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永遠のアセリア
Recordation of Suppressor


20話 彼女の名は














 木造の天井が見えた。どこかは分からない。自分が知らない場所だけなのは、はっきりとしていた。
 天井には木目が見える。その木目はちょうど顔のように見えた。笑っている……不気味な笑顔を向けている。
 上半身を起こして周囲を見回す。自分が寝ているのはベッド。硬いベッドで寝心地はお世辞にもよくない。
 ベッドの右側に扉がある。部屋に窓はない。部屋の一角には木箱も積まれていて、本来の用途がいまいち掴めない部屋だった。
 不意に左腕全体に巻かれた包帯に気づく。きつく縛られているので、少し窮屈にも感じる。

(どこだ……?)

 そもそも俺はどうなったんだ?
 確か砂漠にいて……そうだ、誰かに助けられたのか?
 そう考えると、見知らぬこの場にいるのも頷ける。でも、誰が?

(『鎮定』は?)

 手元にはない。近くにあるのは感覚として分かるが、この部屋の中にはなさそうだった。
 とりあえず砕かれていないのには一安心だが。
 ……これからどうなるんだ?
 状況が不透明すぎる。どうにか状況を把握しなくては。
 と、扉が開かれた。入ってきたのはグリーンスピリットだ。
 その顔を見た瞬間、不思議な高揚を感じた。

「お前は……」
「……覚えていたのですか」

 それはそうだ。忘れるはずがない。
 肩口で切り揃えれた緑の髪、細長い睫に透けるような茶の瞳。背中には槍の柄が見える。
 いつぞや第二詰め所を襲撃してきたウルカの部下を率いていた、緑のスピリットだ。
 ということは、ここはサーギオスの勢力圏なのか?

「あなたは私が砂漠で偶然見つけたんですが、どうやら命に別状はないようですね」
「お前が手当てを?」
「ええ……少し不本意でしたけど」

 緑は肩をすくめるようにして、視線を外した。表情は憂い顔だ。
 ……ああ、そうか。俺はこいつの目の前で部下を殺している。憎まれていてもおかしくない。
 緑は俺の顔を覗き込んで訊いてくる。

「もし私があなたを殺す、と言ったらどうします?」
「どうって……どうもできないな。神剣がない以上は勝ち目もないし、何よりお前には俺を憎むだけの理由がある」
「では殺されてもいい、と?」
「そうは言わない……でも、そうされても仕方がないとは思ってる」

 だから、次の瞬間にはこいつに殺されていても、それを恨んだりはしないだろう。
 それにこいつに助けられなければ、そもそもこんな話さえしていない。
 俺を生かすも殺すも彼女次第だ。
 緑は首を横に振る。その表情に敵愾(てきがい)心は見られない。

「……嘘です。仮にあなたを殺してあの子が戻るならまだしも、世界はそういう風には回りませんから」

 女は明らかに苦笑を浮かべる。
 俺はそれにどんな顔をしてやればいいのか、分からない。

「それに殺した殺されたの恨みは持ちたくありませんから……きりがありませんから。ですから、あなたの命を奪いはしませんが、ご自身の立場は理解していますね?」
「捕虜……でいいのかな? 待遇は知らないが」
「ご明察。神剣もこちらで預かっています。こちらの手をあまり煩わせないようお願いします」

 緑が俺の目を見ている。透けるような茶の瞳は綺麗な色だと素直に思う。好きな色だ。

「ところで、ここはどこだ?」
「ここはサーギオスの駐屯所……ダスカトロン砂漠のとある場所、とだけ言っておきましょう」

 ……となると、サーギオス領ではなくマロリガン領なのだろうか。
 どちらにしても、今の自分の状況には余り影響はないかもしれないが。

「場所は分かった……次に君は誰だ? 俺はランセル……よければ名前を聞かせてくれないか?」

 女は怪訝そうにする。少しの間のあと、緑は口を開く。

「私の名前は――」

 名前を告げるよりも先に、扉が勢いよく開かれた。
 中に入ってきたのは一人の男と、スピリットが二人。
 丸眼鏡をかけた男で、鼻は高く伸びている。薄茶の髪で、前髪は七三に分けられ、眉は細く長くて顔も細長い。
 眉根を下げた表情は不愉快とも尊大とも取れる。
 着ているのは黒いコート。大きさは体に合っておらず、服のほうが一回り大きいようだ。
 胸元……どころか前は完全に開け放たれていて、生身の体が露出している。
 胸の上は案外と筋肉質に見えるが、下側にはそういった様子は見られない。
 着こなしは個人的にはどうかと思うが、人の趣味に口出しをするのも野暮か。
 上手くは言えないが、この男からはいい印象を感じない。
 嫌味だとか、腹に何か一物抱えていそうだとか、そんな確証のない悪印象だ。
 二人のスピリットは共に赤い髪をしていて、瞳も黒く淀んでいた。

