永遠のアセリア 1
Recordation of Suppressor
13話 虚偽の証明
2
状況をまとめてみよう。ただの思いつきというほかないが、そう悪くない考えだとも思った。
事態は確実に進行し、変化を把握するためにもちょうどいい。
予備の報告書を引っ張り出して、文字をつらつらと書き始める。
(スレギト攻略に失敗してから、そろそろ一ヶ月か)
スレギト攻略――マロリガンのエトランジェが姿を見せた時でもある。
それ以来、全体の流れはマロリガン優位に傾いてしまった。
戦線は完全に膠着し、スレギト攻略どころかヘリヤの道を踏破することさえ覚束なくなっていた。
そうなったのはエトランジェ付きの部隊――今では稲妻の名を与えられた部隊だと判明しているが、稲妻が防衛に就いていたからだ。
理由はそれだけではないが、最初の障害なのは疑いようもない。
「本当に戦いにくい相手だったな……」
稲妻の仕掛けてくる戦いは、それまでのような単調な攻撃ではなかった。
例えば襲撃一つ取っても、事前に気配を表して警戒させながら手を出さない。逆に警戒しなければ強襲をかけてくるといった具合だ。
常時警戒を続けるのは想像以上に負担がかかる。特にマナの希薄なダスカトロン砂漠では消耗を早める原因にもなってしまう。
解っていても相手の策に乗るしかなく、不利な状態で戦うしかない。稲妻が強いたのは、そういった戦いだった。
その状況下でもラキオススピリット隊は善戦を続けていたと言える。
どちらも一進一退を繰り返しながら、双方とも決定打を与えられない期間がしばらく続いた。
それを抜けると、徐々にラキオスはマロリガンを押し返し始めるようになる。
相変わらずエトランジェへの対策はユートに頼る以外見つからないままだったが、それでもラキオスが盛り返し始めた頃だ。
(稲妻だけならいずれは突破できるはずだったのに……)
目下の難題であり、ヘリヤの道を阻む最大の障害が発生した。
それはマナ障壁と呼ばれる現象だ。
ヘリヤの道の中程に発生したそれは、障壁と生易しく言うが、実質は暴力的なまでに荒れ狂うマナの嵐のようなものだ。
もちろん強行突破など望めるはずもない。下手に突入しようものなら、瞬く間に身を千々に裂かれてしまうだろう。
マナ障壁は自然現象でなく、マロリガンが人為的に起こしたものだ。
ヨーティア女史が発生原理を突き止め、そのための施設設備を撤去しようとして失敗、断念したのが二週間ぐらい前になる。
(下手に施設に手をつけると暴走して取り返しがつかなくなるか。手の込んだ真似を)
もっとも天才はこの程度では諦めないらしく、現在は別の方法で障壁解除を目指していた。
そろそろ目処が立ちそうだという話は伝え聞いているので、期待するしかない。
(マロリガンに関することだと……あとは部隊の入れ替えか)
先週に入った辺りからマロリガンのスピリットが稲妻から旧来のスピリット隊に入れ替わりはじめた。
どうして稲妻と交代したのか不明だが、マロリガンに取ってラキオスの優先度が下がった、あるいは稲妻は別方面のサーギオス線に投入されたという推測はある。
これはマナ障壁を解除できるかにもよるが、これはこれで好機とも言えた。
稲妻とその他の部隊では、他の部隊との戦闘のほうが優位に進めるからだ。
また稲妻の交代に当たり、ラキオス側も動きを変え始めた。
ランサとマナ障壁の地点に大掛かりな野営所を用意しようという動きが起きている。
それまでの稲妻だと進出が困難だったが、通常の部隊ならどうにかなるだろうという判断がそこにあるようだ。
スピリット隊からは賛否両論……利便性は認めているが、実現できるかどうかの判断が隊内でも二つに割れていた。
個人的な見立てでは実行される公算のほうが高いように思う。
結局、スピリット隊の現状はランサの防衛が主になってしまっているので、遊ばせるのはもったいないという意味からも。
(どう転ぶにしても、動きの不透明なサーギオスはどう出るか……)
サーギオスもサーギオスで積極的な動きを度々見せてきた。
一つはソーマ・ル・ソーマ――ソーマズ・フェアリーと呼ばれる特殊なスピリットを引き連れた人間の登場がある。
顔を見たこともないが、フェアリーの名は過去に何度か聞いたことがあった。
サーギオス帝国の躍進に一役も二役も買った特殊部隊。
彼の部隊が通った後には、ただ血風が吹くのみ。そういった噂や枕詞と一緒に。
