しかし、こういう街並みはどこかで見たような気がする。
明度が低くくすんだ街並み。人の気配はあるのに、活気に欠けた空気。いるだけで気が滅入るような独特の空間。敗戦国が持つ喪失感。
そして、ようやく気がつけた。
サルドバルトは似ている。とてもよく似ている。
ここはまるで――マナ消失後のイースペリアにそっくりだ。
「ん? どうしたの?」
足がいつの間にか止まっていたらしく、先頭を歩いていたネリーが少しこちらに戻ってくる。
首を横に振り歩き出すことで、なんでもないという意思表示を示した。完全に伝わらないだろうが、伝えたところでどうにもならない。
こんなのは、らしくもない感傷だ。それを他人に伝えてどうにかなるものではない。
「行こう……早く戻ろう」
ネリーとシアーが不思議そうに顔を見合わせる。ふと彼女たちの後ろ、離れた場所に誰かが現れた。背格好は低い。少年だ。
彼女たちは二人して何か言おうとする。だから、後ろにいる少年に気づかない。
少年は右手に何かを掴んで、大きく振りかぶる。いけない――と思ったときには駆け出していた。
振りかぶった少年は、石を投げた。拳大はある大きさの石を。冗談じゃないぞ。
「痛っ!?」
「何するの!? どーいうつも……」
尻餅をついたネリーとシアーの間に、石が上空から落ちてくる。石は気味の悪い音を立て、小さな破片を散らして転がった。
二人は突然の落下物に目を丸くしている。咄嗟のことで彼女たちには悪いが、突き飛ばさせてもらった。
少年は表情を憤怒に歪めて、また投石する。しかし、その石も右手で叩き落とす。
「出て行け! ラキオスはサルドバルトから出て行け!」
まだ声変わりもしてない声で石を投げてくる。何度投げても少年の石は狙った場所には当たらない。
それでも彼は投げる。目尻に涙を浮かべても。その姿は憐憫か、勇敢か。
知ったことではないが、あの少年はこれからも生きるだろう。屈辱を糧に、死んだような街にそぐわない激情を秘めて。
もし彼に望むなら。
「お前」
少年の体がそれと判るぐらいに震えて止まる。投げる動作の途中だったが、石が手から転がり落ちる。それでも目だけは逸らそうとはしない。
だから、俺も目を逸らさない。それが礼儀だ。
「憎むのは勝手だが、どこかでそれを置き捨てろ。何かを憎んでるのは重たい荷物だぞ」
「ふ、ふざけるなっ! 侵略してきたくせに!」
侵略。なるほど、だが先にそれをしたのはどこの国か。だが、それを言う気はない。
初めがどちらかなんて、そんなのは関係ない話だ。
それでも憎しみと恨みの連鎖が織り成す、業と毒については知っている。少年、お前はそれに気づけるのか?
「少年、今のお前は楽しかったのか?」
少年は何も答えない。今すぐに答えを出すなんて無理だ。そもそも俺が答えを持っているかも分からない。
だけど彼にはまだ考える時間がある。俺にだって時間はある。なら考えればいい。
ひとまずの自分の答えだけは伝えておこう。
「俺は楽しくないぞ、戦争」
少年は目元を隠すように俯いて、小雨に打たれている。だけど確かに聴いていた。
敗戦にここまで敏感な人間はそう多くはない。もしかしたら何かを彼も失っているのかもしれないが……それを知ってもどうにもならないだろう。
後ろを振り返ったとき、声が飛んできた。
「俺は絶対に忘れないぞ! 絶対に、絶対だっ!」
「……なら、墓まで忘れずに持っていけ」
話は終わった。ネリーとシアーはいつの間にか立ち上がっている。
「……行こう。気分が悪い」
「だけど……」
言い縋るネリーを見る。いつもは見れないような表情だ。その表情が自分に向けられているのは、不思議としか言いようがなかった。
なんだ……そこまで自分は嫌われてはいないのかもしれない。
「行こう。敵はもういない」
振り返らない。これも人生の一時の話だ。いずれは風化するかもしれない。
だけど、本当に重要な部分は決して忘れないだろう。とはいえ、自分が誰かに影響を与えられるほどの存在とも思えない。
ここで少年が何かを得るかは……彼次第だろう。何かを決断するのも少年次第。
「……サルドバルトは嫌いだ」
どう思われても構わない。それが今の素直な気持ちだった。
雨足は強くならなかったが、しばらく止まずにサルドバルトの王都に降り注いだ。
陰湿な街をより暗くするように。痛みを忘れるための涙雨のように。
この雨が晴れた時、この国がどうなっているかは分からない。
5話、了
2006年2月27日 第2期修正完了。