「おやおや、目を覚ましているではありませんか。すぐに報告しろと私は言っておいていたはずですがね?」
「……申し訳ありません」
「まったく前の隊長といい、役立たずのスピリットにはほとほと困りますね。見張り一つ満足にできないとは」

 男は皮肉と嘲りを隠そうともせずに言い放つ。
 ……前の隊長というのは、もしやウルカを指しているのだろうか。緑の顔を盗み見ると、それは疑念から確信に変わった。
 男は視線をこちらに向ける。

「初めまして、エトランジェ殿。私、ソーマ・ル・ソーマという者で、今は故あってサーギオス帝国に加担しているのですがね」

 ソーマ……なるほど、この男か。道理でみんなに生理的に受け入れられない、などと言われるわけだ。
 スピリットに対してずいぶんと露悪的な男だ。

「あなたは我がほうの捕虜……本来なら処刑しても構わないのですが、私の好意により生かせています」
「……何が言いたい?」
「なあに、その分の代価が必要なだけですよ。あなたの知る今のラキオスの情報です」

 今の、か。確かにここ一年ほどでラキオスは大きく様変わりしつつある。内でも外でも。

「……一つ間違えている」
「ほう、それは?」
「俺は人間だ」

 ソーマはいくらか目を丸くして、俺を見た。そして失笑に変わる。

「なるほど。減らず口を叩くだけの体力はあるということですな。なに、初めから素直に喋ってもらおうとは思っていません」

 ソーマは後ろに控えている赤いスピリットの右側に目配せする。

「連れて行きなさい」

 それに噛み付いたのは、あの緑だった。

「お待ちください! まだこの男は意識が戻ったばかりで、下手に動かしては危険です!」
「ですが、見たところ健康そのものに見えるのですがねえ?」
「私は反対です! 無理に話を聞きだそうとして取り返しのつかないことになっては……」
「残念ですがスピリットの意見は聞かないことにしているのです……早く連れて行きなさい」

 ソーマの再度の命令で赤スピリットが動き出す。
 抵抗は無駄だと承知していた。赤スピリットは俺を乱暴に担ぎ上げる。

「人間のことは人間に任せればいいのです。スピリットに人間を理解できるはずがないでしょうに」

 侮蔑を込めてソーマは吐き捨てた。それは妙に心に引っかかる。
 だからか、言わないでもいいことを言っていた。

「……そうとは限らないだろう」
「……む?」
「スピリットが人間を理解できないことはないはずだ。その逆だって、そうだ」

 ソーマは無言で俺を見る。それはすぐに呆れへと変わったようだ。

「あなたは何も分かっていない……違う種族同士がどうして手と手を取り合えるなど言えるのですか」
「自分にできないからって、みんなが同じだと決めつけるな」
「……不愉快な人ですね……さっさと連れて行けと言ってるでしょう! 何度同じことを言わせるのですか!」

 俺を担ぐスピリットの動きが早くなる。こいつの感情は俺には分からない。

「これだからスピリットは嫌いなんですよ……」

 ソーマも後に続いて部屋を出る。もう一人の赤スピリットはその背を守るようについてきていた。
 部屋に残されているであろう、あの緑がどう感じたのかは分からない。












 ラキオスのスピリット隊がランサに帰還してから、丸二日が経過している。
 誰もが心身ともに疲弊していて、その二日は完全に休息に当てられた。
 マナ障壁の消滅は確認されていたが、それを素直に喜べる者は一人もいない。
 そのために彼らは一人を欠いている。
 戦えば誰かが死ぬ、その現実を改めて突きつけられていた。
 勝利に慣れすぎていた彼女たちには、逆に考えないで済んでいたことでもある。
 だが良い知らせもあった。行方不明になっていた悠人とアセリアが発見されたという知らせだ。
 二人はその日の昼に、Eジャンプを利用してランサに着くことになっている。
 スピリット隊は全員で悠人たちを出迎えに行った。
 着くまでの待ち時間、普段ならば雑談が弾みもするのに、その日はそうならずに時間だけが重くゆっくりと過ぎていく。
 そんな時間も永遠に続くわけではない。
 装置が動き出して、(にわ)かに技術者たちも慌しく動き始める。
 誰もが固唾を飲んで見守る中、筒状の装置から光が漏れ出す。そして光が収まった時には、装置は役目を果たしていた。
 悠人とアセリアがいる。悠人は深呼吸をしてから、装置から出る。