そのフェアリーが指揮官のソーマごと姿を見せていた。現場に居合わせなかったので、直接姿は見ていない。
(生理的に受け容れられないか)
現場に居合わせたスピリットたちの評価だ。どう好意的に捉えても好印象でないのは確かだ。
わざわざソーマが現れた理由は……詳細は分からないが、何かエスペリアに関係しているらしかった。
それ以来エスペリアはどこか落ち着きをなくしているようで、先日もユートと大喧嘩したとか。
そのせいもあってか、二人の間に今までなかった緊張感があるのも確かだった。
そして、もう一点。現状ではどう転ぶか判らない事柄だ。
サーギオスの漆黒の翼。つまりはウルカを保護していた。
ユートとオルファが発見したもので、衰弱が激しく、現在は監視つきで第一詰め所で療養している。
(
自分が知りうるイースペリアのマナ消失における最後の証人。それがまさかこんな形で現れるとは考えもしなかった。
是非とも話は聞かねばならない。そのために自分はここにいる……。
「……なんだ?」
違和感があった。どうしてそう感じたのかが分からない。だが、このなんとも言いがたい感覚は、違和だと思う。
……だとしたら、なんだと言うのだ。それで何かが変わるわけでもないのに。
ふと気づくと、報告書に書かれている内容は、自分以外の誰にも理解できそうになかった。
字もそうだし、書かれてる内容も時系列や順序を一切無視しているせいで、繋がりが読み取れない。
初めから人に見せる気がなかったとはいえ、一夜経てば自分でも意味が解らなくなりそうだ。
報告書を丸めて屑籠に放り込む。
(そういえばユートとコウインたちについては書いてなかったか)
今度は頭の中だけで整理する。
ユートがコウインたちとの関係を俺たちに話してくれたのは、ランサに戻ってすぐだった。
コウイン、そして『空虚』に取り込まれたとされるキョウコは、ユートがハイペリアにいた頃からの友人だ。
それがどうして召還されてしまったかは分からない。
事実だけを見るなら、こちらの世界にいて伝説の四神剣、その一本ずつを所有している。
そして――ユートの敵だ。ユート個人の感情がどうあれ、彼らは宣戦布告をしている。
だというのに、ユートは二人と戦わない方法――あるかも分からない可能性を模索しようとしていた。
それを滑稽だ、愚昧だと嗤うのは
だが、それでこそユートはユートであるのだろう。無自覚な魅力か。
(……自分にできることなど変わらない)
良くも悪くも今まで通りだ。多くを望んでも、その中で得られるのは一握りでしかない。
……ここがユートと自分との違いなのだろうな。あの男はそういった諦めを嫌う。
それを特別羨ましいとは思えないが、その違いこそが信に足るとも今ならば思える。そう、結果だけで見てはいけない。
ともあれ、個人にできることが変わらないように、事態もある程度進むまで待つのも時には大事だと思う。
今がちょうどその時期なのだと、そう考えることにした。
あくる日、技術部からの出頭要請を受けた。
技術部とは言うが、実際にはヨーティア女史の依頼に等しい。
ラキオスに協力を始めてから一月ほどだが、すでにその実力と見識、人柄……は理由になるのか分からないが、とにかくヨーティア女史は信頼を勝ち得ていた。
それは助手のイオにも同じことが言える。
初めはスピリットであることがどんな軋轢を生むのか一部では懸念されていたが、蓋を開けてみれば杞憂に終わっていた。
それどころか一部では熱烈な視線を向けているとかいないとか。あくまで噂なので真偽は分からない。
「ようこそおいでくださいました、ランセル様」
そして技術部に出向いた自分を出迎えたのはイオだった。
技術部もランサではスピリット隊と同じ古めかしい館を宿舎として利用しているが、今は郊外の空き地に向かっている。
最近の技術部はそこで何か大掛かりな建築を行っているとの話だったので、それと関係があるのか。
イオは先導しながら自分が呼ばれた理由を説明しだす。
「ランセル様には私どもの実験に協力していただきたいのです。ただし、強制ではなく断ってもらっても構いません」
「……どんな実験を?」
「エーテルジャンプ……聞き覚えはないと思います」
「そうだな……初耳だと思う」
「理論は抜きまして、エーテルジャンプというのは一種の転移だと考えてください」
「転移というと……よく言うような瞬間移動か?」
