永遠のアセリア 1
Recordation of Suppressor
39話 託された重み
2
ラキオス王国とサーギオス帝国の決戦があった、その日。
正体不明のスピリット集団によって、世界各地のエーテル関連施設が襲撃され破壊され始めた日でもあった。
それらの報告はさらに遅れてレスティーナの耳に届くことになり、それは今しばらくの時間が必要となる。
だがスピリット集団はサーギオスとの戦いを終えたばかりのレスティーナらの前にも現れていた。
最初から戦闘態勢に入っていたので、護衛に就いていたファーレーンを初めとするスピリットたちが迎撃に出る。
戦い初めてすぐに彼我の実力差が明らかになった。
正体不明のスピリットは、一般的なスピリットの戦闘能力を凌駕している。
二対一で戦ってようやく互角に戦えるかもしれない、という状態だった。
だから、ファーレーンたちが窮地に立たされたのは、無理からぬ話である。
彼女たちの窮地を救ったのが、倉橋時深だった。
突然戦場に割って入ったかと思うと、近づくスピリットたちを一瞬の内にマナへと還していく。
時深の動きは優雅で華やかでさえあって、何より圧倒的だった。
正体不明のスピリットたちが全員消滅するまで、時間はかからない。
時深は呆然とするラキオスのスピリットたちを尻目に、その足でレスティーナの元へと向かう。
それらの光景をまたレスティーナも見ていた。
「初めまして、レスティーナ女王。私は倉橋時深。この世界を守るために馳せ参上しました」
遅れてやってきた悠人や光陰らによって、その言葉が裏付けられる。
そして、レスティーナは知らされる。
サーギオス帝国にはそもそも皇帝などいなかったこと。『誓い』こそが、サーギオスという大国を動かしていたこと。
『誓い』と秋月瞬の顛末。瞬が『求め』を砕き、『世界』を持つ新たな存在、統べし聖剣シュンへと変貌したこと。
時深もまた、端的に語る。
彼女とシュンは共にエターナルと呼ばれる存在であること。
そのエターナルは目的の違いから二つに分かれ争っており、それぞれがカオスとロウを名乗っていること。
時深が属するのがカオスで、シュンはロウに与していること。
正体不明のスピリットはエターナルミニオンと呼ばれる存在で、ロウエターナルの尖兵であること。
そしてロウエターナルの目的が世界を消滅させマナへと浄化することにあり、カオスエターナルはそれを防ぐために戦っているということ。
時深はまだ全てを語っていない。しかしレスティーナが現状を認識するには、それで十分だった。
すぐに今後の行動と対策が検討される。行動に移るのは早かった。ロウ・エターナルが動き出している以上、時間はないものと考えられた。
まずラキオス城を防衛しなくてはならない。
サーギオス帝国を打ち倒したラキオスは今や大陸内で唯一政治機能が正常に機能している国である。
同時にエーテル変換施設を王城内に保有していた。
そこで光陰と今日子を中心とした主力が、大急ぎでリレルラエルまで帰還しEジャンプでラキオスに帰還、レスティーナが戻るまでの守備を司ることになる。
レスティーナは人間なのでEジャンプは使用できない。そこで護衛に守られながらラキオスまで戻るしかない。
その護衛を務めるのが、光陰たちとは別行動となるスピリットたちと時深となった。
これはレスティーナが時深を信用したという証拠でもある。また道中、エターナルに関する話を聞くつもりでもあった。
時深も無論、そのつもりである。
『求め』を失った悠人と佳織は、レスティーナたちと行動し、リレルラエルに到着したらEジャンプでラキオスに帰還することになった。
もっとも、悠人たちがリレルラエルに到着した段階でEジャンプ施設が破壊されてない保証はないが。
他にもサーギオスの住人たちをどうするか、という問題が上がった。
時深はレスティーナに、ミニオンが各地を襲撃する可能性を示唆している。
それは事実だった。
この段階で知られていないだけで、ミニオンは各地のエーテル変換施設を破壊していくこととなる。
スピリットと同質であり異質である彼女たちは、同時に出会う者が何者でも排除しようとしていく。
それは人間とて例外ではなく、後に残るのはただの虐殺でしかない。
それを避けるためにも、レスティーナは可能な限りサーギオスの住民をラキオス領へ避難させることにした。
避難の指示は主に人間兵のやるべきことであるが、それを守るためにやはりスピリットが駆り出されることとなる。
かくて、サーギオスを打ち破ったラキオス軍は再び動き出す。
しかし勝利の余韻に浸れるはずもなく、強大な敵の登場にまるで敗軍の相を呈してラキオスへの移動を始めることとなる。