「パパー!」
「ユート様ー!」

 オルファとネリーが競い合うように悠人に飛びかかる。
 当然の行動に悠人はよろめきながらも、踏み止まって二人を受け止めた。
 そんな悠人を余所にエスペリアはアセリアに近寄る。

「アセリアもよく無事で……」

 そしてエスペリアは異変に気づいた。アセリアがまったく反応を示さない。
 元々、感情表現の希薄なところはあったが、無反応ということはなかった。

「アセリア……?」

 アセリアの表情が動く。エスペリアは呆然とした。

「ユート様……アセリアが……」
「……分かってる。その話もしないとな。まずは館に行こう……たぶん長くなる」
「分かりました……」

 エスペリアは不安げにアセリアを見た。
 アセリアの目からは光が消えている。黒く、底の見えない瞳に変わっていた。神剣に魂を取り込まれた瞳だ。
 一同は館に戻ると、居間の食卓に座っていく。
 エスペリアは戻るなり全員分の茶を用意し始めていた。
 皆の気分を(くつろ)がせるだけでなく、普段通りの行動をすることで自身の気持ちを落ち着かせたかった、という側面もある。
 悠人はアセリアを自分の隣に座らせ、エスペリアが全員に茶の入ったカップを配り終えて席に着いたところで、悠人は話し始めた。

「まずはどこから話せばいいかな……エスペリアとウルカに訊きたいんだけど、俺とアセリアが消えた時のことは覚えてるか?」
「はい、大体のことでしたら……」

 ウルカも同意するように頷く。

「……タキオスってやつを知ってるか? 黒い大男で……もしかしたら『求め』よりも強い力の神剣を持っていたやつと戦ったんだ。アセリアと二人で。二人はそいつを知ってるか?」
「……存じません。ウルカは?」
「手前もです。それほど強力な相手が?」
「ああ。しかも絶対に敵だ。目的は分からないけど、いつかまた対峙することになると思う。あんな化け物みたいなやつ、初めて見たけどな……」

 場の空気が一気に重たくなる。まだ見えない敵だからこそ、余計に不安が強くなってしまう。
 その空気を払うように茶を啜ってから、セリアが尋ねる。

「それでユート様は、その大男と戦ってどうなったんですか?」
「ああ……実は俺たちはハイペリアに飛ばされたんだ」
「ハイペリア!?」

 一同の驚愕の声が上がり、場がざわめく。
 それが一通り静まってから、悠人は話を続ける。

「そこで何があったかは詳しくは言えないんだけど……こっちに戻ってくる時にアセリアは力を使いすぎて、こうなったんだ……」

 一同の視線がアセリアに集まる。
 どこを見ているか分からない茫洋とした瞳だけが今の彼女を表しているようだった。

「……アセリアはどうするのですか?」
「そのことなんだけど……レスティーナからは戦わせて欲しいって言われてる。戦えないわけじゃないからな……」

 そう言いながらも悠人の表情からは、アセリアを戦わせるのに乗り気でないのが窺えた。
 それでもアセリアがラキオスの貴重な戦力なのは否定できない事実だ。
 彼女を戦力から外したくない、という気持ちは悠人にも分からないでもなかった。

「俺からも一つ訊きたいんだけど」

 悠人の言葉に他の者は身を硬くした。
 すでに悠人は一つの違和に気づいている。気づいているが、なかなかそれを問い質せずにいた。
 避けたがっている、という雰囲気を感じ取ったのもあるかもしれない。