「はい。必ずしも任意の場所に転移できるわけではありませんが。サーバーとクライアント、そう名づけた施設の間しか行き来はできません」
「その代わり、施設があれば転移できる?」
「そうです。先ほどはエーテルジャンプの理論を説明しませんでしたが……エーテルジャンプというのは、一度肉体などを構成するマナまで分解し、それらの情報を移動先へと転送、転送先にあるマナを使って再構築するというものです」
イオが言わんとしたいことは、大雑把にだが分かるつもりだ。しかし、それは――。
「イオ……その理論だと人間がエーテルジャンプをしようとするとどうなるんだ?」
人間の体はマナではできておらず、僅少なマナぐらい含有しているだろうが、それが肉体を再構築できるとは到底思えない。
イオの説明を信じるなら、エーテルジャンプはスピリットやエトランジェ、エーテル技術で生まれた物に限るはずだ。
「最初からできないか……あるいは分解されて、二度と戻れずに消滅してしまうでしょう」
「……困った話だな」
正直なところ、自分が人間であるかは分からない。信じるための要素が少なくなりすぎてしまったから。
しかし、それでもどこかで信じている。いや、信じ込もうとしているのか。
自分が人間であるのを否定してしまえば、それまでのことはどうなる。
茶番か? 三流芝居か? それとも裏切り?
これは最後の砦を崩すことになる。成功すれば人間でなくなり、自分は一体何になる?
アズマリア、貴女は何と言うのだろう?
「ランセル様?」
「……すまない、何の話だった?」
「エーテルジャンプできるか否かがランセル様にとってどういう意味になるかは私にも分かります。だから任意なのです」
「イオやヨーティア女史は……俺が成功すると思ってるのか?」
「……はい。もしも失敗する時は私も消滅しているでしょう」
「……どういう意味だ?」
「私も被験者として参加します。ランセル様が失敗すれば私もやはり失敗しているでしょう」
「スピリットでも試していないのか」
「はい。存在を定義する情報……その話は省略しますが、それを確立して再構築させる理論は完成していますし、静物などでの実験は成功しています。しかし……私たちのような存在ではまだ試していないので」
「……それを実証するためにか」
イオが頷き返す。何度か見た彼女の態度と変わらないように見えたので訊いてみた。
「怖くはないのか? 成功するかまだ分からないのに」
「不安がないわけではありません。ですが、誰かがやらないといけないことでしょう。それに」
イオは言葉を切って一息つく。次に出た言葉もやはり躊躇いは感じられず。
「私はヨーティア様を信じています。あの方は研究においては真面目で嘘をつきませんから。だから私はヨーティア様が成功すると言うなら、それを信じます。今までもそうやって何度も成功させてきたのですから」
イオの表情には笑みさえ浮かんでいた。ヨーティア女史への信頼が為すのだろうか。
まったく、敵わない。そんな態度を見せられたら、断るに断れないじゃないか。
「俺でも試すってことは、俺は不安要素なのか」
「……その通りです。スピリットなら可能だと証明しても、それがランセル様でも可能だという証明には必ずしもなりません」
「俺が無事やり遂げたら、エトランジェも可能と判断されるのか?」
「それは……」
「意地の悪い質問だったな」
どちらにせよ結論は出ている。不安なのかは自身が理解していないようだ。
「いいさ。実験に協力する」
「……よろしいのですか?」
「受ける、問題ない」
「……もう一度確認しますが、本当にいいのですね?」
「ああ。それに本当に危険なら、今頃こいつが抵抗してるだろ」
『鎮定』を鞘から少しだけ抜いて見せる。
自分の決定に反対しないのは、成功に転ぶ見込みが強いからだろう。本当に身の危険を感じていれば、今頃は激しく抵抗しているはずだ。
それでも失敗の可能性が消えるわけじゃないが。
「それにエーテルジャンプが実用化すれば、戦い方も大分変わるだろう。部隊の迅速な展開とか……そういった時に自分一人ができませんだと困る」
あらかじめ施設の建造が必要とはいえ、今までは比べ物にならないほど移動にかかる時間を短縮できる。
今後の戦いで大きな意味を持ってくるだろう。有用性は解るつもりだ。
「分かりました――ありがとうございます」
まだ礼を言われるようなことは何もしてないのに。