サーギオス帝国が滅亡してから一週間が過ぎた頃、セリア・ブルースピリットはリレルラエルの街にいた。
すでにほとんどのスピリットはラキオス城にEジャンプで戻るか、人間の護衛として遠路の途上にある。
セリアがリレルラエルに留まっているのは、ラキオス領へ避難していく人間たちを最後まで守っていたからである。
サーギオス領は広く、避難勧告を出した人間が全て集まるのにどうしても時間がかかる。
一度に避難しようとすれば合流に時間がかかるし、移動も逆に遅くなる。
そこである程度の人数が集まったところで、順次ラキオス領へ向け出発する形となった。
今度は護衛不足になる可能性もあったが、各地のミニオンはエーテル関連施設を優先して狙っているためか、遭遇する機会自体はまだ少なかった。
逆に長くサーギオス領に留まっている方が危険、との判断もある。
それでも全ての住人を避難させられたわけではない。
中にはどうしてもラキオスの指示には従わない者もいたし、幾度か偶発的に生起したミニオンとの戦闘で帰らぬ人となった場合もある。
ミニオンにとって、スピリットも人間も実に平等だった――いたら殺して構わない。その行動原理の元に。
セリアはリレルラエルに留まっているが、残っているのは彼女一人ではない。
ミニオンとの戦力差は大きく、一人だけでミニオンと互角に戦えるのはせいぜいアセリアとウルカ、それにクォーリンを含められるかどうかと言ったところでしかない。
だからセリア一人ではさすがに危険ということもあり、ナナルゥが一緒に残ることになっていた。
「エーテル供給の停止……ジャンパー施設の稼働終了を確認」
ナナルゥが事務的に報告する。セリアは無言で頷いた。
Eジャンプ施設を動かすには外側から操作する者が必要となる。そしてセリアとナナルゥを除いてスピリットも人間もすでにリレルラエルから脱出していた。
どちらかがEジャンプでラキオスまで戻ろうとすれば、片方が取り残されてしまう。
それでは意味がないので、二人は自力でラキオスまで帰還する道を選んだ。二人がかりならミニオンにも対抗できる……ミニオンが一人だけの場合だが。
出立の準備はすでに終わっている。二人はリレルラエルを発った。
セリアたちが最後に出立する部隊を見送ったのが三日前になる。そして、その三日以降はリレルラエルに到着する者は誰一人としていない。
それ以上リレルラエルに留まる意味はなく、むしろ二人は危険だと判断した。
二人はEジャンプ施設を停止後、使用できないように破壊してからリレルラエルを発つ。
「……雨が降りそうね」
「セリアは雨女でしたね」
「何よ、それ」
セリアの剣呑な視線をナナルゥは気にしないで無視する。そうするのが一番安全だと知っているからだ。
青スピリットのセリアは青マナの動きに敏感だからか、セリアがそう言う時はまず間違いなく雨が降る。
「セリアは雨が好きですか?」
「どうかしら……雨のほうが調子がいい時は多いけど」
やっぱり雨女、とナナルゥは内心で呟く。口に出さないのは、出した後のことを考えてだ。
「ナナルゥは雨が苦手?」
「赤スピリットですから」
なるほどな、とセリアは内心で思う。これといった根拠もなく、ナナルゥに雨は似合わないように感じていた。
二人はそれから特に口を開かない。ナナルゥは必要なこと以外は話したがらないし、セリアも今は雑談をする気分にもなれなかった。
それでも歩いているうちに、セリアが話しかける。
「この戦い……どうなっていくのかしらね」
「楽ではないのは確かでしょう」
サーギオスとの決戦を経て、ラキオスの戦力は大きく疲弊している。
悠人は『求め』を失ったことで完全に戦力から除外されていたし、『世界』との戦闘中に吐血した挙げ句に意識を失ったランセルは目を覚まさずにいた。
時深が力を貸してくれるのは、セリアにも心強かったがやはり限界はある。
彼女がいくら一騎当千の力の持ち主でも、シュンもまた彼女と同じような存在で、しかもロウエターナルの戦力は未だに未知数。
何よりもミニオンとの戦力差が、セリアを落ち込ませた。
ミニオンはロウエターナルにとっては雑兵でしかないという。その雑兵一人とさえ、彼女たちスピリットは互角に戦えない。その事実に落ち込んだ。
「私たち、今の戦いで何ができるんだろう……」
「何ができるよりも、何をやるかのほうが重要だと思いますが」
「理屈ならそうなんでしょうけど……」
セリアはため息をつく。口を開いたのを失敗だとも思う。理屈以上に感情が重石のようになっていた。
この時ほど、セリアが自分の無力を痛感したことはなかったかもしれない。
セリアが話をやめたことで、自然に会話も立ち消えとなる。