「……ランセルはどうした?」

 誰もすぐには答えなかった。ややあって答えたのはエスペリアだ。

「未帰還……実質の戦死判定です」
「……嘘だろ?」
「嘘では……ありません」
「なんだよ……俺がいない間に何があったんだよ?」

 エスペリアは悠人に事のあらましを説明し、悠人はただ黙って話に耳を傾けている。
 話を聞き終えた悠人は顔を曇らせていた。

「……それって俺がいなかったばかりに起きたのか?」
「それは考えすぎです……起こるべくして起きたことです……」

 エスペリアはそう答えるが、彼女自身が自分の言い分に納得していないようだった。

「ユート様」
「どうした、セリア?」
「こんな状況ですが、今後はどのようにするおつもりですか?」
「……マナ障壁は解除されてるんだよな」
「はい」

 悠人は一同の顔つきを見渡す。傾向で言えば、誰もが暗い顔をしている。
 それでも、と悠人は思う。今の自分たちは前を見て進むしかないのを。

「準備が整い次第、スレギトを目指す。決着をつけに行こう」













 『鎮定』の所有者でよかったと思える瞬間がある。
 痛みに疎いのは、自分を支える要素の一つであるのかもしれないからだ。
 平たく言えば拷問を受けていた。幸いなことに痛みはほとんど感じなかったので、口を割らずに乗り切れた。手元に『鎮定』がなくとも、痛みは感じずに済んだ。
 だが痛みがないというのは、逆に自分でも気づかないうちに致命傷を受けている可能性にも繋がる。無痛と無敵はまったく違うのだから。
 状況は相変わらず良くない。手足には枷が嵌められていて、壁に拘束されている。
 体の傷はとりあえず見ないことにした。このままここにいれば、また増えるだろう。
 静寂ばかりの部屋にいて、耳が一つの音を聞いた。扉が開かれた音だ。
 ソーマが戻ってきたのかとも思ったが違った。

「……君か」
「……拘束を外します。動かないでください」

 あの緑だった。彼女は拘束を一つずつ足のほうから外していく。

「……いいのか?」
「よくはないでしょう。立派な背信行為ですから」

 そう言いながらも彼女はやめない。

「……酷い目に遭ったようですね」
「ああ……そうだろうな。爪の間に何を入れられたかとか聞いておくか?」
「遠慮します」
「賢明だ」

 拘束が全て外された。緑は俺の傷を見てから、回復魔法を唱えた。
 傷が癒えていく。それを見て彼女は一言呟く。

「……嘘つき」
「いきなりなんだ?」
「人間なら神剣魔法では治りませんから」

 それはそうだが……どの道、反論できない。
 緑は背負い鞄を俺に押しつける。

「鞄には数日分の食料と水を詰めてあります。それから服も……後ろを向いてますから着替えてください」

 緑は背を向けた。とにかく言われたように着替え始める。
 草の繊維で織られたらしい簡素な肌着に、その上から裾の短いコートを羽織った。色は深緑だった。
 そういえば夜目だと純粋な黒よりも、やや緑が混じった黒のほうが見えにくいという話をどこかで聞いたことがある。
 これはその色に近いのでは。
 彼女はそこまで考えていたのだろうか……いや、ただの偶然だろう。
 着替え終わったのを伝えると、緑の女は振り返り俺を見る。
 彼女は俺の姿を興味深そうに見ていた。

「……どこか変か?」
「いえ。そうではないですけど……」

 やや歯切れ悪く答える。
 それを誤魔化すように、彼女は急いで一本の剣を取り出す。『鎮定』だ。

「これがあなたの剣ですね?」

 『鎮定』を渡される。受け取って改めてみるが、確かに本物だし異常も見当たらない。

「……どういうつもりだ?」
「あなたを逃がします。ついてきてください」

 彼女は歩き出す。こちらなどお構いなしに。
 ついていくしかない。俺も後に続いた。
 俺が部屋から出るとすぐに、緑は別のスピリットを部屋の中に入れる。
 そのスピリットは昏倒しているようだったが、死んではいない。

「見張りのスピリットです。消滅させたら、すぐに気配で勘付かれてしまいますから」

 ……だとしても騒ぎを起こさずに気絶させるのも並大抵じゃないと思う。
 今この瞬間は彼女が敵でないのに、密かに安堵した。
 緑は俺を正面から見る。その表情には緊張も動揺もなかった。

「逃がす前に一つ訊きたいのですが、ラキオスにウルカ隊長はいるのですか?」
「……ああ」
「隊長は……お元気ですか?」
「大丈夫だ。それにあっちのスピリットたちとも馴染んできてる」
「……よかった」