それは口に出さず歩く。すでに目的地が見えていた。
歩き始めてからここ空き地になっている場所に一つだけ人工物が建っている。
荒地に近い場所に人工物一つだけというのは、なかなか違和感のある風景だ。
人工物の形状は円筒型で大人が四、五人……いや、この距離からは正確に判らないが、もっと収容できそうに見える。
付近では技術部と思われる人間たちが何か作業しているようだ。いずれもつなぎを着用している。
「あれが?」
「はい。あれがクライアントに当たる装置です。サーバーは規模や管理の関係上、ヨーティア様の研究室にある物が一つだけとなります。先ほど、エーテルジャンプはサーバーとクライアント間のみと言ったように、クライアントからクライアントへの直接移動はできません」
「ということは……一度はラキオスを中継しないといけないのか」
「そうです。それでも遠方までの移動は今までより遥かに短縮できます」
想像以上に大掛かりな装置だ。転移なんて前代未聞のことをやろうというなら、これぐらいは必要になるのかもしれないが。
しかし、これぐらいの規模となると。
「量産は厳しそうだな……」
「はい……
「しかも使用するにも維持するにも、それなりにエーテルを使いそうだな」
便利な分、運用方法はちゃんと考える必要があるようだが、その点は別に自分一人で頭を悩ませる問題でもない。
技術部の人間らがイオと自分に声をかけていく。一瞬手を止めるだけで全員がすぐに作業に戻っていく。
イオは現場責任者らしき中年の男を掴まえると、作業の進捗具合を確認し始める。
時間がかかりそうなので、その間にEジャンプクライアントをもっと近くで見てみようと思った。
作業をしている人間たちの邪魔にならなさそうな場所に移動して、建造物を眺める。
「まるで門扉みたいだな」
円筒はよく見ると六角形で、入り口らしい扉が開いたままになっている。
扉の奥は空間になっており、内壁には直線の溝が何本も走って幾何学的な紋様を刻んでいた。
「一歩入れば、そこは別世界か」
この装置の場合、あながち的外れでもないだろう。
門や扉というのは実に不思議だと思う。それらは
例えば、敷地の門。
一方は道であって、数多の人が行き交うための空間。
一方は敷地であり、立ち入るには許可の必要な空間。
例えば、家の扉。
外と呼ばれる場所は外であって、空が見えて風が流れるような場所。
内と呼ばれる場所は内であって、壁が見えて人が暮らすような場所。
境界を定義するのが門や扉で、その違いはわずか一歩でしかない。一歩でしかないのに、空気も風景も変わる。
それはまるで世界が入れ替わるように。
「ランセル様」
後ろからイオの声がかけられた。意識を引き戻すように振り返る。
「準備が整いました。問題なければ早速開始しようと思いますが」
「ああ、分かった」
イオは目を伏せて一呼吸。ゆっくりと声に出す。
「それでは行きましょう」
イオは扉へと歩き出す。果たして、あれはどんな世界を見せてくれるのか。
不安なのか期待なのか、自分でも判然としない気分だった。
二人とも中に入ると、扉が閉められる。一瞬、暗闇に閉ざされるが、すぐに明かりがつく。
エーテル灯ではない。紋様が青白い光を放っていた。初めはぼんやりとしていた光も、徐々に白色へと変わっていく。
空気は暑くも寒くもなく、そして停滞しているが淀んでいるのとも違う気がした。
「……そろそろです」
心持ち、意識した瞬間だった。
体がぶれて視界が四方に揺れる。自分の腕がちらついて、いきなり分解するように消えた。
何かを言う暇もなく、視界がいきなり暗転する。そして意識が途切れる――そう感じた次の時には、壁を見ていた。
紋様の入った壁……漏れる光は弱くなっているようだ。
壁が低いと思ったら、いつの間にか床に座り込んでいた。それは隣のイオも同じだ。
声も出せずに互いに顔を見合わせる。ようやくエーテルジャンプの実験だったのが意識下に引っかかった。
「……成功したのか?」
「……そのはずです」
心なしかイオの声は上擦っているように聞こえた。自分の声もそうなのかもしれない。
よろめくように立ち上がる。手を上下に振ってみるが、おかしな部分はないようだ。
手が分解したように見えたが……気のせいではないのだろう。イオの説明通りなら、一度マナまで分解されて移動したはずだから。
(……成功したのか。喜んで……いいんだよな?)