空にはいつの間にか厚い雲が垂れ込めてきていた。雨は近い。
ふとセリアが足を止めた。ナナルゥは数歩前に出てから止まる。
「どうしました?」
「今、声が聞こえなかった?」
「いえ。空耳では?」
「確かに聞こえた……あっちからね。あの林のほうから」
セリアの視線の先には小さな林がある。進行方向から外れた位置だ。
ナナルゥが問う。
「確認しておきますか? 少し遠回りをするだけですし」
「そうね……何もなければそれでいいし、何かあればその時はその時よ」
ナナルゥも頷く。二人は林に向かう。ミニオンの気配は感じられない。
林に入ったのとほとんど同時に雨粒が垂れてくる。
そうして彼女たちは林の中程で、木の根元に寄りかかるように座っていた青スピリットを見つけた。
傷を負っている。左の肩口が血で染まっていた。染みの量から、かなりの出血をしていたのが窺える。
その傍らには、もう一人。
肩で息をするように、スピリットが口を開いた。
「ラキオスか」
「ええ……怪我してるのね? 応急処置を……」
「それには及ばない……もう私は助からないだろうし、それよりもこの子を頼みたい」
青スピリットは傍らのもう一人を示す。
外套にくるまれているせいで、年齢や背格好ははっきりと分からない。ただ、幼いのだけは確実だった。
セリアがもう一人に近づいて抱き上げる。そして気づく。
「この子ども……人間? でも、どうして……」
「どこから話せばいいのかな……」
そこで青スピリットは咳き込む。質の悪そうな咳だった。
咳が収まってから、青スピリットは深く息を吸い込んで呼吸を整えようとする。
「取り込み中に申し訳ありませんが、あなたの名は?」
ナナルゥが初めて口を開いた。
青スピリットは頭を振る。
「名前はもうない。だから名乗ることはできない」
「じゃあ便宜上……ナナシィとか」
「却下です。私とどことなく被ります」
「そんなのうちじゃ珍しくないでしょ」
セリアは自分の命名由来や、ハリオンとヘリオンを思い浮かべながら言う。
「……本当に名前は要らないから」
青スピリットは初めて笑顔を浮かべた。
「……この子も寝てるし、少し話に付き合ってくれない?」
セリアは頷いた。この話は聞いておかないといけない、そんな気がしたからだ。
ナナルゥにも反対意見はない。
青スピリットは自身のいきさつを話し始める。
「私は……そうだな、脱走兵と言えばいいのかな」
「脱走……」
「戦うのが嫌で……気がついたら逃げ出していた。もう何年も前の話で、名前はその時に捨てた……与えられた名前だったから、必要ないと思ったんだ」
淡々と語るスピリットをセリアは不思議そうに見つめる。
軍から逃げる。そういう発想は今までの彼女に一度も思い浮かんでこなかったからだ。
「……どうして逃げたの? 戦って死ぬのが怖かったから?」
「そう……だな。きっと、そうだと思うよ」
青スピリットの答えは曖昧だった。本心ではないのにセリアは気づくが、問い質すより先に青は話を続ける。
「それで……しばらくはミスレ樹海に隠れていた。あそこは帝国の力も及びにくい辺境だから、身を隠すにはうってつけだった」
「確かに隠れるには最適かもしれませんね」
ナナルゥが口を挟む。ミスレ樹海は帝国西部に位置する樹海で、未だに未開の地でもある。
現在も門番と呼ばれる龍が存在しているという噂もまことしやかに囁かれているが、未開故に真偽は証明されていない。
「それから最近になって貴女たちラキオスがやってきて……それから、あの正体不明のスピリットが現れて。きっと隠れていればこんなことには……」
青がまた苦しそうに咳き込む。
「この子は一人だけでミスレ樹海に来た……どうして一人かは分からない。親とはぐれてしまったのか、親はすでに殺されていたのか……」
「それとも捨てられたか……」
「それはありえない」
セリアの一言を青スピリットは即座に否定した。
「親は子どもを守るものだと、私は教わった。捨てたなど、あってはいけない」
それは理想論でもあった。セリアはそう受け止める。
だとしても名無しの青スピリットはそれを本気で信じていた。それも理解する。
「そう思える、あなたが羨ましいわ」
皮肉ではなかった。
生きていくのは清濁併せ呑んでいくことで、綺麗なものだけを見て生きていくのは無理である。
それこそ逃避でもしない限り――。
「その子を追って、あのスピリットが現れた。私たちと似ているのに、何かが全く違ったスピリットが」
ミニオンのことだ。強いて言えば魂を飲まれたスピリットに似ているが、やはりそれとも違う。
初めから精神性そのものが欠如しているようにセリアには見受けられる。