 そこで初めて緑は笑顔を見せた。控えめな笑みだが、本当に安堵しているようだ。
 緑はすぐに笑顔を消すと、先導して歩き始めた。
 いくつかの道を曲がっていく。外に向かっているのは確かだが、他のスピリットたちがいないであろう道筋を選んでいるようにも思う。
 ある曲がり角に差しかかろうとした時、緑は突然振り返ってきた。

「一つだけ頼みたいことがあります」
「……なんだ?」
「これを隊長に届けて欲しいんです」

 そう言って取り出されたのは帝国の紋章が刻まれた書簡だった。

「ウルカに渡せばいいんだな?」
「はい。確実に届けてください。もし届けられなかったら呪います。途中で覗いても祟ります。いいですね?」
「……そんなに大事なら自分で渡せばいいだろ」

 しかし、彼女は頭を振る。その答えは予想していたが、当たってもいい気持ちはしない。

「頼みます……それでは行きましょうか」

 女は歩き出す。その背に向かって呼び止めていた。
 一つだけ、どうしても言っておかないといけない。

「……一ついいか?」
「……何か?」
「人間がみんなあの男のように考えてるとは思わないで欲しいんだ。もっと正面から向き合いたい人間だっているのを知っていてほしいんだ」

 彼女は訝しげに俺を見る。真意を図りかねているようにも見えた。

「そんなこと……私はもう子どもと呼べる歳じゃありませんから」

 彼女の答えの意味を掴みかねた。
 言われなくとも知っていると解釈すべきか、考え方は早々変わらないと言いたかったのか。
 少し迷ってから、前向きに捉えようと思い直す。

「……礼を言うべきなのか?」
「お好きなように」
「……ありがとう」

 緑はいくらか困惑したようだった。それからやはり困ったように視線を逸らした。

「そういえば私の名前……言ってませんでしたね」
「あの時は聞きそびれたからな」
「……アリカ・グリーンスピリット。それが私の名前です」

 ……何かの聞き間違いかと思った。
 彼女の名前を聞いて、俺はどんな顔をしていたのだろう?












「……もう夜か」

 高嶺悠人は独りごちた。窓の向こうではいつの間にか日が沈んでいる。悠人は今、寝室に一人でいた。
 部屋の中には灯りがついているので、明るさには困らないが、外は暗く先が見通せない。
 双方の出来事を確認しあった後、悠人はエスペリアとセリアと共に今後の戦略について練っていた。
 大筋で決まったのは、第一にスレギトを攻略すること。そうしなければ話にならない。
 スレギトを起点としてマロリガン首都を目指すとして、ラキオスが取るべきルートは三つあった。
 三つのルートには、それぞれ特徴がある。
 第一は西進し二ーハスの街を目指し、そこから南下するルート。
 首都までの道のりは長い代わりに、マロリガンの防衛線も比較的手薄である点。
 ニーハスの街の北方にはソーン・リーム中立自治区があるが、双方とも長年の間に渡って不可侵の立場を取り続けていたため、ニーハスの防衛拠点としての重要度は低いためだ。
 第二ルートはスレギト南西のミエーユを経由し、そこから西進して首都を目指す。
 これは最も首都までの道のりが短い。
 それだけにマロリガンも戦力を集中している可能性が高かった。
 第三のルートはスレギトを南下し、旧デオドガン商業組合圏を解放した後、西部のガルガリンを目指すルート。
 デオドガンを早期に解放することで、援助を受けられる可能性が高くなる。
 一方、デオドガンに駐留するスピリットを含めて、事前に多くのスピリットを配備している可能性が高い。
 デオドガンを経由することで、補給は楽になる可能性が高いものの、場合によっては首都まで最も時間のかかる可能性もあるルートだ。
 結果として、どのルートを採るかは決まらずじまいだった。
 スレギト攻略後に敵戦力の配置を確認してからでも最終決定は遅くない、という判断がある。
 悠人個人としては第二ルート、つまり最短ルートを選びたかったが、実際にどう動くかはその時になってみなければ分からない。

(ん……?)