そう思ってはみたものの、手放しでは喜べない。
イオはというと扉を押し開けていた。
内側からも開けられるのか……ジャンプ中に扉を開けたらどうなるかは、あまり考えたくも試したくもない。
扉の先は本が雑多に散らばった室内になっていた。どこからどう見てもランサ郊外ではない。
「ここは?」
「……ヨーティア様の研究室です」
……随分と散らかった部屋だ。薄暗いこともあって足の踏み場を探すのに一苦労しそうな。
クライアント……いや、今はサーバーか? とにかく、そこから出る。
「来たか。お二人ともご苦労さん」
そうして出迎えたのがヨーティア女史だった。こちらの格好も言わずもがな……か。この部屋の主に適切だとは密かに思った。
彼女は俺とイオを上から下まで値踏みするように観察する。その手には薄い紙を何枚か持っていた。
「外見上には変化なし……かな?」
「はい。今のところは問題ありません」
「なら念のため、一晩は様子を見ようか。後遺症とかはないはずだけどね」
ヨーティア女史は表情を崩す。
「まずは一杯、
イオが窺うように、こちらへ視線を向ける。
よく分からないが……飲むかどうかの判断は自分に委ねられてるのだろうか。
変に断るのも非礼に当たりそうだし、何より素直に何か飲みたいと思える気分だった。ノロスィーなら気分を落ち着かせる効用もあったような気もする。
「それではお願いします」
「はいはい。ま、あんまり硬くなることはないよ」
そう言ってヨーティア女史は机のほうへと手招きする。
……招かれたのはいいが、座れるような場所はない。というより椅子の置き場がないというべきか。
いくらなんでも詰まれた本の上に座るのは好ましくないだろうし、その場に立ったままでいる。それが一番無難だと思えた。
「ヨーティア様、私がいない間にまた散らかして……」
「いいじゃないか、別に減るもんじゃないし」
「減らなければ散らかしてもいい理由にはなりません……というより、わざと散らかしてませんか?」
「いくら私でもそれはないぞ……って、そんな疑わしそうな目で見るな!」
「……ヨーティア様のせいでしょう」
そんなやり取りを交わしながらも、ノロスィーを人数分注いでいく。
「砂糖は?」
「結構です」
「私には入れてください」
「了解了解。それから、これでも……」
「ヨーティア様、昼間からお酒は……」
「まあまあ、そう固いこと言いなさんなって。これでも、こっちはやきもきしてたんだから。祝い酒代わりだと思ってさ?」
そう言われるとイオもそれほど強く反対はしなかった。
ヨーティア女史はノロスィーにアカスクを注いでいく。女史のノロスィーには俺たちと比較しても大量のアカスクが注がれたように見えたが、敢えて何も言うまい。
「こうすると味の深みが増すって寸法さ、ほら」
「頂きます」
差し出されたカップからは湯気と一緒に焙煎された豆の香ばしい匂いが流れてくる。
なんだったか、馥郁たる香りと表現すればいいのだろうか。味は苦味の中にまったりとした味わいがあるように感じた。
酒を混ぜた効用なのだろうか。なかなか贅沢な嗜好品の楽しみ方なのかもしれない。
「それでジャンプの瞬間はどんな感じだった?」
「……ジャンプする時は目を閉じていたほうがいいと思いました」
「……右に同じく」
ヨーティア女史は驚いたように、そして大仰に頷く。何度か先ほど手に持っていた紙に視線を落としながら。
ややあって、質問の矛先を自分に限定する。
「ランセル、君の場合は本当にそれだけ?」
「……どのような意味か分かりかねます」
「私がはっきり言っちゃっていいのかい? イオからはエーテルジャンプの仕組みは聞いてるんだろ?」
やれやれ、まったく。口に出したくないだけなんだが。
「……容赦ないですね」
「性分でね。気になることははっきりさせたいんだ」
「正直なところ、まだ実感が湧いてないんです」
『鎮定』の柄に触れる。ヨーティア女史の目が、手を追って動く。
この話になるのは解っていて――この結果もどこかでは解っていた。
自分が人間じゃない。その結果は本当はもっと以前から突きつけられていた。それこそ、いつぞやのセリアよりもさらに前から。
では自分が何かというと、それも解らない。自己分析に必要なのは、現在と過去じゃないだろうか。
自分にはその過去がどうやら――ないらしい。
「ヨーティア女史は子どもの頃を覚えてますか?」
「子どもの頃? もちろん覚えてるさ。武勇伝でも聞きたいのかい?」
「それは次の機会ということで……どうも自分にはそれがないようで」
今まで、そういう記憶はぼんやりとあった。影のような曖昧な風景と曖昧な人物。曖昧な行動。時間の経過が風化させたのだと思っていた。