より戦闘だけに特化したスピリット……それ以外に存在意義を持たないとも。
だとすれば、感情を持つ自分たちは何者かとも思う。その結論は出ないのだが。
「その傷……ミニオンと戦って?」
「あれはミニオンと呼ぶのか……そうだ。この子を見殺しにはできなかった。だから」
「だから戦った」
「ああ。それで、そのミニオンはどうにか倒したんだ……ただ、後が続くなくて。他のミニオンも現れたからやむなく逃げ回ってる内に……ここまで来た」
「そうだったの……」
ミスレ樹海からの逃避行。一日二日で済む話ではない。加えて人間の子どもを連れて、重傷まで負っている。
それがどれほどの苦行か、セリアには想像しかできない。
「後悔はしてない」
「え?」
「私はこの子の親でもない。しかし、この子がみすみす失われるのも直視できなかった……それだけの話だ」
青は弱々しく笑う。セリアはこのスピリットをどうしても助けたくなった。
しかし、それは叶わない。彼女の傷はあまりに深すぎる。
「この子を頼む……済まない、名前を」
「私ならセリア……こっちの彼女がナナルゥ」
「セリアとナナルゥ……ここで出会ったのも何かの縁だと思って、その子を頼む。名前も知らないその子を……」
「この子も名前を……?」
「私には教えてくれなかった。寂しい話だが……しかし嫌いではなかった」
青は目を伏せ、天を仰ぐように顔を上げる。
ナナルゥが遠方からミニオンたちの気配を感じ取ったのは、その時だった。
「ミニオンです……数は三、方角は南。まだ、こちらに気づいていないようです」
「潮時のようだ……それでは、その子を頼んだよ」
青は二人の返事も待たずに立ち上がった。
震える声で、青はセリアに言う。
「セリア……先程の貴女は少し間違えている。私は死にたくないから逃げたんじゃない」
「なら……どうして?」
「私自身の魂を汚したくなかった。納得のいく理由もないままに力を振るうのは、私の魂を汚してしまう」
そこで青は軽く咳き込む。それを飲み下すようにして続ける。
「私は自分の魂だけは汚したくない……私はそうやって生きて、そうやって死んでいきたい。だから、ここでお別れ」
セリアもナナルゥも彼女を止める術を持たなかった。
だから、セリアは男の子を抱きかかえる。重かった。小さいのに重い。
まだ眠っていた。その顔を見て、どうして青が必死に守ろうとしたのか、セリアには分かったような気がする。
セリアは男の子を背におぶった。
「今日、こうして貴女たちに会えたのも母なる再生の剣の導きなのだろう……セリア、ナナルゥ。貴女たちにマナの導きがあらんことを」
「さようなら……名もなき同胞。貴女に母なる光の恩恵があらんことを」
そうして、彼女たちは道を違えた。雨はまだ降り続けている。
林を抜けて元の道へ。途中で神剣の反応を感じるが、それも程なく消えてしまう。
道中、二人は何も口を聞かなかった。
話すこと、それ自体が悪いかのように、ただ黙々と歩き続ける。
天から降り注ぐ雨が体を冷たく叩き、地面をしとしと打っていく。
その音を破ったのが、子どもの声だった。目を覚ましたらしい。
「おかあさんは?」
「……お母さんはどんな人?」
セリアの問いに子どもは、たどたどしい口ぶりで答える。
「青いかみをしてるの」
「……お母さんはね、ちょっと遠くに行ってるの」
「ふ〜ん。おんなじかみだあ」
子どもは後ろからセリアの髪に触れる。力の弱い腕は撫でるように優しく触れていた。
セリアはそれを止めさせない。為すがままだった。
「うた……うたって」
「歌?」
いきなりだった。さすがにセリアは困惑した。
「ナナルゥ……どうしよう」
「私は草笛専門ですから」
ナナルゥに助けを求めたが、すぐに見放された。
「セリアが唄うしかありませんね」
「人事だと思って……仕方ないわね」
迷った末、セリアが口ずさんだのはラキオスの民謡だった。
物心がつく内に自然と知っていた唄だ。誰かの前で唄ったことはない。スピリットには不要だと思っていたのもある。
それを緩やかに、思い返すようにセリアは唄っていく。
伸びる唄は、優しくて、どことなく物悲しい。いつの間にか子どもはまた眠っている。
それに気づいても、セリアは唄うのをやめなかった。
砕かれた神剣が雨に濡れていた。それを見下ろすのは三人のミニオン。
光のない瞳はやがてそこから逸れる。そして何かに呼ばれるように飛び去っていく。それはセリアたちとは明後日の方向だった。
残された神剣は雨に打たれ続ける。それもやがては消えゆく運命にあった。
流れるような雨音だけが唯一の音。
それは誰も知らない鎮魂歌。
静かな音が幕を引いていく。
39話、了
2007年月6日13掲載。