 窓の外で何か赤い物が揺れ動いているのを見つけた。

「……ナナルゥ?」

 赤く見えたのはどうやら髪のようだった。髪だとすれば誰かは自然と絞り込める。
 引っかかるものがあったのか、悠人は部屋を出て館の外に出た。
 館の外はいくらか肌寒い。悠人は身震いしてから、ナナルゥを目で探す。
 ちょうどその時、緩やかに伸びる笛の音を聞いた。ナナルゥの草笛だ。
 悠人は音のするほうへと歩いていく。
 ナナルゥの姿を見つけた時、彼女は一人だった。
 邪魔をしては悪いと思い、物音を立てないように近寄っていく。
 その時、草笛の音が止んだ。

「……誰?」
「あー、悪い悪い。俺だ、悠人だ」
「これは……失礼しました」

 悠人は謝りながら姿を見せる。
 ナナルゥは木の幹に寄りかかるように立っていた。

「草笛か?」
「はい。気分が落ち着かなかったので」
「ナナルゥでもそういうことあるんだな……って、ごめん。別に悪気があって言ったんじゃないけど……」
「別に構いません」

 そう言いナナルゥは草笛を吹き直す。
 高い音は風に乗って辺りを包むように広がっていく。悠人が傾聴していると、突然音が止まってしまう。

「どうしたんだ?」
「ランセル様のことを思い出しました」

 悠人はいくらか表情を強張らせる。
 その場にいなかったのを仕方ないと思いもするし、逆に自分がいればという悔恨の念もあった。

「ランセル様が一人で敵陣に残っていた時、私は速やかに撤退する意見を支持しました。ですが、その前に私はシアーに誰もいなくなって欲しくないとも言いました」

 ナナルゥは悠人と目を合わせる。悠人も同じように見返す。

「きっとランセル様はあの時、あの場に私たちが留まったり助けに来ることを望んではいなかったでしょう。それに私たちにはすでに余力がなかった……残っても稲妻を突破して助けられたとは思えません」

 ナナルゥの表情にも声にも揺らぎはない。淡々と彼女は続ける。

「でも思うのです。もしもあの時、私たちが手を伸ばしていたらランセル様は助かったのかもしれない、と。それより共倒れになる可能性のほうが遥かに高いのにです」
「……ナナルゥは自分たちが間違えたと思ってるのか?」
「いえ。あの時、手を伸ばしても本当に届いたとは思えません。手を伸ばす先には猛獣がいて、あわよくば腕を喰いちぎろうとしているのに、準備もなく手は伸ばせません」

 ナナルゥはそこで一息つく。その姿はどこか話し疲れているようにも、悠人には見えていた。

「……でも、いざ時間が経つと思ってしまうんです。腕よりもあの人は私たちには大切だったんだと」
「……どっちも大切だろう」
「はい……我がままなんでしょうね」

 そう言ってナナルゥは空を見上げた。つられて悠人も見上げる。
 星が空一面に輝いていた。その数を正確に数えるのは無理だと、悠人は思う。
 悠人は何の気はなしに言っていた。

「俺さ……みんなの前でランセルはまだ生きてるって言えなかった。諦めてほしくなんかなかったのに」
「……言わなくてよかったと思います」
「……そうか?」
「はい……私たちは踏ん切りをつけなくてはいけませんから」

 悠人は何も言えなかった。
 自分一人だけが取り残されたような寂しさを感じながら。
 ナナルゥはまた草笛を吹き始めていた。楽譜のない音楽は気がつけば終わっている。

「……以前はアセリアもこれを聴いていたんですよね」

 悠人も知っている。何度かその場面を見ているからだ。

「……心配か?」
「……そうでしょうね」

 星空の下、時間は流れていく。星だけはいつものままの輝きを放っている。












 建物の外に出ると、外はいつの間にか夜になっていた。夜空には気持ち悪いぐらいの星々。いつ見ても変わらない光景に少し辟易とする。
 辺りは砂ばかりの砂漠だが、建物の隣にだけ緑地があった。もしかしたら、あの辺りには水が湧き出ているのかもしれない。
 俺とアリカは影に紛れるように、建物から離れていく。

「そういえば体は大丈夫ですか?」
「……どうかな。正直、体が少しだるい気がする」
「そればかりは休息を取るしかないですね。もうしばらく頑張ってください」

 アリカの言葉に頷く。
 しかし……考えてみれば、同名のスピリットがいたとしてもなんらおかしくない。
 それがよりにもよって彼女なのは、数奇な縁とでも言うべきなのか。

「アリカ、スレギトはどっちだ?」
「ランサではないのですか?」
「スレギトでいい」

 アリカは一点を指し示す。頭上の星と比較して、大まかな方角を頭に叩き込む。

「どうしてスレギトに?」
「……もうそろそろラキオスも攻勢に出ている時期だ。それだったらスレギトが落ちてるのを見越して、そこに向かう」
「……信用してるのですね」
「そうかもな」