しかし、本当は初めからなかったのだろう。ぼんやりとした影はついに実像を結ぶに至らないのだから。
「親とかはどうなんだい? それもやっぱり覚えてないのかい?」
「……本当にいたのかさえ怪しいんですが」
親……そういう存在もまた同様。顔も声も、もう分からない。今まで親だと自覚していたものは、もう印象にさえ残っていなかった。
そうなるといよいよ分からなくなる。今までの自分は何を拠り所として生きてきて、どうして不確かな過去を検証もしなかったのだろう。
(……こいつのせいか?)
『鎮定』を見やる。ひょっとしたら、これが今まで気づかなかった代償とでもいうのだろうか?
黙して答えない『鎮定』は、自分の疑問を肯定しているのか否定しているかは分からない。
「なるほど。そうだとしたら、どこからは自分の記憶だって言うんだい?」
「……アズマリア女王に初めて会った頃からなら」
「アズマリア……確かイースペリア王国の女王様か」
「ええ」
ランセルという人間――人間でありたいと願った男の出発点はそこだった。
今になってアズマリアに執着する理由が解ったような気がする。そこからこそが確かな自分の始まりなのだから。
「一つ分からないんだけど?」
「何がです?」
「どうして君が人間にこだわったのかと、イースペリア女王アズマリアが君を人間と見なした理由さ」
「……一つじゃないじゃないですか」
「いいだろう、そんな細かいことは」
やや不貞腐れたようにヨーティア女史は言い、その目は鋭く俺を見ている。本題はこれ、とでも言いたげに。
「私の聞いた話だとアズマリアという人物はなかなか聡明だったそうじゃないか。それが理由もなくランセルを人間だなんて主張すると思う?」
そうは思わない。何かしら理由があるはずだ。しかし、どんな理由が? そもそも人間だと言い出したのは俺とアズマリアのどちらだ?
また肝心なところで、この頭は思い出せない。それともまた、知らない振りでもしているのか。
「理由はあると思います。でも、その理由までは……」
「……処置なしだね」
ヨーティア女史も頭を左右に振る。お手上げ、というわけか。
気を紛らわすためにもノロスィーを喉の奥へ流し込む。
「分からないなら仕方ないとして、ランセル。君は結局これからどうする気なんだい?」
「許されるなら今まで通りを望みますけどね」
「許すも許さないも私が決めることじゃないよ。別に好き好んで嘘をついてたわけじゃないみたいだしね」
そして女史は煙草に火をつけ吸い始める。
「ユートなんかは気にしないだろうね。あれは筋金入りのバカだから」
愉快そうに笑う女史の言うバカという単語は、元来の意味とは別に好意的な響きが込められているような気がした。
「私としてはランセルの正体は気になるけど詮索はしないよ。知的好奇のためだからって研究者といえど何をやってもいいわけじゃないからね」
「……もっと強引に調べられるかと思ってましたよ」
「失礼な。私にだって自分の中で譲れない規則ぐらいあるさ」
紫煙を深く吐き出す。その目は自分もイオも……この場にある何ものも見ていないような気がした。
「そういうのを破ったら後悔するぐらいは知ってるからね」
表情を見せないようヨーティア女史は呟く。そして確信した。そこは自分などが踏み入ってはいけない領域なのだと。
「まあ、とにかくだ。こっちとしても今になって俺は人間をやめるぞー、なんて言われても困るから助かるよ」
「進展がないといえますけどね」
「現状を維持するのも楽じゃないさ。特にあまり良くないことが起きた後はね」
女史は腕を組んで仰々しく頷く。
そうは言うが、これが本当に現状維持かは判断しかねた。もしかしたら、また向き合うべき問題を先送りにしただけなのかもしれない。
「よろしいですか?」
今まで発言を控えていたイオだ。やや俯き気味に、そしてどこか神妙な面持ちに映った。
「ランセル様は怖くないのですか? 御自身が誰かも分からない……過去が分からないのは」
「……怖いかもしれない。でも、分からないなら考えても仕方ない部分もあると思う。今となっては知らない過去をどこまで大事にしなければならないんだ?」
思い出したら縛られそうで、それはひどく窮屈に思えた。それに今のランセルという男に大切なのは何か。
「それに俺が人間だろうとなかろうと、今のスピリット隊は受け容れてくれそうだからな。ただの甘えかもしれないけど、それで今は十分すぎるんじゃないかな」
そしてノロスィーをすする。今のはどこまでが本心なのだろう。
ほとんどは本心だ。ただ、口で言ったほど割り切れてはいないとも思う。
……俺は人間じゃないそうだ、アズマリア。嘘をついていたのは、俺と貴女のどちらなんだろう?