 そして進もうとした瞬間だ。
 背後の建物から神剣の気配がいくつも強まる。

「気づかれたようですね」

 アリカは呟く。焦りはなく余裕さえ感じる落ち着きようだった。
 おそらく最初から分かっていたのだろう。

「ここからは一人で行ってください。二人揃ってではもう逃げられないでしょう」
「……一人で捨て駒にでもなろうとしているのか?」
「自惚れないでください。あなたより私のほうが戦力としては上です。大体、間違えています。私がここに残るのは仲間のため。あなたのためじゃない」

 アリカはさらりと言ってのける。
 俺が何を言おうと、彼女が引き下がりそうにないのは目に見えていた。

「分かった……だけど、また会うかもしれない。今度は別の形で会いたいが……」
「……口説いてるんですか?」
「そんな気はないが……」

 だが会いたいという気持ちも嘘ではないのだろう。敵としてでなければだが。

「ランセル……殿?」
「呼び捨てで構わない」
「ならランセル……あなた、私の名前知っていたんですか?」
「いや……」
「……そうですか。おかしなことを訊きました」

 アリカは俺に背を向ける。
 ……そうか。また俺はアリカというスピリットの背中を見ているだけなのかもしれない。
 今度も俺は手を伸ばせないのか?
 俺のそんな考えを断つように彼女は言った。

「それでは、さようなら」

 彼女は微笑を浮かべて俺を見る。すぐに言葉が出てこなかった。

「手紙……お願いします」
「分かった……また会おう」

 アリカは微苦笑を答えとする。
 そして建物のほうへと戻っていった。

(進もう)

 それしかない。せめて彼女の願いだけは叶えてやりたかった。
 だから後ろは見ない。前だけを見てスレギトを目指す。
 俺は再び砂漠に足を踏み出した。今の俺にできるのはそれだけだ。












 アリカ・グリーンスピリットはソーマと対峙していた。
 ソーマのすぐ後ろは木造の建物だが、追い詰められたわけではない。逆に追い詰められているのはアリカだった。
 戦力差は火を見るより明らかだ。
 アリカの周囲をスピリット九人が取り囲んでいる。
 いずれもソーマズ・フェアリーの生き残りだ。
 覆しがたい戦力差を背景にソーマは余裕の笑みを見せていた。

「あなたにはつくづく困りましたね……これは立派な裏切りですよ?」

 アリカは答えない。己が神剣を携え、肯定も否定もせずただ黙っている。
 その様子をソーマは意に介さないようだった。

「まあ、どうせ聞きだせる情報など大したものではなかったでしょう。それ以上に問題なのは、あなたがここで私に抵抗の意思を見せていることです」

 ソーマの表情から笑顔が消え、アリカを睨みつける。

「剣を引きなさい、スピリット」
「……断ります」

 アリカの神剣は槍状の神剣で、その長さは大人の背丈と同じかわずかに長い。槍にしては短い部類に属する。
 彼女は槍を円回転させ、穂先をぴたりとソーマに合わせる。

「抵抗するつもりですか? 無駄なことを……」
「……決めつけないでくれますか?」
「ふむ……スピリットの分際で人間である私を殺そうというのですか」
「ソーマ・ル・ソーマ。あなた、事故死という言葉は知ってるかしら?」

 アリカは距離を窺うように一歩を踏み出す。
 周囲のフェアリーは微動だにしない。しかし、いつでも飛び出す準備が出来ているのをアリカは分かっている。

「戦闘に事故はつきもの。偶然巻き込まれたなんて、よくある話ではありませんか。それに私たちに人を殺せるよう教えたのは、あなたたち人間。それが巡ってあなたの身に返るだけ」
「道具でしかないスピリットが、よくも勝手なことを……」
「あなたは、その道具に殺されるのよ」