「……そうですか」
答えるイオは、俺の返答に満足したのかどうか。彼女もまたノロスィーをすする。
ヨーティア女史は天井に向かって紫煙を吐き出す。独特の匂いを撒き散らしながら、煙は周囲の空気と混ざり合っていく。
「こんなところかな。急場で詰めないといけない話もないけど、二人のほうはどうだい?」
イオは控えめに首を横に振る。彼女の場合なら、この後もヨーティア女史と一緒にいるので問題ないのだろう。
「ヨーティア女史、いつになったらランサに戻れそうです?」
「あー、今日は無理だな。さっきの実験で得たデータも確認せにゃいけないし、不具合が本当にないのか未知数だから。問題が見つからなければ明日の昼頃に一度送り返すけど、それでいいかい?」
「ええ、もちろん」
「イオのこともあるから身体への影響はなさそうだけど、しばらくはエーテルジャンプをランセルとイオだけに限定して色々調べさせてもらうから、そのつもりでいるように」
つまりは引き続き、飛んだり飛ばされたりをしろということなのか。まぁ、構わないが。
それにしても、イオのこともあるから、というのはよく分からない。しかし取り立てて訊く気にもならなかった。
「今日のところはスピリットの館にでも行ったらどうだい? ユートには話を通してるからさ」
ウルカを助けたこともあって、ユートはその報告に来ている。また他にもウルカを輸送したアセリアとオルファの二名が王都に戻っていた。
しかし、そうか。ユートもこの話は知っていたのなら、少しは話しておいたほうがいいのかもしれない。
嘘をついていた、とでも言えばいいか。
「イオ。疲れてるところ悪いけど、外まで案内してやって」
「畏まりました。それではこちらへ」
カップは本の山に置いておく。イオに案内されて部屋の外に出る。
研究室はラキオス城の北側にある部屋だったのが、通路を歩いているうちに分かった。
「……少し」
空耳だろうか。イオが何か声を漏らしたような気がした。
「今、何か?」
「いえ、何も。気のせいではないですか?」
そうだろうか……まあ、それならそれでもいい。
互いにそれ以上何も話すことなく、城の表門から外に出る。
そこから見える景色は垢抜けたようなラキオス王都であって、分かっていたものの改めて驚かされた。
「本当に飛んだんだな」
「ええ。今回は本当にありがとうございました」
「別に何もしてないよ、俺は」
「そんなことはありません。それに……突きつけました」
「……それもいつかは誰かがやることだったと思う」
今回のエーテルジャンプという形で為されただけで時間の問題でしかなかった、そう思う。
ラキオスに身を寄せてからは薄々こうなるような気はしていた。むしろ遅かったぐらいなのかも。
いずれにしても早くも自分なりには、現実に対応し始めているらしい。
高揚も動揺もしていない。こういうものだと納得してしまったように。今までと同じように。
「……案外、何も変わらないのかもな」
イオは答えない。ただ、何かを探るように自分の目を見返してくる。その真意もまた分からない。
ただ一言、イオは呟く。
「それでも真実は小さくないはずです」
……そうかもしれない。自分が人間じゃないのは確かなのだから。
深く息を吐く。それはため息だったのかもしれない。
13話、了