 アリカはもう一歩ソーマに近づく。それが最後の一線だと判断する。
 彼女は神剣に向かって囁く。

「力を貸して、『恩恵』」

 刹那、スピリットたちが弾かれるように動いていた。
 アリカは前へ、ソーマを目指して。ソーマズ・フェアリーはアリカを仕留めようと四方から殺到する。
 その中でも一番初めに接触するのは、正面から迫るフェアリーたちだ。
 行き足を押さえようと、進路を塞ぐように向かってくる。掻い潜るだけの広さはない。
 アリカはシールド・ハイロゥを左手甲に展開させる。
 そして先頭の一人が剣を振るよりも早く、シールドを脇腹に叩き込んで薙ぎ払う。
 その間に二人目が接近している。剣を右肩に乗せるように構えていた。
 剣が振り下ろされる瞬間と未来位置を見越して、アリカは穂先を突き出す。
 確かな手応えと共に、相手の剣が浮く。
 アリカはそのまま右足を軸として一回転し、回転の勢いをもってシールドにて殴打。
 進路が開く。彼女の進路を阻むスピリットはあと一人。
 アリカの足運びは速かったが、道を開いている間に他のフェアリーたちにも距離を詰められている。
 前に進もうとした矢先に、アリカは背を斬られた。
 痛みに動きが鈍りそうになるものの、彼女は前へ出る。
 背中に迫る殺気を振り払うように前へ。最後の一人と高速で行き違う。
 すれ違いざまの斬撃をアリカは『恩恵』の柄で弾いていた。
 同時に治癒の神剣魔法も行使している。
 しかし詠唱時間が短いので、治癒の効果も薄い。しかし、アリカは意に介していなかった。
 アリカの視線はソーマを捉える。
 狼狽(ろうばい)でもしているかと予想していたが、予想に反してソーマに慌てた様子は見られない。
 その態度に不審を感じたが、それを検討している暇はなかった。
 アリカは跳ぶように駆ける。『恩恵』は間合いに入った瞬間、ソーマの胸を穿つために引き絞られている。
 両者の間には誰もいない、そのはずだった。
 その時、ソーマの背後の建物から黒い影が飛び出す。
 ブラックスピリットなのはアリカにも分かる。場合によってはブラックスピリットごとソーマを射抜くつもりだ。
 だが、それもブラックスピリットの顔を見るまでだった。

「……そんな……」

 アリカの動きが停まる。そのブラックスピリットを彼女はよく知っていた。
 ウルカ隊の一人で、彼女の大切な仲間。そのはずだった。
 黒く濁った瞳だけが彼女の記憶とは違う。
 ブラックスピリットが剣を抜こうとする。しかしアリカは反応できない。
 一閃。斬撃がアリカの胴を切り裂き、崩れ落ちそうになる。
 そこに後ろからフェアリーが追いつき、アリカを組み伏せた。『恩恵』もいつの間にか、別のフェアリーに奪われている。
 手負いのアリカにそれをはね除けるだけの力はない。

「いやはや驚いたでしょう。あなたの部下で教育が上手く行ったのはまだ彼女だけでしてね。他のスピリットはなかなかしぶとい……いや、愉しみ甲斐があるというものですが」

 ソーマが押さえつけられたアリカの近くまで来て、見下ろす。嘲笑を顔に張りつかせて。

「それにしても惜しい。道具が仲間意識など持つものではないですねえ……そうすれば望み通り私を手にかけられたでしょうに」
「……くせに」
「?」
「スピリットが嫌いなくせに……そのスピリットがいないと何もできないくせに……!」

 ふむ、とソーマは頷くように呟く。そして、アリカの頭を足で踏みつけた。
 体重をかけて、額が地面を擦るように。

「いけませんねえ、そういう口の聞き方は。これからはあなたにも私の人形として働いてもらわないといけないのですから」
「誰が……!」
「初めは誰もがそう言うのです。ですが、今までに私から手ほどきを受けて、私に逆らえたスピリットはいません。とはいえ、舌を噛まれてはもったいない。しばらくは我慢してもらいましょうか」

 ソーマが目配せすると、ブラックスピリットが轡を噛ませる。
 アリカも抵抗するが、ほとんど意味をなさなかった。
 声が言葉にならず、くぐもった音に変わる。ソーマはかえって満足げにその声を聞く。

「神剣のないスピリットではどうにもできませんよ。さて……次はおそらくラキオスですか。彼らが来るまで、せいぜい愉しませてもらいましょうか」

 ソーマの忍び笑いだけが響く。
 その様子をアリカはぼんやりと眺め、次いで仲間のブラックスピリットを見る。
 彼女はアリカと確かに目を合わせていた。しかし、そこからは何の感情も読み取れない。
 しかし、アリカは思う。
 彼女の目にこそ浮かんでいるのは、絶望かと。










20話、了






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